般若心経が法華経に劣っているという君の言い分は分かったが、人がどの経を修行しようが勝手ではないか
と思うかもしれません。ですが、これは大きな誤りです。
なぜなら、もし劣った般若心経に執着して優れた法華経を押しのけて修行するなら、仏法の深浅・勝劣に迷惑して、般若心経の利益を受けられないばかりか、法華経誹謗の罪を得て、死んだ後地獄に落ちることになります。
仏法の修行は必ず「時」を見計らって行わなければなりません。仏法が流布する期間は正法・像法・末法の三つに分けられます。それぞれの期間によって修行すべき経は違います。
般若心経等の権大乗経は正法・像法の期間に修行して利益をもたらしますが、末法に突入したらただ一乗の法華経が世間に残って、この経のみが衆生に利益をもたらします。
現代は末法に入って千年近く経っているので、正法・像法に行うべき経を修行しても悟りは得られません。般若心経の修行はとっくの昔の時代遅れということになるのです。
では、なぜ時期によって修行すべき経が違うのでしょうか?
それは、時が経つに連れ衆生の煩悩は増して福徳は薄くなり、心の病も重くなるので病の軽重に応じて用いる経を変えていく必要があるからです。
経法は薬に譬えられます。小乗経で衆生の軽病を治し、権大乗経で中病を治し、実大乗経で重病を治す、というふうに、効力の強い経を用いていって衆生の病を治していきます。
軽病の者に神薬を用いるのは非ですし、重病人に凡薬を用いても効目がないのと同じように、正法の衆生に法華経は堪え難く、末法の極重病の衆生に小乗経や権大乗経では力不足で治すことができないのです。
末法である現代は五濁が盛んで人々の煩悩は重く、誤った考えも多くはびこるので般若心経等の凡薬では極重病の末法の衆生、我々は救われません。
ただ、法華経の神薬に頼って救われるのです。
例えば、小船に大石を積んで海を渡ろうとすれば沈んでしまいますが、大船に大石を積んでも沈まず渡航できますよね。
般若心経の小船に乗って大煩悩・極重病の我々現代人を載せれば沈んで用を成さず、法華経という大船に乗れば、生死の海を難なく渡って彼岸に到達できるのです。
また、伝教大師が南都六宗を破って天台宗を興し、法華経を国民の拠り所の経と定めた時点から、日本国は一向に法華経流布の国です。
法華経は末代万年に至るまで広く流布されることが予言されていますが、般若心経などの余経は像法までに利益をもたらし、末代に至ってこれを修行してもこれっぽっちの証も得られません。
権大乗経が弘まった後に実大乗経が弘まるのは善いことですが、実大乗経が弘まった後に権大乗経を弘める行為は忌むべきことです。
例えば、劣った者の後に優れたものが来て劣った者を追い出すのは慣例ですが、優れた者の後に劣った者が来て優れた者を追い出すなら、上下転倒した忌まわしい事です。
実大乗経の国に権大乗経(般若心経)を弘めようとする行為もこれと同じです。
般若心経は日本人を救う道にはなりません。今の日本人に必要なのはただ法華経の題目です。般若心経の読誦・書写はやめて、一向に南無妙法蓮華経を唱えるのが真の仏道を歩むものであり、仏果(成仏)を得るための唯一の道なのです。
以下、参考御書
教機時国鈔 弘長二(1262) 本朝沙門 日蓮 註之
一に教とは、釈迦如来所説の一切経の経律論五千四十八巻八十秩。天竺に流布すること一千年、仏の滅後、一千一十五年に当りて、震旦国に仏経渡る。後漢の孝明皇帝、永平十年丁卯より唐の玄宗皇帝、開元十八年庚午に至るまで、六百六十四歳之間に一切経渡り畢んぬ。此の一切の経律論の中に小乗・大乗・権経・実経・顕教・密教あり。此れ等を弁ふべし。此の名目は論師人師よりも出でず仏説より起る。十方世界の一切衆生、一人も無く之を用ふべし。之を用ひざる者は外道と知るべき也。
阿含経を小乗と説く事は方等・般若・法華・涅槃等之諸大乗経より出でたり。法華経には一向に小乗を説きて法華経を説かざれば慳貪に堕すべしと説きたまふ。涅槃経には一向に小乗経を用ひて仏を無常なりと云はん人は、舌、口中に爛るべしと云云。
