この世界を始めに創造した者、この世界の仕組みを設計した者、人間などの生き物を始めに創造した者、人体の生体システムを設計した者…これらを創造した人格者はいません。絶対にいません。
ある創造論者は、「人体や自然の仕組みは素晴らしい!こんな完璧なシステムは創造主のような者がいて設計したに違いない!」と思い込んでいるが、それは大きな誤りである。こういう思い込みを邪見という。
創造されたというなら、その根拠は示せるのか?創造主の存在証明ができるのか?
証明できないのなら、どうして勝手にいると決めつけるんだい?
「人体は素晴らしい!」「宇宙の仕組み素晴らしい!」からといって、創造した神様がいるという証明にはならない。
その主張だけを聞けば、確かに宇宙や人体の仕組みは人智が及ばぬほど複雑で、完璧に循環して素晴らしいようにに見える。だから、創造主のような者がいたと仮定したほうが納得しやすい。
しかし、こうも考えられる。
簡単に病気になってしまう我々の人体は本当に素晴らしいでしょうか?素晴らしいといえますか?
百年足らずの寿命は創造主が決めたのでしょうか?完璧といえますか?
創造主の存在を信じている人がいたらこう問い掛けましょう。
私「じゃあ、なぜこの世界を設計した創造主は、人智の及ばぬ地震や洪水などの天災をわざわざ起こして人々を苦しめるのでしょうか?もしこの世界が創造主によって設計されたなら、地震や洪水なども起こらないように完璧に設計すればいいじゃないですか」と。
創造論者「創造主は天災を与えて人間を苦しめたりしないよ。天災はね、人間に過失があるんだよ。創造主には責任がない」と言い返されたら、
私「あなたはすでに自分で自分の主張を否定してしまっている。だったら世界を設計していないことになる。自業自得、人間の業(行い)によって成り立っていることを認めてしまっている。
人間の過失によって天災が引き起こされるなら、それこそ創造主がこの世界を隅々まで設計したという理論を自ら否定している。
もしこの世界を創造する能力があるのなら、あらかじめ天災が全く起こらない設計にしておくことなど容易いことだ」
以上のように考えられませんか?
例えば、障害を持って生まれる人間がいる。その障害は創造主によってもたらされたものか。
また、生まれながらにして病気を患っている者もいる。その病気は創造主が意図して与えたものか。
人が病気に成るのは誰のせい?創造主は人が病気になる仕組みも人体に組み込んでおいた…?違うよね。
動物は?人間よりも機能が劣っている動物がいたり、人間の中でも能力が劣っているの者がいるのも創造主のお計らい?
人間に生まれたのに、「人間に生まれたくなかった」と思い込むのは誰のせい?
病気や障害を持って生まれた者の中には、「創造主はなぜ私だけこんな不幸な身に生んでくれたの?」と創造主を恨む者もいるのだろう。
被造物が創造主に反する意思を持ってしまうのも創造主の計らい?
百歩譲って創造主がいたとしましょう。
その創造主によって創られた人体の仕組みは完璧なように見えて不完全のことは明白である。
創造主による被造物が完璧でないのなら、それを作った者も完璧でない。
創造主が完璧なら、生まれる人間を全て病気や障害の無い完璧な者として平等にすべきである。完璧にできるはずである。しかし、実際はそうではない。
創造主がいると主張している人たちは、その素晴らしい部分だけを見て不完全な部分、欠陥を観ようとしない。木を見て森を見ずといえる。
素晴らしい部分だけを感嘆して、「これは創造されたんだ!」と決めつけてしまっている。
都合のよい部分だけ見て勝手に理由を付けて納得してしまっている。思考停止である。
そう。創造主の存在を主張する人たちは、全て思い込みなのである。概念を押し付けているだけである。
ウイルス感染や恐竜の存在などと同じく迷信なのである。人類最大の迷信といってよい。
そもそも創造主を信じる者は、万物は因縁――業力の縁であること全く知らない、全く理解できない。
仏法に無縁だから、古来からの邪悪な通説に引っかかってしまうのである。
じゃあ、何によって創られた?
