法華経は仏説である(2)

前回の記事、法華経は仏説である(1)の主張は、
「そもそも君は法華経が真実であるという前提で論じているじゃないか」
と批判されるかもしれません。
「まずは仏説であるという証拠を目に見える形で示してから真実であると主張しろ。でないと、納得できない」
と言われる方がいるかもしれません。

法華経が仏説であるという証拠を出せ。

では、その証拠を出しましょう。
その証拠とは、法華経に書かれていることが実際に数多く起こったということ――この歴史的事実、現証を以て、法華経が仏説であること、法華経が真実であることの論拠とする。

法華経に書かれていることが現実に起こった――
これだけで法華経が仏説であるという証明になる。

現実に起こったこと、目に見える事柄を基にして、物事の真否を見定めよう。
まず、現証が、文献的・考古学的などんな資料よりも証拠価値として高い。
これらは学者が掲げる非仏説の証拠資料よりはるかに信用性がある。

日蓮、仏法をこころみるに、道理と証文とにはすぎず。また道理・証文よりも現証にはすぎず。

一切は現証にはしかず。

『三三蔵祈雨事・教行証御書』

そもそも現証というのは、現実に、実際に今生きている世界で目に見える形で起こったこととして証明できる事柄をいう。
これは文献や理論に依らないので、万人に許容される根拠となる。
そのため、考古学的資料や科学的な煩わしい証明を待たない。
つまり、法華経に書かれていることが実際に起こったという歴史的事実があるのだから、文献や理論の証明を用いる必要はほとんどないということだ。

その現証を実際に体現したのが日蓮聖人だ。
日蓮の身の回りに起きた現証は数多くあるが、以下二つの法難を上げて、法華経が仏説であるということを論証する。

法華経が仏説であるという証拠 1.龍ノ口法難

まず、日蓮が龍ノ口において斬首の刑を免れたこと。これを以って法華経が仏説であるとする有力な根拠とする。

現証が何よりも、文献的、考古学的などんな資料よりも証拠価値として高い。
龍ノ口法難は覆しようのない歴史的事実であり、どんな可視的な非仏説証明にも勝る。
我が国の史上にはっきり残る、この不思議な出来事は紛れもない事実である。

なぜ龍ノ口法難を受けたことが仏説であるという証拠に挙げられるのか。
まず、日蓮は生涯、法華経を第一と信奉されていたことは皆さんもご存じだろう。
ということは、日蓮が法華経を仏説であるという確信を持っていたのは自明のことだ。

その日蓮が、法華経を護るが故に讒言に遭い、龍ノ口で刑死されようとしたのに……
もし法華経が仏説でなかったら、その経に書かれている内容が真実でなく、信用に値する教えでなかったら、…日蓮は刑死していたはずだ。
これで、法華経が嘘であって信用ならないものということの証明になろう。
たとえ仏説であっても修業するに値しない教えであることの根拠となろう。

しかし、実際に日蓮は刀による斬首を免れたのだ。
だから、法華経は真実であり、法華経が仏説であるということの動かしがたい証拠となるのだ。

なぜこのような現実ではありえない、現代人には信じがたい不思議の事が起こったのか。
それは、日蓮が法華経が仏説であることはもちろん、その説が真実であることを覚知して修行していたからだ。
深い信心と法華経に説かれる通りの修業を正しく行い、非の打ち所がなかったからこそ、龍ノ口を免れることができたのである。

この法華経、観音品には、現実ではありえない不思議のことが数多起こるということが記されている。

或は王難の苦に遭うて 刑せらるるに臨んで寿終らんと欲せんに 
彼の観音の力を念ぜば 刀尋いで段段に壊れなん

『妙法蓮華経 観世音菩薩普門品 第二十五』

経文に書かれている信じがたいことが実際に起こった。鎌倉時代の日蓮が身をもって実現させた。
つまり、法華経に書かれていることが嘘でなかったということだ。
これを信じないでいられようか?歴史的事実なのだから、信じるしかない。信じなければならない。

皆さんの思惑では、「法華経が真実であることは信じがたい、仏説であることは疑わしい」という思いに捉われているはずだ。
しかし、日蓮が斬首を免れたという動かしがたい事実が一昔前にあるのだから、たとえ多くの疑惑や反証があろうと、法華経の内容が真実であることは否定しようがない。仏説であるという事実は覆すことができない。

経文の内容が成就し、現証と文証の2つが揃っているので、確実な根拠となる。
日蓮のおかげで法華経が仏説であること、真実であることが再び証明されたのだ。

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