我思う、故に我あり。
デカルト『方法序説』
デカルトは、この有名な言葉によって「思考している自分」の存在は疑うことができない、「我」が存在し、これを真理と見なした。
デカルトの主張を正確に整理すると……
まず、デカルトの核心主張をまとめてみる。
- 私はすべてを疑うことができる
- 感覚は間違うことがある
- 身体についても疑える
- 夢かもしれない
- しかし「疑っているこの思考そのもの」だけは否定できない
- よって「思考している限り、思考する主体(我)は必ず存在する」
つまり、デカルトは
思考(専念・憶想)がある → それを担う実体としての「我」が必ず存在する
と結論付けた。
では、本当に「思考している」という事実から、「我」という実体の存在まで証明できるのだろうか?
『涅槃経』『成実論 』 『摩訶止観』 『摩訶止観弘決』
今回は上の経論などを用いて、デカルトの「我思う、ゆえに我あり(cogito ergo sum)」の誤りを完全に論破する。
『方法序説』の訳本は岩波文庫版を用いた。
以下、AIの手助けを借りて、論理構造を対応させながら段階的に示していく。
その推論は二十の身見の範疇
デカルトのこのような推論に至る例は、成実論などの多くの経論で示されている。
問いて曰く、現に色身の髪・毛・爪等の諸分、各々異なるを見るに、云何が智者は之を以て我と為すや。
答えて曰く、人有りて神を見ること、麦の如く、芥子の如く等、心中に住す。
婆羅門の神は白く、刹利の神は黄、違舎の神は赤、首陀羅の神は黒し。
又、違陀の中に説く、「冥初の時、大丈夫神の色は日光の如し。若し人、此れを知れば能く生死を度し、更に余道無し」と。小人は則ち小、大人は則ち大にして、身窟の中に住す。有る坐禅人、光明相を得て、身中の神を見ること、浄珠中の縷の如し。是の如き等の人は『色』を計して我と為す。
『成実論』身見品第一百三十
麁思惟する者は『受』を是れ我と説く。木石等の中に受無きが故に、受即ち我なることを知るべし。
中思惟する者は『想』を是れ我と説く。苦楽過ぐと雖も、猶お想我の心有るが故なり。
細かく思惟する者は『行』を我と為すと説く。瓶等の想過ぐと雖も、猶お思我の心有るが故なり。
深細に思惟する者は『識』を我と説く。思も亦た麁なることを知る。是の思過ぐと雖も、猶故(なお)識有るのは我心の故なり。
<中略>
是くの如き二十分は、皆痴に由って生ず。
五陰
色=身体などの物質的なもの
受=感覚・受け取る働き
想=対象を想い描く・イメージする働き
行=意志・心の作用
識=対象を識別・認識する働き
- 色は形而下。
最も表に現れ麁いので見易い。 - 受想行識は形而上。
階層でいうと「受」が最も浅く色に近く、「識」が最も深い。
識は最奥にあり、最も細かいので見難い。
五陰のうち、何を「我」とするかについて
- 違陀の説・禅定を修めた者 → 「色」を我とする
- ある人は、身体の中に神(精神・魂)が存在し、それは胡麻粒や芥子粒ほどの大きさで、心臓の中に宿っているいると見なす。※これは子供が抱くような見解といえよう
- 違陀(ヴェーダ)の説では、
- 「冥初の時、原始の人間の神の色は日光のようである。もしこの理を知れば生死を超えられる。他に道はない」という。
- 「小さな者の神は小さく、大きな者の神は大きい。それは身体という洞窟に住む」という。
- 禅定を修めた者の中には、光明の想を得て、身体の神が宝珠にある微細な筋のようなものだと考える者がいる。
これらは「色が我である」と考える。
その他、思惟の粗密に応じて様々な説に分かれる。
- 粗い思惟をする者 → 「受」を我とする
例えば、「木や石には感覚がないから、受こそ我である」と考える。 - 中程度の思惟をする者 → 「想」を我とする
苦楽そのものが消えても、「想いは残るから、想が我」だと考える。 - 細かい思惟をする者 → 「行(意思)」を我とする
瓶などを想う(イメージ)は過ぎ去っても、なお「思考する心が残るから、行こそ我」と考える。 - さらに深く細かく思惟する者 → 「識」を我とする
思考が消えても、「識る心(認識)が残るから、識こそ我」だと考える。
という具合である。
しかし、『成実論』は、これらもすべて五陰の各要素を「我」と誤認したものとして結論づける。
「行こそ我」「識こそ我」という考え
デカルトが「我有り」の結論までに至った思考過程は、この論文でいえば、どこに当たるだろうか?
