前回の記事、法華経は仏説である(1)の主張を読んだ方で、
「そもそも君は法華経が真実であるという前提で論じているじゃないか」
と批判される方がいるかもしれません。
「まずは仏説であるという証拠を目に見える形で示してから真実であると主張しろ。でないと、納得できない」
と言われる方もいるかもしれません。
法華経が仏説であるという証拠を出せ
では、その証拠を出しましょう。
その証拠とは、法華経に書かれていることが実際に数多く起こったということ――この歴史的事実、現証を以て、法華経が仏説であること、法華経が真実であることの論拠とする。
法華経に書かれていることが現実に起こった――これだけで法華経が仏説であるという証明になる。
現実に起こったこと、目に見える事柄を基にして、物事の真否を見定めよう。
まず、現証が、文献的・考古学的などんな資料よりも証拠価値として高い。
これらは学者が掲げる非仏説の証拠資料よりはるかに信用性がある。
日蓮、仏法をこころみるに、道理と証文とにはすぎず。また道理・証文よりも現証にはすぎず。
一切は現証にはしかず。
『三三蔵祈雨事・教行証御書』
そもそも現証というのは、現実に、実際に今生きている世界で目に見える形で起こったこととして証明できる事柄をいう。
これは文献や理論に依らないので、万人に許容される根拠となる。
そのため、考古学的資料や科学的な煩わしい証明を待たない。
つまり、法華経に書かれていることが実際に起こったという歴史的事実があるのだから、文献や理論の証明を用いる必要はほとんどないということだ。
その現証を実際に体現したのが日蓮聖人だ。
日蓮の身の回りに起きた現証は数多くあるが、以下二つの法難を上げて、法華経が仏説であるということを論証する。
法華経が仏説であるという証拠 1.龍ノ口法難
まず、日蓮が龍ノ口において斬首の刑を免れたこと。これを以って法華経が仏説であるとする有力な根拠とする。
現証が何よりも、文献的、考古学的などんな資料よりも証拠価値として高い。
龍ノ口法難は覆しようのない歴史的事実であり、どんな可視的な非仏説証明にも勝る。
我が国の史上にはっきり残る、この不思議な出来事は紛れもない事実である。
なぜ龍ノ口法難を受けたことが仏説であるという証拠に挙げられるのか。
まず、日蓮は生涯、法華経を第一と信奉されていたことは皆さんもご存じだろう。
ということは、日蓮が法華経を仏説であるという確信を持っていたのは自明だ。
その日蓮が、法華経を護るが故に讒言に遭い、龍ノ口で刑死されようとしたのに……
もし法華経が仏説でなかったら、その経に書かれている内容が真実でなく、信用に値する教えでなかったら、…日蓮は刑死していたはずだ。
これで、法華経は嘘であって信用ならないものであるという証明になろう。
たとえ仏説であっても、修業するに値しない教えであることの根拠となろう。

しかし、実際に日蓮は刀による斬首を免れたのだ。
だから、法華経は真実であり、法華経が仏説であるという証拠として用いることができる。
なぜこのような現実ではありえない、現代人には信じがたい不思議の事が起こったのか。
その一因は、日蓮が法華経が仏説であることはもちろん、その説が真実であることを覚知して修行していたからだ。
深い信心と法華経に説かれる通りの修業を正しく行い、非の打ち所がなかったからこそ、龍ノ口を免れることができたのである。
この法華経、観音品には、現実ではありえない不思議のことが数多起こるということが記されている。
或は王難の苦に遭うて 刑せらるるに臨んで寿終らんと欲せんに
『妙法蓮華経 観世音菩薩普門品第二十五』
彼の観音の力を念ぜば 刀尋いで段段に壊れなん
経文に書かれている信じがたいことが実際に起こった。鎌倉時代の日蓮が身をもって実現させた。
つまり、法華経に書かれていることが嘘でなかったということだ。歴史的事実なのだから、信じるしかない。
皆さんの思惑では、「法華経が真実であることは信じがたい、仏説であることは疑わしい」という思いに捉われているはずだ。
しかし、多くの疑惑や反証があろうと、日蓮が斬首を免れたという動かしがたい事実が一昔前にあったのだから、法華経に書かれていることが嘘だと否定することはできなくなる。
