最近の仏教学だとかいうものは、仏教の本質を学ぶことから遠く離れている。経典の成立時代や信憑性なんかをあちこち探しまくって、経文の言葉をそのまま信じる、という一番大切なことを忘れている。
漢訳を見下しては梵語を持ち上げ、カタカナを多用したりなんかして、語句にとらわれすぎて経文の深義を失っている。枝葉末節だとしか言いようがない。漢訳の経典を学んで仏道を学ぼうとする者の志を挫いてしまっている。
正しい漢訳の意味を捨てて、梵語に真実の意味を求めたところで、結局今の学者の翻訳能力が、当時の三蔵訳者の智慧(翻訳能力)に到底及ぶわけがないのだから。仏典は漢訳・漢語のままでよいのです。漢訳を抑えて、安易に梵語を勧めたりなんかする者は仏道を乱す者だ。
涅槃経には「義に依って語に依らざれ」とあるが、今の学者たちはこの経文に背いて、人々を真の仏道に入りにくくさせている。
仏道修業の根本は何か、と問われれば、それは「信」である。経文を信じる力があってこそ、仏道修行を潤滑に進めることができるのである。信なくしては、仏道は修め難し。「信」なくして経典を読む人は魂の抜けた人形のようなものだ。
コメント