感覚は時にわたしたちを欺くから、感覚が想像させるとおりのものは何も存在しないと想定しようとした。
感覚は排除しているから、「受」は越えている。
すなわち、このようにすべてを偽と考えようとする間も、そう考えているこのわたしは必然的に何ものかでなければならない、と。
ここで推論が止まり、彼の有名な言葉が述べられ、真理であるという結論に至る。
デカルトの推論は、恐らく「細思惟」「深細思惟」までだろう。
しかし、成実論の設問の末でいずれも、
「我と見なす」結論に至るのは、愚痴によって起こったもの
だと指摘されている。
五陰の中に我心(を生ずる)を身見と名づく。実に我無きが故に、五陰を縁として説く。
五陰を身と名づけ、中に於いて見を生ずるを身見と名づく。我無き中に於いて我相を取る、故に見と名づく。
五陰の中に「我が有る」と思い込むことを「身見」という。実際には「我」というものは存在しないのに、五陰を対象として「我有り」と考える。
五陰を「身」という。そして、その中に見解を生じることを「身見」という。
我は無いのに「我有り」と見なして執着するので、「見」というのである。
涅槃経の破折
善男子よ、諸もろの外道が専念を以ての故に「我」有りと知るが若し。
専念の性は実には我に非ざるなり。
若し専念を以て我性と為さば、過去の事には則ち忘失有らん。忘失有るが故に、定かに我無しと知る。善男子よ、諸もろの外道が憶想を以ての故に我有りと知るが若きは、憶想無きが故に、定かに我無しと知らん。
『大般涅槃経』巻第十三 聖行品之下
「人の手に六指有るを見て、即便ちに問いて『我れは先に何処に共相に見たりや?』と言う」と説くが如く、
若し我有らば、応に復た問うべからざるに、相い問うを以ての故に、定かに我無しと知る。
善男子よ。もし諸々の外道(西洋哲学の思想家)が、「専ら念じる働き(集中した意識)があるから、我(アートマン)は存在するのだ」と知るのであれば、その“専念”という性質は、実のところ我そのものではない。
もし専念を我の本性だとするならば、過去の出来事を忘れてしまうことがあるはずである。
忘失がある以上、そこに我はないと、はっきり知ることができる。
また、善男子よ。もし外道が、「記憶や想念があることによって我があると知る」と言うならば、記憶や想念がないときには我は存在しないことになってしまう。故に、確実に我は存在しないと知るべきである。
例えば、人が手に六本の指があるのに(誤って)気付き、「私には指が六本もあっただろうか?」とすぐに尋ねるようなものである。
もし我が本当にあるのなら、そのように問い返す必要はないはずである。“問いかける”という行為がある以上、我は存在しないことが明らかである。
ここでいう「外道」とはデカルトを含めた西洋哲学をいう。
デカルトの「思う」は、ここでいう「専念」「憶想」に当たる。
「思考がある」ことから「我がある」ことは導けない
デカルトの論理展開
デカルトは、
身体や感覚があるから我なのではない。思考しているから我なのである。
としている。
では、その思考とは何か?