経文の内容が成就し、現証と文証の2つが揃っているので、確実な根拠となる。
日蓮のおかげで、法華経が仏説であること、真実であることが再び証明されたのだ。
法華経が仏説であるという証拠 2.良観との祈雨合戦
二つ目の現証を挙げる。
日蓮と良観との間に祈雨対決があったことは歴史的事実であり、当時の多くの人がその場で見聞きしたので、現証として非常に有力だ。
その祈雨対決、事件のあらましを御書や史跡から追ってみよう。
去ぬる文永八年太歳辛未六月十八日、大旱魃の時、彼の御房、祈雨の法を行って万民をたすけんと申し付けられ候由、日蓮聖人聞き給いて、「これ体は小事なれども、この次いでに日蓮が法験を万人に知らせばや」と仰せありて、良観房の所へ仰せつかわすに、云わく「七日の内にふらし給わば、日蓮が念仏無間と申す法門すてて良観上人の弟子と成って、二百五十戒持つべし。雨ふらぬほどならば、彼の御房の持戒げなるが大誑惑なるは顕然なるべし。上代も祈雨について勝負を決したる例これ多し。いわゆる、護命と伝教大師と、守敏と弘法となり」。よって良観房の所へ周防房・入沢入道と申す念仏者を遣わす。「御房と入道は良観が弟子、また念仏者なり。いまに日蓮が法門を用いることなし。これをもって勝負とせん。七日の内に雨降るならば、本の八斎戒・念仏をもって往生すべしと思うべし。また雨らずば、一向に法華経になるべし」といわれしかば、これら悦んで極楽寺の良観房にこの由を申し候いけり。
『頼基陳状』
良観房悦びないて、七日の内に雨ふらすべき由にて、弟子百二十余人、頭より煙を出だし、声を天にひびかし、あるいは念仏、あるいは請雨経、あるいは法華経、あるいは八斎戒を説いて種々に祈請す。四・五日まで雨の気無ければ、たましいを失って多宝寺の弟子等数百人呼び集めて、力を尽くして祈りたるに、七日の内に露ばかりも雨降らず。
その時、日蓮聖人、使いを遣わすこと三度に及ぶ。「いかに、和泉式部といいし婬女、能因法師と申せし破戒の僧、狂言・綺語の三十一字をもってたちまちにふらせし雨を、持戒・持律の良観房は、法華・真言の義理を極め、慈悲第一と聞こえ給う上人の、数百人の衆徒を率いて七日の間にいかにふらし給わぬやらん。
これをもって思い給え。一丈の堀を越えざる者、二丈三丈の堀を越えてんや。やき雨をだにふらし給わず、いわんやかたき往生・成仏をや。しかれば、今よりは日蓮怨み給う邪見をばこれをもって翻し給え。後生おそろしくおぼし給わば、約束のままにいそぎ来り給え。雨ふらす法と仏になる道おしえ奉らん。七日の内に雨こそふらし給わざらめ、旱魃いよいよ興盛に、八風ますます吹き重なって、民のなげきいよいよ深し。すみやかにそのいのりやめ給え」と、第七日の申時、使者ありのままに申すところに、良観房は涙を流す。弟子檀那、同じく声をおしまず口惜しがる。日蓮御勘気を蒙る時、このこと御尋ね有りしかば、ありのままに申し給いき。
せん(詮)ずるところは六月十八日より七月四日まで、良観が雨のいのり(祈)して日蓮にかかれてふらしかね、あせ(汗)をながしなんだ(涙)のみを下して雨ふらざりし上、逆風ひまなくしてありし事、三度までつかひをつかわして一丈のほり(堀)をこへぬもの、十丈二十丈のほりをこうべきか。いづみしきぶ(和泉式部)がいろごのみ(好色)の見にして、八斎戒にせい(制)せるうた(和歌)をよみて雨をふらし、能因法師が破戒の身としてうたをよみて天雨を下せしに、いかに二百五十戒の人人、百千人あつまりて、七日二七日せめ(責)させ給ふに雨の下らざる上に大風は吹き候ぞ。
『種種御振舞御書』
これをもん(以)て存ぜさせ給へ。各各の往生は叶ふまじきぞとせめられて、良観がなき(泣)し事、人人につきて讒せし事一一に申せしかば、平左衛門尉等かたうど(方人)しかなへ(叶)ずして、つまりふし(詰伏)し事どもはしげければかかず。

この祈雨戦では日蓮が勝った。最終的に雨を降らしたのは日蓮であり、良観は雨を降らすことができなかった。
なぜ良観との祈雨対決が、法華経が仏説であるという証拠にあげられるのか。
まず、日蓮は法華経に依拠して良観と雨乞いを勝負したということ。
対して、良観は法華経を否定して阿含などの小乗経典に依拠して雨乞いしたということ。
