仏法未だ漢土に渡らざる前は黄帝等五常を以て国を治む。其の五常は仏法渡りて後、之を見れば即ち五戒なり。老子・孔子等も亦仏遠く未来を鑑み、国土に和し、仏法を信ぜしめん為に遣はす所の三聖なり。夏桀・殷紂・周幽等五常を破って国を亡ぼす。即ち五戒を破るに当るなり。
<中略>
仏、漢土に仏法を弘めん為に先に三菩薩を漢土に遣はし、諸人に五常を教へて仏教の初門と為す。此れ等の文を以て之を勘ふるに仏法已前の五常は仏教之内の五戒なることを知る。
『災難興起由来』
漢土・日本国は仏法已前には三皇・五帝・三聖等の外経をもて、民の心をとゝのへてよ(世)をば治めしほどに、次第に人の心はよきことははかなく、わるき事はかしこくなりしかば、外経の智あさきゆへに悪のふかき失をいましめがたし。外経をもつて世をさまらざりしゆへに、やうやく仏経をわたして世間ををさめしかば、世をだやかなりき。此れはひとへに仏教のかしこきによて、人民の心をくはしくあかせるなり。
『智慧亡国御書』
漢土にいまだ仏法のわたり候はざりし時は、三皇、五帝、三王、乃至大公望、周公旦、老子、孔子つくらせ給て候し文を、或は経となづけ或は典等となづく。此文を披いて人に礼儀をおしへ、父母をしらしめ王臣を定めて世をおさめしかば、人もしたがひ(従)天も納受をたれ給ふ。此にたがい(違)し子をば不孝の者と申し、臣をば逆臣の者とて失にあてられし程に、月氏より仏経わたりし時、或一類は用ふべからずと申し、或一類は用ふべしと申せし程に、あらそひ出来て召合せたりしかば外典の者負て仏弟子勝にき。其後は外典の者と仏弟子を合せしかば、氷の日にとくるが如く火の水に滅するが如く、まくるのみならずなにともなき者となりし也。又仏経漸くわたり来し程に、仏経の中に又勝劣、浅深候けり。所謂小乗経、大乗経、顕経、密経、権経、実経也。
『乙御前御消息(与日妙尼書)』
漢土には後漢の第二の明帝、永平七年に金神の夢を見、博士蔡?、王透等の十八人を月氏につかはして仏法を尋させ給しかば、中天竺の聖人摩謄迦、竺法蘭と申せし二人の聖人を同永平十年丁卯の歳、迎へ取て崇重ありしかば漢土にて本より皇の御いのり(祈)せし儒家、道家の人人数千人此事をそねみてうつた(訴)へしかば、同永平十四年正月十五日に召合せられしかば、漢土の道士悦をなして唐土の神百霊を本尊としてありき。二人の聖人は仏の御舎利と釈迦仏の画像と、五部の経を本尊と恃怙給ふ。道士は本より王前にして習たりし仙経、三墳、五典、二聖、三王の書を、薪につみこめてやきしかば古はやけざりしがはい(灰)となりぬ。先には水にうかびしが水に沈ぬ。鬼神を呼しも来らずあまりのはずかしさに、?善信、費叔才なんど申せし道士等はおもひ死にししぬ。二人の聖人の説法ありしかば、舎利は天に登て光を放て日輪みゆる事なし。画像の釈迦仏は眉間より光を放給ふ。呂慧通等の六百余人の道士は帰伏して出家す。三十日が間に十寺立ぬ。されば釈迦仏は賞罰ただしき仏なり。上に挙る三代の帝並に二人の臣下釈迦如来の敵とならせ給て、今生は空く後生は悪道に堕ぬ。
『四条金吾殿御返事』
天竺より仏法漢土へわたりし時、小大の経々は金言に私言まじはれり。宗々は又天竺・漢土の論師人師、或は小を大とあらそい、或は大を小という。或は小に大をかきまじへ、或は大に小を入れ、或は先の経を後とあらそい、或は後を先とし、或は先を後につけ、或は顕教を密教といひ、密教を顕教という。譬へば乳に水を入れ、薬に毒を加ふるがごとし。
<中略>
然るに月氏より漢土に経を渡せる訳人は一百八十七人也。其の中に羅什三蔵一人を除きて、前後の一百八十六人は純乳に水を加へ、薬に毒を入れたる人々也。
『諌曉八幡抄』
さて後秦の羅什三蔵は、我漢土の仏法を見るに多く梵本に違せり。我が約する所の経、若し誤りなくば、我死して後、身は不浄なれば焼かると云ふとも、舌計りは焼けざらんと常に説法し給ひしに、焼き奉る時、御身は皆骨となるといへども、御舌計りは青蓮華の上に光明を放ちて、日輪を映奪し給ひき。有り難き事也。さてこそ殊更彼の三蔵所訳の法華経は唐土にやすやすと弘まらせ給ひしか。