二に機とは、仏教を弘むる人は必ず機根を知るべし。舎利弗尊者は金師に不浄観を教え、浣衣の者に数息観を教ふる間、九十日を経て所化の弟子、仏法を一分も覚らずして、還りて邪見を起し一闡提と成り畢んぬ。仏は金師に数息観を教へ浣衣の者に不浄観を教へたまふ。故に須臾の間に覚ることを得たり。智慧第一の舎利弗すら尚お機を知らず。何に況んや末代の凡師機を知り難し。但し機を知らざる凡師は所化の弟子に一向に法華経を教ふべし。
問て云く_〔無智の人の中にして 此の経を説くことなかれ〕の文は如何。
答て云く 機を知るは智人之説法する事也。又、謗法の者に向ひては一向に法華経を説くべし。毒鼓の縁と成さんが為也。例せば不軽菩薩の如し。亦智者となるべき機と知らば、必ず先づ小乗を教へ次に権大乗を教へ後に実大乗を教ふべし。愚者と知らば、必ず先づ実大乗を教ふべし。信謗共に下種と為れば也。
三に時とは、仏教を弘めん人は必ず時を知るべし。譬へば農人の秋冬田を造るに種と地と人の功労とは違はざれども一分も益無く還りて損ず。一段を作る者は少損也。一町・二町等の者は大損也。春夏に耕作すれば、上中下に随て皆分分に益有るが如し。仏法も亦復是の如し。時を知らずして法を弘めば益無き上、還りて悪道に堕する也。仏出世したまひて必ず法華経を説んと欲するに、設ひ機有れども時無きが故に、四十余年此の経を説きたまはず。故に経に云く〔説時未だ至らざるが故なり〕等云云。仏の滅後の次の日より正法一千年は持戒の者は多く破戒の者は少なし。正法一千年の次の日より像法一千年は破戒の者は多く無戒の者は少なし。像法一千年の次の日より末法一万年は破戒の者は少なく無戒の者は多し。正法には破戒無戒を捨てて持戒の者を供養すべし。像法には無戒を捨てて破戒の者を供養すべし。末法には無戒の者を供養すること仏の如くすべし。但し法華経を謗ぜんものをば、正像末の三時に互りて持戒の者をも無戒の者をも破戒者のをも共に供養すべからず。供養せば必ず国に三災七難起り、必ず無間大城に堕すべき也。法華経の行者の権経を謗ずるは、主君・親・師の、所従・子息・弟子等を罰するが如し。権経の行者の法華経を謗ずるは、所従・子息・弟子等の主君・親・師を罰するが如し。又当世は、末法に入りて二百十余年也。権経念仏等の時歟。法華経の時歟。能く能く時刻を勘ふべき也。
四に国とは、仏教は必ず国に依て之を弘むべし。国には寒国・熱国・貧国・富国・中国・辺国・大国・小国、一向に偸盗国・一向に殺生国・一向に不孝国等、之有り。又一向に小乗の国・一向に大乗の国・大小兼学の国も、之有り。而るに日本国は一向に小乗の国歟。一向に大乗の国歟。大小兼学の国歟。能く能く之を勘ふべし。
五に教法流布の先後とは、未だ仏法渡らざる国には、未だ仏法を聞かざる者あり。既に仏法渡れる国には仏法を信ずる者あり。必ず先に弘まる法を知りて後の法を弘むべし。先に小乗・権大乗弘まらば、後に必ず実大乗を弘むべし。先に実大乗弘まらば、後に小乗・権大乗を弘むべからず。瓦礫を捨てて金珠を取るべし。金珠を捨てて瓦礫を取ること勿れ[已上]。
此の五義を知りて仏法を弘めば、日本国の国師とも成るべき歟。所以に法華経は一切経之中の第一の経王なりと知るは、是れ教を知る者也。但し光宅の法雲・道場の慧観等は、涅槃経は法華経に勝れたりと。清凉山の澄観・高野の弘法等は華厳経・大日経等は法華経に勝れたりと。嘉祥寺の吉蔵・慈恩寺の基法師等は般若・深密等の二経は法華経に勝れたりと。天台山の智者大師只一人のみ一切経の中に法華経を勝れたりと立てるのみに非ず、法華経に勝れる経、之有りと云はん者を諌暁せよ。止まずんば、現世に舌、口中に爛れ、後生は地獄に堕つべし等云云。