この二つの決定的な違いがある。
このことからも、日蓮は法華経が仏説であるという確信を持っていたのは明らかだ。
その日蓮が、法華経を護るが故に讒言に遭い、良観との祈雨対決を申し込んだのだが……
もし法華経が仏説でなく、その内容も真実でなく、信用に値する教えでなかったら、日蓮はこの祈雨対決に敗北していたはずだ。
それこそ法華経が真実でなく、仏説でないことの証明になろう。
そして、良観が依拠する小乗経典こそ真実であり、法華経より勝るという証明になる。
しかし、実際に雨を降らしたのは日蓮であり、良観は雨を降らすことができなかった。
これはつまり、法華経のほうが真実であり勝るということだ。
小乗経は祈願に用いることができない無価値なお経で、法華経が祈願に堪え、信用に値する教えであることが、衆人の目前で明らかになったのである。
なぜこのような信じがたい不思議の事が起こったのか。
それは、前の論証でも説明したとおり、日蓮が法華経が仏説であることはもちろん、真実であることを誰よりも覚知していたからである。
深い信心と法華経に説かれる通りの修業を正しく行い、非の打ち所が無かったから、この祈雨対決にも勝つことができたのである。
普賢、若し後の世に於て是の経典を受持し読誦せん者は、是の人復衣服・臥具・飲食・資生の物に貧著せじ。願う所虚しからじ。
『妙法蓮華経 普賢音菩薩普門品第二十八』
以上の二つを根拠として挙げた。
これ以外にも、日蓮が「蒙古襲来」を予言して的中させ、「小松原法難」や「松樹での月天子示現」など、日蓮の身の回りに数多くの霊験が起こっているのを当時の衆人が幾度も目にしている。
そのため、これらの現証を以て、法華経が仏説であると証明することはいくらでもできるはずだ。
また、日蓮の弟子や、その教えを引き継いで来た後世の多くの信徒たちによる、歴史資料に残されている分はもちろん、残されていない奇跡も膨大に存在する。
これに準じて知るべし。法華経が仏説、且つ真実のお経であるということを。
今でこそ、原始仏教のみを釈迦の直説とし、法華経などの大乗経を仏説でないと否定する輩が多いが、その正当性は破られる。
原始仏教が依拠する小乗経典に、このような霊験や法験が起こった歴史的事実はどれほどあるだろうか。
また、小乗派と大乗派の様々な対決で、小乗派が勝ったという事実がどれだけあるだろうか。
法華経をはじめとする大乗経典はそこに書かれている事柄の多くが実現されている。
多くの霊験があるのは法華経なのだから、大乗経が小乗経より勝ることは数多くの現証によって明らかにされている。
その法華経には「この経は我(釈迦)が説いた」と書かれているので、そのまま法華経が仏説であることの証明に繋がる。
以下、参考のために、祈雨対決に似た、法華経を真実たらしめる霊験を紹介する。
古昔、輪陀王と申せし王おわしき。南閻浮提の主なり。この王はなにをか供御とし給いしと尋ぬれば、白馬のいななくを聞いて食とし給う。この王は、白馬のいななけば年も若くなり、色も盛んに、魂もいさぎよく、力もつよく、また政事も明らかなり。故に、その国には白馬を多くあつめ、飼いしなり。譬えば、魏王と申せし王の鶴を多くあつめ、徳宗皇帝のほたるを愛せしがごとし。白馬のいななくことは、また白鳥の鳴きし故なり。さればまた、白鳥を多く集めしなり。
『上野殿母御前御返事(四十九日菩提の事)』
ある時、いかんがしけん、白鳥皆うせて白馬いななかざりしかば、大王、供御たえて、盛んなる花の露にしおれしがごとく、満月の雲におおわれたるがごとし。この王既にかくれさせ給わんとせしかば、后・太子・大臣・一国、皆母に別れたる子のごとく、皆色をうしないて涙を袖におびたり。いかんせん、いかんせん。
その国に外道多し。当時の禅宗・念仏者・真言師・律僧等のごとし。また仏の弟子も有り。当時の法華宗の人々のごとし。中悪しきこと水火なり。胡と越とに似たり。大王、勅宣を下して云わく「一切の外道この馬をいななかせば、仏教を失って一向に外道を信ぜんこと諸天の帝釈を敬うがごとくならん。仏弟子この馬をいななかせば、一切の外道の頸を切り、その所をうばい取って仏弟子につくべし」と云々。外道も色をうしない、仏弟子も歎きあえり。