森羅万象、人体や世界の事象・万物は、全てそれぞれの生き物の心を主とする業(行い)によって顕現されたものである。
全ては縁生です。
病気はその人の行い(業)の報いとして罹る。
天災などの災害もそう。集団の行い(悪業)が天に共鳴して罰を被る。
心によって感じられたものだが、ここで「引き寄せ」という言葉はスプリチュアル的なので使いたくない。
創造主を打ち立てないで「自分の心が作り出している」とスピリチュアル系の人がよく言うが、スビリチュアルと仏法は同一ではない。似て非なるもの。
スピリチュアルもある程度の真理を含むが、キリスト教と同じでその教えはあやふやだ。不完全で信用に及ばない。
スピリチュアルでは波動や心の顕現を説くが、因縁を説かない。
因果の法則を語る人もいるが補助的に用いるだけで、因果が根本であることを言わない。
だから、ここで仏法と相違する。
釈尊は経典中、要所要所で「無主・無作者…因縁有り」と説かれている。
仏法では専ら因縁が説かれる。仏教は因縁、因果の教えであるといっても過言ではない。
因縁(縁生)によって成り立っており、そこに創造者、支配者、人格は存在しない。
これが釈迦が悟った内容の一部である。
因縁を諸法の本と為す。
摩訶止觀・弘決 巻第一
ー因縁は即ち無明なり。
外道は邪に、「諸法は自在天より生ず謂い、或は言く世性、或は言く微塵、或言く父母、或は言く無因と」種種に邪推すれども道理に当たらず。
法華玄義巻第二・法華玄義釋籤 巻第五
此の正因縁は邪計に同じからず。ただこれ過去の無明顛倒の心中に諸行を造作し、能く今世の六道の苦果を出だす。好悪同じからず。
正法念に云く「画人が五彩を分布して一切の形を図す。端正・醜陋は称げて計うべからず。其の根本を原ねれば、画手より出ずと。六道の差別は自在等の作に非らず。悉く一念無明の心より出ず。
―無明の造と知る。
現代語訳:他の宗教は誤ってこう解釈する。「万物は自在天(神・創造主)によって創られる、または世性、または微塵(量子)によって、または父母(陰陽)によって、または無因で(自然に)生まれる…。様々に解釈するが、どれも真実でない。
因縁によって解釈することが正しく、外道の曲解と異なる。ただ、過去の無明、転倒の心に諸々の行いを造作し、現在の六道の苦しみの結果を生じる。美醜はそれぞれ異なる。
正法念経にこう説かれる、「画家が五色を織り交ぜてあらゆる絵を描くように、美醜の差別は数えきれない。その根源は、画家の手より生まれる。六道の差別は神の創造に非ず。全て一念、無明の心より発生する。
ーつまり、無明によって造られるということ。
諸法は因縁によって生ずる。森羅万象は因縁が根本。
その因縁は無明から始まる。十二因縁の始めは、無明。
故に、万物は創造主ではなく「無明」によって創られているといえる。
そもそもなぜ私がそこまで創造主を否定できるかというと、釈迦が「いない」と結論付けているからです。
仏教徒なので、釈迦の判断、経典の説にそのまま従うしかありません。
釈迦は「創造主がいる」ということを悟ったのではなく、「創造主はいない」ということを悟ったのです。
当時は自称覚醒者の婆羅門、外道がはびこっており「自在天や梵天などの創造主がいてこの世界を創った」という説が人々の間に広まっていました。
それを喝破されて、創造主はいないと説かれたのです。
創造主ではなく、ただ業によって成り立っているのです。
そして、その通りに考えた方がつじつまが合うから、私も創造主はいないと確信したのです。
もし創造論者の中に「釈迦は創造主を否定してないよ」という者がおれば、どのお経に釈迦が創造主の存在を認めた部分があるのか教えてほしい。
彼らは仏典を精査しているのでしょうか?
断言しますが、釈迦は創造主を肯定していません。
創造主がいると主張している自称覚醒者は偽物です。邪覚者であり正覚者ではないので気を付けてください。
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