念仏は無間地獄に堕ちること(3)

問うて云く 念仏無間獄とは何なる経に見えたるぞや。
答えて云く 念仏往生とは何れの経に見えて候ぞや。
答えて云く 浄土の三部経にて説きて候なり。
問うて云く 三部経は法華より前歟、後歟。若し前に説きて候わば、法華経の方便にて未顕真実の経にてそら事にて候なり。
問うて云く 未顕真実とこそ候なれ。無間とは見え候わず。
答えて云く 若し人信ぜずして 此の経を毀謗せば  則ち一切世間の 仏種を断ぜん。二なく亦三なし 仏の方便の説をば除く 乃至 余経の一偈をも受けざるあらん
と説かれて候。又正直捨方便未顕真実と。
此れ等の旨を信ぜぬを其の人命終して 阿鼻獄に入らんと説きて無間地獄に入るべしと分明に見え候なり。

『問答鈔』

法華経をすてて念仏者とならせ給わんは、峯の石の谷へころび、空の雨の地におつるとおぼせ。大阿鼻地獄疑いなし。
<中略>
悪魔の法然が一類にたぼらかされたる人々也とおぼして、大信心を起こし御用いあるべからず。大悪魔は貴き僧となり、父母兄弟等につきて人の後生をばさうるなり。

『南条兵衛七郎殿御書』

 天魔の身に入りて候善導・法然なんどが申すに付きて、国土に阿弥陀堂を造り或は一郡・一郷・一村等に阿弥陀堂を造り、或は百生万民の宅ごとに阿弥陀堂を造り、或は宅々人々ごとに阿弥陀仏を書き造り、或は人ごとに口々に或は高声に唱へ、或は一万遍或は六万遍なんど唱ふるに、少しも智慧ある者は、いよいよこれをすゝむ。譬へば火にかれたる草をくわへ、水に風を合わせたるに似たり。此の国の人々は一人もなく教主釈尊の御弟子御民ぞかし
 而るに阿弥陀等の他仏を一仏もつくらず、かかず、念仏も申さずある者は悪人なれども、釈迦仏を捨て奉る色は未だ顕れず。一向に阿弥陀仏を念ずる人々は既に釈迦仏を捨て奉る色顕然也。彼の人々の墓なき念仏を申す者は悪人にてあるぞかし。父母にもあらず主君師匠にてもおはせぬ仏をばいとをしき妻の様にもてなし、現に国主・父母・明師たる釈迦仏を捨て、乳母の如くなる法華経をば口にも誦し奉らず、是れ豈に不孝の者にあらずや。
<中略>
阿弥陀仏は十万億のあなたに有りて、此の娑婆世界には一分も縁なし

『一谷入道御書』

 念仏は是れ浄土宗所用の義也。此れ又権教の中の権教也。譬へば夢の中の夢の如し。有名無実にして其の実無き也。一切衆生願ひて所詮なし。然らば云ふ所の仏も有名無実の阿弥陀仏也。何ぞ常住不滅の道理にしかんや。されば本朝の根本大師の御釈に云く ̄有為報仏夢中権果 無作三身覚前実仏〔有為の報仏は夢中の権果、無作の三身は覚前の実仏〕と釈して、阿弥陀仏等の有為無常の仏をば大にいましめ、捨てをかれ候也。既に憑む所の阿弥陀仏有名無実にして、名のみ有りて其の体なからんには、往生すべき道理をば、委しく須弥山の如く高く立て、大海の如くに深く云ふとも、何の所詮有るべきや。又経論に正しき明文ども有りと云はば、明文ありとも未顕真実の文也。浄土の三部経に限らず、華厳経等より初めて何の経教論釈にか成仏の明文無からん耶。然れども権教の明文なる時は、汝等が所執の拙きにてこそあれ、経論に無き僻事也。何れも法門の道理を宣べ厳り、依経を立てたりとも夢中の権果にて無用の義に成るべき也。

『諸宗問答鈔』

観経等は此の法華経へ教へ入れん方便の経也。浄土の往生して成仏を知るべしと説くは、権経の配立、観経の言説也。真実には此土にて我が身を仏因と知って往生すべき也。此の道理を知らずして浄土宗の日本の学者、我が色心より外の仏国土を求めさする事は、小乗経にもはづれ、大乗にも似ず。師は魔師、弟子は魔民。一切衆生の其の教を信ずるは三途の主也

戒体即身成仏義

昼夜、朝暮に弥陀念仏を申す人は、薬はめでたしとほめて朝夕毒を服する者の如し。或は念仏も法華経も一つなりと云はん人は、石も玉も、上臈も下臈も、毒も薬も一つなりと云はん者の如し。其の上法華経を怨み、嫉み、悪み、毀り、軽しめ、賎しむやからのみ多し。