思考は五陰のうち、『行』『識』などの心的作用として捉えることができる。
しかし、
思考・認識作用が認められる
ことと、
その思考を以て、「我という実体が存在する」「その我を真理と見なす」
ことは別問題である。
仏教は思考そのものを否定しているのではない。
五陰、認識や思考などの心の働きは生じている。
しかし、
思考が生じているから、それを以て「我」が存在する
とは考えない。
ここに「思考」と「我」を分けて考える必要がある。
涅槃経の論難:思考を「我」と同一視するのは誤り
涅槃経で、釈尊はこの推論を正面から否定している。
経文の論理を整理すると、
専念(思考)=「我」ではない
ということ。
専念の性は実には我に非ざるなり
- そもそも我々人間の思考・意識作用は
- 生起し
- 変化し
- 消滅する
ものである
- 生じては滅し、生じては滅し……これを繰り返す。(念念生滅)
つまり、思考は単なる縁生(現象・条件を必要とする作用)であり、実体として存在するものではあり得ない。
涅槃経の論難 2:思考の不確実性による反論(忘却の問題)
経文の核心的な論破点はここだ。
若し専念を以て我性と為さば、過去の事には則ち忘失有らん。
忘失有るが故に、定かに我無しと知る。
解説
人が精神を集中させるなら集中させただけ、周りの事や過去の事に気を捉われなくなり、忘れてしまうことが多い。そのような経験は誰にでもあるのではないか。
忘却がある以上、実存する我としての統一性を欠いてしまう。
また、現実の人間には忘却の他、
- 昏睡(無意識状態)
- 痴呆
- 混乱
など、様々な精神作用が認められている
したがって、思考を根拠に真理としての「我」を立てることはできない
のである。
「憶想=我」という立場も同時に崩す
デカルト哲学では記憶の連続性も「自己」の根拠としている。
これに対して釈尊は、
憶想無きが故に、定かに我無しと知らん。
と反論している。
デカルトも、
逆に、わたしが考えことをやめるだけで、仮にかつて想像したすべての他のものが真であったとしても、わたしは存在したと信じるいかなる理由も無くなる。
と示している。
「我思う、ゆえに我あり」を簡単に返すと、
我は思わず、ゆえに我なし
といえる。
- 記憶や憶念が無くて我が消えるなら
- 我は条件依存の現象にすぎない
- 条件依存のものは「実体」として認められない
つまり、デカルトの自我は、「縁起的作用(条件があって起こった)」に過ぎないのである。
目覚めているときや記憶が鮮明なときにしか、その自我は自覚できない。
考えることによって認められた真理は、考えることが無くなった時点(憶想無き)で真理でなくなる。
だから、条件を必要とする「我」は真理に成り得ない。絶対的に存在(実存)するとはいえない。
デカルトの論理でいうと記憶喪失の者に「我」は認められないことになる。
普遍性を欠いているデカルトの論理は真理として通用しない。
デカルトの矛盾
「われ考える、ゆえにわたしは存在する」というこの命題において、わたしが真理を語っていると保証するものは、考えるためには存在しなければならないことを、わたしはきわめて明晰にわかっているという以外には全く何もないことを認めたので、
考えるためには存在しなければならない
という。
ここで、デカルトの主張に大きな問題が発生する。
それは、
- 考えるから、我有りなのか?
- 存在しているから、我有りなのか?
ということである。
- 存在を自覚するするためには、考えなければならない。
- しかし、考えるためには存在しなければならない。
- 存在が先か?考えることが先か?
いったいどちらが正しいのだろう。
このようなループにハマってしまうはずだ。
わたしは一つの実体であり、その本質ないし本性は考えるということだけにあって、存在するためにどんな場所も要せず、いかなる物質的なものにも依存しない、と。 したがって、このわたし、すなわち、わたしをいま存在するものにしている魂は、身体からまったく区別され、
デカルトは身体(物質的なもの)と魂を分けて考え、身体は実体ではない(仮想)と捉えた。
もしデカルトのいうように、思考する魂が肉体から全く区別されているなら、思考は身体に依存しなくてもよいはずだ。
しかし実際には、
身体が無ければ考えることができない
つまり、思考は物質的なもの(身体)に依存しているということがはっきり分かる。
もし思考が真理であるなら、それが依存する身体も真理でなければならない。
実体でない身体(仮想)から、どうして実体の思考を導けようか?