此れ等の相違を能く能く、之を弁へたる者は教を知れる者也。当世の千万の学者等、一一之に迷へる歟。若し爾らば、教を知れる者、之少なき歟。教を知れる者、之なくば、法華経を読む者之無し。法華経を読む者之無ければ国師となる者無き也。国師となる者無ければ国中の諸人、一切経之大小・権実・顕密の差別に迷ふて、一人に於ても生死を離るゝ者は爪上の土よりも少なし。恐るべし恐るべし。
日本国の一切衆生は、桓武皇帝より已来四百余年、一向に法華経の機也。例せば霊山八箇年の純円の機為るが如し[天台大師・聖徳太子・鑒真和尚・根本大師・安然和尚・慧心等の記、之有り]。是れ、機を知れる者也。而るに当世の学者の云く 日本国は一向に称名念仏の機也等云云。例せば舎利弗の機に迷ふて所化の衆を一闡提と成せしが如き也。日本国の当世は、如来の滅後二千二百一十余年。後五百歳に当りて妙法蓮華経広宣流布之時刻也。是れ、時を知る也。而るに日本国の当世の学者或は法華経を抛ちて、一向に称名念仏を行じ、或は小乗の戒律を教へて叡山の大僧を蔑み、或は教外を立てて法華の正法を軽しむ。此れ等は時に迷へる者歟。例せば勝意比丘が喜根菩薩を謗じ、徳光論師が弥勒菩薩を蔑みて阿鼻の大苦を招きしが如き也。日本国は一向に法華経の国也。例せば舎衛国の一向に大乗なりしが如き也。又天竺には一向に小乗の国・一向に大乗の国・大小兼学の国も、之有り。日本国は一向に大乗の国也。大乗の中にも法華経の国為るべき也[瑜伽論・肇公記・聖徳太子・伝教大師・安然等の記、之有り]。是れ、国を知る者也。而るに当世の学者、日本国の衆生に一向に小乗の戒律を授け、一向に念仏者等と成すは、譬へば宝器に穢食を入れたるが等云云[宝器は、譬へば伝教大師の守護章に在り]。日本国には欽明天皇の御宇に仏法百済国より渡り始め、桓武天皇に至りて二百四十余年之間、此の国に小乗・権大乗のみ弘め、法華経有りと雖も其の義未だ顕れず。例せば震旦国に法華経渡りて三百余年之間、法華経有りと雖も、其の義未だ顕れざるが如し。桓武天皇の御宇に伝教大師有りて、小乗・権大乗の義を破して法華経の実義を顕せしより已来、又異義無く純一に法華経を信ず。設ひ華厳・般若・深密・阿含・大小之六宗を学する者も、法華経を以て所詮と為す。況んや天台・真言の学者を乎。何に況んや在家無智の者を乎。例せば崑崙山に石無く、蓬莱山に毒無きが如し。
建仁より已来今まで五十余年之間、大日・仏陀、禅宗を弘め、法然・隆寛、浄土宗を興し、実大乗を破して権宗に付き、一切経を捨てて教外を立つ。譬へば珠を捨てて石を取り、地を離れて空に登るが如し。此れは教法流布の先後を知らざる者也。
仏誡めて云く_値悪象不値悪知識〔悪象に値ふとも悪知識に値はざれ〕等云云。法華経の勧持品に後五百歳二千余年に当りて法華経の敵人三類有るべしと記し置きたまへり。当世は後五百歳に当れり。日蓮仏語の実否を勘ふるに、三類の敵人、之有り。之を隠さば法華経の行者に非ず。之を顕さば、身命定めて喪はん歟。法華経第四に云く_而此経者。如来現在。猶多怨嫉。況滅度後〔而も此の経は如来の現在すら猶お怨嫉多し、況んや滅度の後をや〕等云云。同じく第五に云く_一切世間多怨難信〔一切世間に怨多くして信じ難く〕。又云く_我不愛身命 但惜無上道〔我身命を愛せず 但無上道を惜む〕同じく第六に云く_不自惜身命〔自ら身命を惜まず〕涅槃経の第九に云く_譬如王使 善能談論 巧於方便 奉命他国 寧喪身命 終不匿王所説言教。智者亦爾。於凡夫中不惜身命 要必宣説 大乗方等〔譬へば王の使の善能く談論して、方便に巧みなる、命を他国に奉くるに寧ろ身命を喪ふとも終に王の所説の言教を匿さざるがごとし。智者も亦爾なり。凡夫の中に於て身命を惜しまず〕云云。章安大師釈して云く ̄寧喪身命不匿教者 身軽法重死身弘法〔寧喪身命不匿教とは身は軽く法は重し。身を死して法を弘む〕云云。此れ等の本文を見れば、三類の敵人を顕さずんば、法華経の行者に非ず。之を顕すは法華経の行者也。而れども必ず身命を喪はん歟。例せば師子尊者・提婆菩薩等の如くならん云云。
二月十日 日蓮 花押
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