しかれども、さてはつべきことならねば、外道は先に七日を行いき。白鳥も来らず、白馬もいななかず。後七日を仏弟子に渡して祈らせしに、馬鳴と申す小僧一人あり。諸仏の御本尊とし給う法華経をもって七日祈りしかば、白鳥壇上に飛び来る。この鳥、一声鳴きしかば、一馬、一声いななく。大王は馬の声を聞いて病の牀よりおき給う。后より始めて諸人、馬鳴に向かって礼拝をなす。白鳥、一・二・三乃至十・百・千出来して国中に充満せり。白馬しきりにいななき、一馬二馬乃至百・千の白馬いななきしかば、大王この音を聞こしめし、面貌は三十ばかり、心は日のごとく明らかに、政正直なりしかば、天より甘露ふり下り、勅風万民をなびかして、無量百歳、代を治め給いき。
このように、仏説である法華経を以ての祈りの成就は数多く残されている。
法華経が仏説であるという証拠 3.訳者の舌が焼けなかったこと
これは現代人の多くが迷信だとしてバカにするが、これも揺るぎない事実である。
かなり昔の事なので、今となっては確認不可能だ。
だからといって、「そんな事実はない」「伝説に過ぎない」と言い切ってはならない。
当時、現場にいた多くの人によって確認されたので、これも信じるしかない。
このことは余が第一の秘事なり。委細には向かって問うべし。ただし、すこし申すべし。羅什三蔵の云わく「我漢土の一切経を見るに、皆梵語のごとくならず。いかでかこのことを顕すべき。ただし一つの大願あり。身を不浄になして妻をたいすべし。舌ばかり清浄になして仏法に妄語せじ。我死なば必ずやくべし。焼かん時、舌焼くるならば、我が経をすてよ」と、常に高座にしてとかせ給いしなり。上一人より下万民にいたるまで願じて云わく「願わくは羅什三蔵より後に死せん」と。
『撰時抄』
終に死し給う後、焼きたてまつりしかば、不浄の身は皆灰となりぬ。御舌ばかり火中に青蓮華生じてその上にあり。五色の光明を放って夜は昼のごとく、昼は日輪の御光をうばい給いき。
この不思議な事が実現したので、法華経が仏説であることを鳩摩羅什が証明した。
さらに、伝教大師などの歴代の名だたる高僧も、法華経が仏説である根拠として、この逸話を多用している。
もし法華経が仏説でなく、法華経の訳文に一字一点でも誤りがあれば、羅什の舌は身体と同じく焼け尽きていたはずだ。
しかし、そうはならなかった。
ということは、法華経が仏説であり、鳩摩羅什の訳したお経は仏の言葉を誤りなく完璧に伝えているということになる。
話しは変わるが、世界の名著や宗教の経典で、著者や翻訳者の舌が死後、焼けなかったという歴史的事実がどれだけあるだろうか?
どんなに人口に膾炙し、影響力を残してきた大著でも、舌だけ焼けずに残ったという話は聞いたことがない。
このことから、これが真実と力説する書物にも、必ず誤りがあって完璧でないということだ。
なぜなら、それを証明する験がないからだ。
また、法華経以外にも、仏法を継承した正しい修行者である僧に不可思議なことが多数起こった記録がある。
例えば、師子尊者の例が挙げられる。
この尊者は付法蔵の二十四人目、最後の人にあたる。付法蔵というのは仏法をインドに弘めた聖者である。
この尊者は悪王に遇い殺害させられたが、その首からは血ではなく、乳が流れたという。
師子は檀弥羅王のために害せられ、剣をもって斬るに乳を流す。
『摩訶止観・弘決 巻第一』
―師子は悪王に値う。王を檀弥羅と名づく。塔を破し寺を壊し、衆僧を殺害す。剣をもって師士を斬るに、血は変じて乳と為る。
仏、我が入涅槃の後に我が法を相伝する人二十四人あるべし。その中に最後弘通の人に当たるをば師子比丘と云わん。罽賓国という国にて我が法を弘むべし。彼の国の王をば檀弥羅王と云うべし。邪見放逸にして、仏法を信ぜず、衆僧を敬わず、堂塔を破り失い、剣をもって諸僧の頸を切るべし。即ち師子比丘の頸をきらん時に、頸の中に血無く、ただ乳のみ出ずべし。
『聖愚問答抄』
檀弥羅王と申せし悪王は、月氏の僧の頸を切りしにとがなかりしかども、師子尊者の頸を切りし時、刀と手と共に一時に落ちにき。
『乙御前御消息』
このように仏法(仏法の流伝)には無数の不思議のことが存在する
霊験や奇跡を無視するなら、仏法の一部分しか見えていない偏屈な者、井の中の蛙、畜生に異ならない。