法華初心成仏鈔

念仏等は法華経の題目に対すれば、瓦石と宝珠と、螢火と日光との如し。

善無畏三蔵鈔

 而るに当世日本国は人毎に阿みだ経竝びに弥陀の名号等を本として、法華経を忽諸し奉る。世間に智者と仰がるる人々、我もわれも時機を知れり知れりと存ぜられげに候へども、小善を持て大善を打ち奉り、権経を以て実経を失ふとがは、小善還りて大悪となる、薬変じて毒となる、親族還りて怨敵と成るが如し。難治の次第也。
<中略>
 夫れ阿弥陀念仏と申すは源と釈迦如来の五十余年の説法の内、前四十余年の内の阿弥陀経等の三部経より出来せり。然れども如来の金言なれば定めて真実にてこそあるらめと信ずる処に、後八年の法華経の序分たる無量義経に仏、法華経を説かせ給はんために、先づ四十余年の経々竝びに年紀等を具さに数へあげて、_未顕真実 乃至 終不得成。無上菩提 と、若干の経々竝びに法門を唯一言に打ち消し給ふこと、譬へば大水の小火を消し、大風の衆の草木の露を落とすが如し

『下山御消息』

次に阿弥陀経を以て例時の勤めと為すべき之由之事。
夫れ以みれば花之月と、水の火と時に依て之を用ゆ。必ずしも先例を追ふべからず。仏法又是の如し。時に随て用捨す。其の上汝等の執する所の四枚の阿弥陀経は四十余年未顕真実の少経也。一閻浮提第一の智者たる舎利弗尊者、多年之間此の経を読誦するも、終に成仏を遂げず。然る後、彼の経を抛ち、法華経に来至して華光如来と為る。況んや末代悪世の愚人、南無阿弥陀仏の題目計りを唱へて順次往生を遂ぐべしや
故に仏之を誡めて言く 法華経に云く_正直捨方便 但説無上道〔正直に方便を捨てて 但無上道を説く〕と云云。教主釈尊正しく阿弥陀経を抛ちたまふ云云。又涅槃経に云く_如来雖無虚妄之言 若知衆生因虚妄説〔如来は虚妄之言無しと雖も、若し衆生虚妄の説に因って法利を得ると知れば〕と云云。正しく阿弥陀念仏を以て虚妄と称する文なり。法華経に云く_但楽受持 大乗経典 乃至不受 余経一偈〔但楽って 大乗経典を受持して 乃至 余経の一偈をも受けざるあらん〕云云。妙楽大師云く_況彼華厳 但以福比。不同此経 以法化之。故云 乃至不受 余経一偈〔況んや彼の華厳、但福を以て比す。此の経の法を以て之を化するに同じからず。故に乃至不受 余経一偈と云ふ〕云云。
『瀧泉寺申状』

阿弥陀仏の化身とひびかせ給ふ善導和尚の云く ̄十即十生・百即百生 乃至 千中無一と。勢至菩薩の化身とあをがれ給ふ法然上人、料簡此釈〔此の釈を料簡して〕云く ̄末代に念仏の外の法華経等を雑ふる念仏においては千中無一、一向念仏者十即十生〔一向に念仏せば十即十生と〕云云。
 日本国の有智・無智仰ぎて此の義を信じて、于今〔今まで〕五十余年一人も疑ひを加へず。唯日蓮の諸人にかはる所は、阿弥陀仏の本願には唯除五逆誹謗正法〔唯五逆と誹謗正法とを除く〕とちかひ、法華経には_若人不信 毀謗此経 則断一切 世間仏種〔若し人信ぜずして 此の経を毀謗せば 則ち一切世間の 仏種を断ぜん〕乃至 其人命終 入阿鼻獄〔其の人命終して 阿鼻獄に入らん〕と説かれたり。此れ善導・法然、謗法の者なれば、たのむところの阿弥陀仏にすてられをはんぬ。余仏余経においては我と抛ちぬる上は、救ひ給ふべきに不及〔及ばず〕。法華経の文の如きは無間地獄疑ひなしと云云。
『四条金吾殿御返事(梵音声書)』

 足代より搭は出来して候へども、搭を捨てゝ足代ををがむ人なし。今の余の道心者等、一向に南無阿弥陀仏と唱へて一生をすごし、南無妙法蓮華経と一返も唱へぬ人々は大搭をすてゝ足代ををがむ人々也。世間にかしこくはかなき人と申すは是れ也。
『上野殿母尼御前御返事』

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