つまり、
思考、存在(身体)、いずれを真理と見なしても、依存条件が発生する
のである。
デカルトはその推論で自らの主張を矛盾に陥らせている。
だから、真理には成り得ない。
成実論ではこの推論も指摘されている。
色を見て是れ我とす。所以は何ん。色は是れ我が了する法にして、受等の依る所なり。此の諸々の受等は色に繋がる。故に色を我と謂う。
『成実論』身見品
そして「色(肉体)は我である」と思い込む。なぜなら、色は己が明らかに知るものであり、感覚、思考などが依りかかる基盤だからである。これらの思考などはすべて色(身体)に結びついている。だから、「色(存在)を我である」と見なすのである。
六指の譬喩の意味(決定的反論)
人の手に六指有るを見て、即便ちに問いて『我れは先に何処に共相に見たりや?』と言う」と説くが如く、
若し我有らば、応に復た問うべからざるに、
これは非常に鋭い指摘といえよう。
どう使うか
わたしたちがきわめて明晰かつ判明に捉えることはすべて真である。これを、一般的な規則としてよい、
ただし、わたしたちが判明に捉えるものが何かを見きわめるのには、いくらかの困難がある、と。
- デカルトのいう自我が本当に明証的なら、
- 「これは私だ」と誰でも即座に確定できるはずである。
- しかし、実際には
- 「これは私であるか?」「私ではないのか?」
- 「私の記憶か?」「見間違いか?」
という様々な問いが人間には生じている。
つまり、問い、疑いが生じること自体、「自明な我」が存在しない証拠となるのである。
デカルトは「我は疑えず、これは真である」と見なしたが、この譬えにより、その「我」は明晰かつ判明に捉えることできず、困難が伴うことが反証されている。
つまり、
疑い・問い・確認などが必要になものは、既に実体的自我ではない。真ではない
のである。
老人の譬喩
妙楽大師の『弘決』には、六指の譬喩に似た話が挙げられている。
有る時は他人の身に於いて亦計して我と為す。我無きを以ての故に、有る時は我に於いて謂いて他人と為す。
故に文殊問経に云く、老人有って夜臥し、手に両膝を捉え、便ち問うて云く『那ぞ此の両の小児の有ること得るや?』
身に若し我有らば、云何ぞ識らずして謂いて小児と為す。故に知る。横の計は皆定実無し。
『止観弘決』巻第七之三
『弘決』にはさらに次のような例が説かれている。
ある時には、他人の身体を自分の身体だと思い込むことがある。反対に、ある時には自分の身体を他人の身体だと思うこともある。
このようなことがあるのは、「我」が存在しないからである。
『文殊問経』には、次のような話がある。
「ある老人が夜、横になって寝ているとき、自分の両膝を手で抱え、『どうして私には、この二人の子供がいるのだろう?』と言った。」
もし『我』が存在するのであれば、どうして自分の両膝を自分の身体の一部だと認識できず、二人の子供だと思うことがあるのだろうか。
このことから分かる。思考(デカルトの推論)、思い込みによって立てられた『我』には、確定した実体はないのである。
この譬喩が示しているのは、単に「自分の身体を勘違いすることがある」という話ではない。重要なのは、もし「我」が実在するのであれば、自分の両膝を「二人の子供」と取り違えるような認識が生じるはずがない、という点にある。
つまり、私たちが「これは自分だ」と認識している自己意識そのものが、状況や認識作用によって変化する以上、それを根拠として「我」という実体を立てることはできない。
先の六指の譬喩と合わせれば、「我」が明白に存在するから認識や思考が生じるのではなく、むしろ認識や思考そのものが誤ったり、忘れたり、変化したりすることによって、そこに実体としての「我」が無いことが示されているのである。
デカルト側の再反論
デカルト側から寄せられるであろう再反論を予想して挙げ、回答する。
再反論① 思考は変化しても、「思考をしている主体」まで変化するとは限らない
「変化するのは「思考という状態」であって、その「思考をしている主体」まで変化するとは限らない」
例えば、昨日考えていた「自分」と今日考えている「自分」の思考内容は違う。