『聖愚問答鈔』
仏の滅後、一千一十五年に当りて、震旦国に仏経渡る。後漢の孝明皇帝、永平十年丁卯より唐の玄宗皇帝、開元十八年庚午に至るまで、六百六十四歳之間に一切経渡り畢んぬ。
『教機時国鈔』
月氏の仏法漢土に渡来する之間、南岳・天台等漢土に出現して、粗法華之実義を弘宣したまふ。然而〈されど〉円慧円定に於ては国師たりと雖も円頓之戒場未だ之を建立せず。故に国を挙げて戒師と仰がず。六百年の以後、法相宗西天より来れり。太宗皇帝之を用ゆる故に、天台宗に帰依する之人、漸く薄し。茲に就いて隙を得、則天皇后の御宇に先に破られし華厳亦起きて天台宗に勝れたる之由、之を称す。太宗より第八代、玄宗皇帝の御宇に真言始めて月氏より来れり。所謂、開元四年には善無畏三蔵の大日経・蘇悉地経。開元八年には金剛智・不空両三蔵の金剛頂経。此の如く三経を天竺より漢土に持ち来り、天台之釈を見聞して智発して釈を作りて大日経と法華経とを一経と為し、其の上印・真言を加へて密教と号し、之に勝るの由をいひ、結句権教を以て実経を下す。漢土の学者、此の事を知らず。
『曾谷入道殿許御書』
仏法漢土に渡りて五百年の間は名匠国に充満せしかども、光宅の法雲・道場の慧観等には過ぎざりき。此れ等の人人は名を天下に流し、智水を国中にそゝぎしかども、天台智者大師と申せし人、彼の義どもの僻事なる由を立て申せしかば、初めには用ひず。後には信用を加えし時、始めて五百余年の間の人師の義どもは僻事と見えし也。
『題目弥陀名号勝劣事』
されば天台大師の摩訶止観と申す文は天台一期の大事、一代聖教の肝心ぞかし。仏法漢土に渡って五百余年、南北の十師智は日月に斉しく、徳は四海に響きしかども、いまだ一代聖教の浅深・勝劣・前後・次第には迷惑してこそ候しが、智者大師再び仏教をあきらめさせ給うのみならず、妙法蓮華経の五字の蔵の中より一念三千の如意宝珠を取り出して三国の一切衆生に普く与えり。此の法門は漢土に始まるのみならず、月氏の論師までも明かし給わぬ事也。然れば章安大師の釈に云く ̄止観明静前代未聞〔止観の明静なる前代未だ聞かず〕云云。又云く ̄天竺大論尚非其類〔天竺の大論尚其類に非ず〕等云云。
『兄弟鈔』
漢土に仏法いまだわたらざつし時の儒家・道家はゆうゆうとして嬰兒のごとくはかなかりしが、後漢已後に釈教わたりて対論の後、釈教ようやく流布する程に、釈教の僧侶破戒のゆえに、或は還俗して家にかえり、或は俗に心をあわせ、儒道の内に釈教を盗み入れたり。
<中略>
後漢の永平に漢土に仏法わたりて、邪典やぶれて内典立つ。内典に南三北七の異執をこりて蘭菊なりしかども、陳隋の智者大師にうちやぶられて、仏法二び群類を救う。
『開目抄』
漢土には陳帝の時、天台大師南北にせめかちて現身に大師となる。 ̄特秀於群独歩於唐〔群に特秀し、唐に独歩す〕というこれなり。
<中略>
道士は漢土をたぼらかすこと数百年、摩騰・竺蘭にせめられて仙経もやけぬ。
『報恩抄』
陳隋の大に智・法師と申せし小僧一人侍りき。後には二代の天子の御師、天台智者大師と号し奉る。此の人始めいやしかりし時、但漢土五百余年の三蔵人師を破るのみならず、月氏一千年の論師をも破せしかば、南北の智人等雲の如く起こり、東西の賢哲等星の如く列なりて、雨の如く難を下し、風の如く此の義を破りしかども、終に論師・人師の偏邪の義を破して天台一宗の正義を立てにき。
『善無畏三蔵鈔(師恩報酬鈔)』
漢土に仏法渡りて数百年の間、摩騰迦・竺法蘭・羅什三蔵・南岳・天台・妙楽等、或は疏を作り、或は経を釈せしかども、いまだ法華経の題目をば弥陀の名号の如く勧められず。唯自身一人計り唱へ、或は経を講ずる時講師計り唱へる事あり。
『妙密上人御消息』
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