法華経は数多の験が備わり、その言葉が真実であることは釈尊によって力説されている。
だから、法華経は信用に足る。真実は法華経にしかないということ知るべきだ。
法華経が仏説であるという証拠 4.多羅樹の葉っぱに書かれて保管されていたこと
今此の妙法蓮華経は天竺亀茲国の沙門 鳩摩羅什三蔵 直に阿難自筆の多羅葉の法華経を霊山浄土の結集堂より伝え来ってこれを翻訳す。故に一口一言の失錯も無し。
日蓮『法華本門宗要鈔上』
故に伝教大師 秀句の下に羅什三蔵を嘆じて曰く「法華を釈する三蔵は舌を焼けざるの験在り。論を訳する讃師は未だ其の霊験を聞かず」云云。
法華経が説かれて釈尊が入滅した後、第一結集の時に阿難が自筆で多羅葉に経文を残し、鉄塔や龍宮などに厳重に保管されていたということ。
その後、法華経は世にすぐ弘まるべきではなかったから、遅れて出て来たのだ。
それを、今の学者が疑わしいということで様々な難癖を付けているが、仏説であるということを覆すことはできない。
法華経が仏説であるという証拠 5.貞元目録に収められていること
これは現代に至るまで記録が残されている。
先に引く所の大梵天王問仏決疑経の文を教外別伝の証拠に、汝之を引く。既に自語相違せり。其の上、此の経は説相権教也。又、開元・貞元の両度の目録にも全く載せず。是れ録外の経なる上、権教と見えたり。然れば世間の学者、用いざるところ也。証拠とするにたらず。
『聖愚問答鈔下』
法華経は録内であるが故に、仏説であるという保証があります。
例えば、上の引用にある禅宗の用いる『梵天決疑経』は録外なので、信用に足らないと断じています。
まとめ
ここまで読んでも頭の固い人は、
笑わせるな。お前の挙げている証拠はどれも論拠として不十分。釈迦が説いたという目に見える証拠資料を出せ。
専門家でもないお前の主張は、やはり説得力に欠ける。法華経なんて受け入れられない。
そもそも自分の信仰を破られないために、こじつけた古臭い迷信を掲げて我々を説得しようとしても無駄だぞ。
霊験ばかり挙げて論証しても、それは宗教者の論理であり、現代の我々が信用するには及ばない。
と言われるかもしれない。
確かに、現代は霊験を信じる人が少なくなってきている。
しかし、だからといって霊験は迷信や妄想だといって片付けてしまって検証を怠ってはならない。
では逆に、法華経が非仏説であると証明できる霊験はどれぐらいあるだろうか?
そもそも現代人は科学的な証拠、目に見える事柄に固執している。それが無ければ信用しない人が多い。
だが、科学が不完全であり、全ての事象を科学で網羅することが不可能であることが最近明るみになっている。
我々の目に見える事はほんの僅かであり、目に見えない事柄のほうが膨大で、そのほとんどが解明されていないことは、当の科学者がよく知っているものだ。
むしろ、近年では、古来からの言い伝えや伝統にこそ真理が多く含まれており、物事を解決する糸口がそこから再発見されてきているではないか。
だから、科学的な証拠にこだわって法華経が仏説であると証明する必要はほとんどない。
最終的に信じるか信じないかはあなたが判断することだが、大事なことは、日本人なら法華経を信じるしかないということだ。
ここまで来ると、「お前は論証を捨てて投げ遣りになっているぞ」と批判されるかもしれない。
しかし、経文には
汝、舎利弗 尚お此の経に於ては 信を以て入ることを得たり
『妙法蓮華経 譬喩品第三』
舎利弗、汝等当に一心に信解し仏語を受持すべし。諸仏如来は言虚妄なし。
『妙法蓮華経 方便品第二』
抑そも法華経と申す御経は一代聖教には似るべくもなき御経にて、而も唯仏与仏と説かれて、仏と仏とのみこそしろしめされて、等覚已下乃至凡夫には叶はぬ事に候へ。されば龍樹菩薩の大論には、仏已下はただ信じて仏になるべしと見えて候。
『上野殿母尼御前御返事』
とある。
法華経は、ただ信じることでしかその理解を得られず、修業も進められないのだ。
君の言い分は分かった。でも、君の信仰を私に押し付けないでくれ。信教の自由があるじゃないか
と言われるかもしれません。
しかし、それも大きな誤りで洗脳に嵌っています。
そもそも、日本は法華経流布の国と定められています。