しかし、それを経験している主体が同一であることは矛盾しない。
そもそも、あらゆるものを疑っても、「疑っている」という思考そのものが生じていることは否定できない、という認識論上の確実性が出発点である、と。
再反論② 記憶を失っていても、現在思考しているなら存在する
デカルト側は、
「私は記憶を失っていても、現在思考しているなら存在する」
と返すだろう。
さらに現代のデカルト研究・心の哲学の立場からは、
「我思う故に我あり」は、人生を通じた記憶の完全な連続性を証明する命題ではない。
つまり、
記憶の断絶 ≠ 主体の不存在
であるというのだ。
①, ②への回答
仏教は、「人間に思考があることを認めない」と言っているのではない。
問題は、
何を真理と見なすか
である。
デカルトの場合、
- 思考は存在
- 思考は真理
- 思考は我である
という単純な論法で片付けている。
釈尊の場合、
- 思考は存在。しかし、
- その思考は条件依存の縁生であるということを見抜く。だから、
- 思考を我と見なすことはできない。我の証明になっていない。真理には成り得ない。
と繋ぐのである。
つまり、
条件依存しているから存在しない
という単純な話ではない。
条件によって生じるものを、「実体的な我」として捉えることはできない
ということである。
再反論③ 老人の譬喩について―認識が誤ることは、認識主体が存在しないことを意味しない
デカルト側なら、
認識が誤ることは、認識主体が存在しないことを意味しない。
と返すだろう。
③の回答
「主体として存在する」というのも単なる人間の自覚、認知作用(縁生)である。
「主体として存在する」という思いそのものが「我見」である。
主体であればなぜ誤るのか?
誤る時点で、それは確固たるものと言えない。真理にはなりえない。
また、敢えてデカルト側の主張に従い、認識主体が存在するとすれば、それは五陰の「識」である。
成実論の深細思惟、「識を我と見なす」の範疇である。
その識も、命が続いている間でしか人間には認められない。つまり、条件を必要とする。
主体であっても、縁生であり、無常であるのだ。
釈尊は「識」などの五陰は一向に存在しないといっているのではない。
存在しないのではなく、「我」「我所」が実在すると見なすこと、真理と見なすことを誤りだと責めているのだ。
再反論④ 主体としての我が無いなら、いったい誰が思考しているのか?
ここで、デカルト側から最も強い反論が出てくる。
思考が存在するのなら、誰かが思考しているはずではないか?
主体が存在しなければ、思考という出来事そのものを説明できないではないか。
これは一見尤もらしい。
しかし、ここには一つの前提が隠れている。
それは、
あらゆる作用には、それを行う独立した主体が必ず存在しなければならない
という前提である。デカルトは、
どんな身体も無く、どんな世界も、自分のいるどんな場所も無いとは仮想できるが、
だからといって、自分は存在しないとは仮想できない。
と述べている。
つまり、「私は存在するという前提」で推論しているのである。
その前提には根拠が無い。
まず、その前提ですら疑って(仮想してみて)立証するのが先であろう?
仏教は、この前提そのものを認めない。
「我」という思いそのものが、「我見」である
又智慧無きが故に計して「我有り」と言う。慧を以てこれを観れば、実に我有ること無し。
『摩訶止観』巻第七下
我は何れの処にか在る。頭足支節、一一に諦らかに観ずるに、了に我を見ず。何れの処にか、人及び衆生有らん。
業力の機関は仮に空聚と為る。衆縁より生じ、宰主有ること無し。
空亭に宿せる二鬼の屍を争うが如し。此の如く観ずる時、我倒は休息す。
また、智慧がないために、人は「我が存在する」と思い込んでしまう。しかし、智慧によって観察してみれば、実際には「我」など存在しない。
「我」は身体のどこにあるのだろうか?頭、足、手足などの身体の各部分を一つ一つ詳しく観察してみても、そこに「我」を見つけることはできない。それでは、どこに「人」や「衆生」という実体があるというのだろうか?
