日蓮の教義を信奉している者へ投げ掛けられる、諸々の批判についての回答をまとめてみた。
日蓮派は極端である。膨大な仏教の中から一つのことだけを絶対視し、その他を誤りと責めている(一を是とし、諸を非とする)が、その姿勢は宗教者として相応しいだろうか?
このような批判を受けることが多い。
しかし、弥陀念仏を提唱している念仏宗の祖師も同じように、一を是とし、諸を非とする主張をしている。
道綽禅師曰く「当今は末法、これ五濁悪世なり。ただ浄土の一門のみありて通入すべき路なり」云云。
善導和尚曰く「千が中に一もなし」云云。
法然上人曰く「捨・閉・閣・抛」云云。
念阿上人等の曰く 「一を是とし諸を非とするは謗法なり」云云。
念仏の祖師たちも同じように、念仏のみを絶対視し、その他の経典を蔑ろにしたり、他の修業を見下したりしている発言を明らかに残している。
どうして同じ批判を我々に向けることができよう?
諸宗も同じように自分たちの宗義を絶対視しているのだから、我々だけが極端だという批判にさらされる筋合いはない。
日蓮派は法華経のみに執着して、他の大乗経典を誹謗している
という批判もよくされる。
しかし、釈迦が説いた経典を実際に紐解いていけば、
無量義経には、〔四十余年には未だ真実を顕さず〕と説かれ、
法華経には、〔要ず当に真実を説きたもうべし〕と説かれている。
多宝仏は釈迦の説法を〔皆是れ真実なり〕と証明し、十方の諸仏は〔舌相は梵天に至る〕と広長舌を天辺まで伸ばして保証した。
已今当の三説、一切の経典を非毀して法華経一部を讃歎するのは釈尊の金言であり、諸仏の通例である。
つまり、日蓮が勝手に打ち立てた教義ではないのだ。
釈尊自ら一切経を非毀して法華経を絶賛しているのだから、その非難は適切ではない。
同じような批判を日蓮主義者に浴びせるなら、釈迦を非難するのと同様であり、仏教徒の資格をなくして外道に同じてしまう。仏教を破壊してしまう。
日蓮のみ釈迦の教えに最も忠実で、その教えを正当に受け継いでいるのだ。
日蓮の教えは釈迦の説法そのままなのである。
さらにいうと、この批判は平安時代の始め、南都の徳一大師が伝教大師を非難したのと同じである。
歴史上、其の難は既に論破されて法華宗の建立が桓武帝によって認められている。
というわけで、そのような非難は不当であり時代遅れでもある。
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