この国に生まれて法華経に出会ったが最後、あなたは法華経を信じなければならないのです。
日本人として生まれた者は全員、法華経を信じるのが義務です。
信じないで法華経を捨てるなら、あなたは謗法の罪を背負って死んだ後阿鼻地獄に落ちることになります。
謗と云ふは但口を以て誹り、心を以て謗るのみ謗には非ず。法華経流布の国に生まれて、信ぜず、行ぜざるも即ち謗也。誹謗なり。
『戒体即身成仏義』
若し此の経に於て 疑を生じて信ぜざることあらん者は 即ち当に悪道に堕つべし
『妙法蓮華経 従地涌出品第十五』
また、信教の自由などといって許される問題ではありません。憲法よりも仏法が優先されます。
仏法よりも憲法を優先するなら、あなたは仏教徒でありません。真の日本人とはいえません。
現代憲法に凝り固まるなら、永遠にその憲法を押し付けた米国の奴隷として一生を終えることになります。三島由紀夫も決死の覚悟で訴えていたでしょう。
そもそも現代憲法はGHQが日本人の精神を奴隷にするために作った洗脳条文なのです。
真の日本人でありたいなら、仏教徒でありたいなら、憲法は差し置いて仏法を信条としないといけません。仏法の中でも法華経を受持することです。
また、「強要するな」というのがあなたたちの言い分でしょうが、その言い分も仏法では通りません。
例えば、あなたの大切な人がさ迷って穴に堕ちようとしていたら、力づくでも救ってあげるのが人としての責務でしょう。それが本当の優しさ、慈悲といえましょう。
周りの人間が死後、地獄に堕ちてしまうことが分かっているのに見放していいものでしょうか?救わなくていいのでしょうか?見て見ぬふりしていいのでしょうか?
そんなこと許されません。
自分さえよければいいという考えは慈悲に外れるので許されません。
無理矢理、ある時は暴力を用いてでも、その邪信・不信心を覆してあげなければなりません。
そもそも、人が何を信じるかというのは、生涯で一番大事なことです。
何を信じているかで一生の苦楽・幸福、そして後生(来世)の報いはほぼ決まります。
この後生、来世ほど大切なものはありません。
強要罪や憲法という小さな世間の規律にとらわれて、仏法や後生を疎かにして悪道に堕ちてしまっては、あまりにも愚かです。悔やんでも悔やみきれません。
人は生涯、真実を探し求め、真実を目にしたのなら躊躇せずに信じなければなりません。それを信仰しなければなりません。
強要を使ってでも払うべき悪がその人にあるのなら、強要してでもその大悪を払ってあげる…。
確かにこれは犯罪ですが、小さな悪を以て大きな悪を覆してあげるのは、かえって大きな善になるのです。
それが後々、その人の後生を救い、さらには現世を豊かにすることに繋がるのです。
もしそのとき不当だと言って反発され、あるいは実刑を被って世間から非難されたとしても……後で分かるはずです。
それが本当の優しさであり正義だったということが。
悲哉、日本国皆正法の門を出でて、深く邪謗の獄に入る。愚かなり矣。上下万人、各悪教の綱に懸かりて鎮へに謗教の網に纒はる。此の朦霧の迷い、彼の盛焔の底に沈む。是に愁へざらん哉。豈に苦しからざらん哉。
『立正安国論』
汝早く信仰の寸心を改めて速やかに実乗の一善に帰せよ。然れば則ち三界は皆仏国也。
また、ある人は私が仏説であるという主張を目にした後、「君の論じていることはそもそも土俵が違う」と指摘するかもしれません。
しかし、もし初学者があなた方の非仏説の主張を目にしたとき、それを信じ込んで法華経を捨ててしまったらどうする?信じなくなってしまったらどうする?その大罪の責任はどうやって取るのだ?
それが許せないから、私はこのような記事を書いて主張しているのだ。
「強要は許されません」「信教の自由があるじゃないか」
そんな取るに足らない世間の規律に捉われ、人の目を憚って一時的な安楽にしがみ付き、屁理屈をこねて手を拱いているなら、地獄への道は永遠に塞がれません。
末代に至っては、法華経の題目しか救われる道は残されていないのだ。
だから、
法華経が仏説であると信じてください。真実であると信じてください。

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