善男子よ、諸もろの衆生有りて、断見を生じて是くの如き言を作せり。「一切衆生にして身が滅して後に、善悪の業として受くる者有あること無し」と。
『大般涅槃経』迦葉菩薩品第二十四の一
我れは是の人の為に是くの如き言を作せり、「善悪の果報は実に受くる者有り」と。
- 人間死んだら無に帰す
- 灰塵に帰すのみ
と一部の人は考えているが、この考え方は間違っている。
もし全ての人間が死んで無に帰るのなら、なぜ人間が生まれるときには、手の無い者・足の無い者・盲目の者・醜い者・美しい者……などのあらゆる差別があって生まれてくるのだろう?
つまり、あらゆる差別があって生まれるのはどういった理由なのかということである。
もし全ての生き物が、「無」と言う共通のものに帰り、「無」と言う共通のものから発生するなら……一切の生き物は皆違いのない共通のものとなるべきである。もちろんそうなってはいない。
周りを見渡せば、様々な生き物の様々な差別のあることを簡単に認識できる。
それは全て、前世の業が生き物によってそれぞれ違うからである。
例えば、現世でも「あの人が刑務所に入っているのは、以前、悪事を働いたからその報いを受けているのだ」ということは簡単に考えられるだろう?
あるキリスト者が言うように、神が「お前は動物として、お前は人間として生まれるべきだ…」と自由に決めているのなら、その生き物が生前に行った善悪は一切考慮されないということになる。
もし「どんな生き物に生まれるかは全て神が決めているのだ」「どんな生き方をしても無に帰るだけだ」という主張を信じるなら、その人はこう考えるだろう。

私は神様を信じているから天国に生まれることが決まっている。
だから、その神様の教えを人々に布教するためなら、異教徒を騙したり奴等からから盗み取ったりする悪事は許されるのだ。

俺が死んでもどうせ「無」になってしまうんだから、今生きている間にどんな悪いことをしても捕まらなければそれでいい。
だから、快楽を得んがために金を沢山集めて法律の網を掻い潜り、世間で悪と言われていることを好きなだけしようではないか。
このような考えを起こしてしまったら犯罪を助長して、社会に迷惑をかけて大きな苦しみを受けるだろう。
この考え方は誤っている。なぜ誤っているのかというと人を苦しめるからである。人を苦しめることは間違っている。
実際に善よりも悪を多く行ったにも関わらず、神がその人の生前の悪業を無視して独断で天国に生まれることを決めるのならおかしい。
実際には悪よりも善を多く行ったにも関わらず、神が地獄に生まれることを決定するならこれもおかしい。
もし神が、当人の生前の善悪の業を正確に考量して、次に何に生まれ、どこで生まれるかを決めるのなら、何故その神は一度でも、例えば原初のアダムとイブだけは人間として生まれることを決めることができるのか。
以上、私の説明は分かりにくいだろうが、とにかく「死んだ人間が皆等しく無に帰す」というのは誤りであることを分かって欲しい。
所謂る「衆生の身とは即ち五陰なり(是)。五陰とは(即)五大に名づく。衆生が若し死せば永に五大を断つ。五大を断つが故に、何ぞ善悪の諸もろの業を修習することを須いんや?是の故に、当に善悪、及び善悪の報い有ること無しと知るべし」なり。
『大般涅槃経』師子吼菩薩品之六
是くの如きは(則)一闡提と名づくる也。一闡提とは善根を断つに名づく。
もしその考えを信じ込んで広めるなら、自殺を助長して社会に迷惑をかけ、大きな苦しみを引き起こすだろう。
我が「一切の悪行は邪見を因と為す」と説く所の如し。
『大般涅槃経』迦葉菩薩品之二
一切の悪行の因は無量なりと雖も、邪見を説くがごときはすでに摂め尽くる也。
「これが本当だ」と思っているあなたの考えが、自分と他人を苦しめるものであれば、それは誤っているから反省して改めて欲しい。
もし人々が「人間死んだら皆等しく無に帰す」という誤った考えを捨てて、今生きている間に作っている善悪の報いは死後も消えることは無く、後世に引き継がれることを認めたとしよう。
そうすれば、現世をしっかりと見つめ行いを慎んで、自分も人も社会も苦しめず安楽に過ごすことができる。
正しく因果の決定して孱然(現前)なりと信ず。業種久しと雖も久しく敗亡せず。
『摩訶止観』 巻第四
終に自ら作して他人が果を受くること無し。精しく善悪を識って疑惑を生ぜず。是れを深く信じて一闡提の心を翻破すと為す。
正しい考えは犯罪を防ぎ、社会を安定させ、多くの楽しみを生むのだ。
例えば、キリスト教を禁忌した江戸時代と、キリスト教が絶対的だった中世の欧州を比べてみるがいい。
一方は黄金時代を築き上げたが、一方は暗黒時代になってしまった。


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