業の力によって動く機械は仮であり、「空しい集まり」にすぎない。多くの縁によって成り立っているのであって、そこにはそれらを支配する独立した主人(宰主)が存在するわけではない。
逸話にあるように、それは空き家に泊まったところ、二匹の鬼が一つの死体を奪い合うようなものである。
このように観察すれば、「我が存在する」という誤った見方は消えていくのである。
業力の機関は仮に空聚と為る。
『止観』では、人間の身体や心の働きを、業の力によって動く機械と譬えている。
弘決は「骨肉」と捉えているが、ほぼ同義である。
それらは「仮」の存在であり、「空しく集まっており、そこに実体があるわけではない」という意味である。
衆縁より生じ、宰主有ること無し。
これは決定的である。
つまり、多くの縁(条件)によって生じているのであって、それを支配している人格(主人)=我が存在するわけではない。
ということである。
「二鬼争屍」の逸話が示す「無我」
空亭に宿せる二鬼の屍を争うが如し。此の如く観ずる時、我倒は休息す。
逸話を詳しく
『弘決』は『大智度論』を引いて『止観』の箇所を詳しく解説している。
話の流れを簡潔にまとめると、次のようになる。
二匹の鬼が一つの死体を奪い合う
ある人が旅の途中、誰もいない空き家に一人で泊まっていた。
夜になると、一匹の鬼が死体を担いでやって来た。
ところが、そこへ別の鬼が現れ、
「その死体は私のものだ。なぜお前が持って来たのか」
と怒る。
最初の鬼も、
「これは元々私のものだ。私が持って来たのだ」
と言い返す。
二匹の鬼は死体の所有権をめぐって争いを始める。
そこで一方の鬼が、
「そこにいる人間に聞いてみよう。どちらがこの死体を持ってきたのか判断してもらおう」
と言う。
男は「どちらが正しいか」を答える
二匹の鬼から問われた男は、
「どちらが嘘を言っているのか分からない。しかし、どちらの鬼も恐ろしい力を持っている。嘘を言っても本当のことを言っても、結局殺されるかもしれない」
と考える。
そこで、正直に
「最初の鬼が死体を持ってきました」
と答えた。
後から来た鬼は、怒ってその男の手足を引き抜いてしまう。
ところが、もう一匹の鬼が死体を使って男を修復する
すると最初の鬼が、男の身体を哀れに思ったのか、先ほどの死体から手足などを取り出し、男の身体に付け替える。
すると、それらは不思議なことに男の身体として繋がる。
しかし、
元の身体は鬼に食べられ、現在の身体は死体から取り替えられたもの
になってしまう。
そして、二匹の鬼は男のもとを立ち去る。
男は「私は存在するのか?」と分からなくなる
男は自分の身体を見て、
「父母から生まれた元々の私の身体は、目の前で食べ尽くされてしまった…。しかし、今の身体はすべて他人の肉でできている。一体、私は存在するのか?それとも存在しないのか?」
と考え混乱してしまう。
翌朝、男は寺を見つけ、僧侶に昨夜の出来事を語り、
「私の身体は存在するのでしょうか、それとも存在しないのでしょうか?」
と尋ねる。
僧侶たちは、この男が自分自身について「我が存在するのか」という疑問を抱いていることを知り、
あなたの身体は、もともと常に我など無いのである。ただ、四大が仮に和合して集まり、それを自分自身の身体だと思い込んでいるだけである
と教える。
そして男は出家し、煩悩を断って阿羅漢になった。
という話である。
この話は「身体がなくなったから我もなくなった」という単純な話ではない。
五陰の「色」も我ではないということを示す。
「自分の身体だと思っていたものを徹底的に分析してみても、自分のもの『我所』と認めることはできなかった。また、その身体に『我』を見つけることはできなかった」
ということを示している。
この話の中で僧は、
汝が身は本より来、恒に自ら我無し
つまり、「あなたの身体には元々、常に我など無い」と教えている。
さらに、
但四大の和合聚集するを以て、計して本身と為す
「地・水・火・風という諸々の要素が仮に和合して集まっているものを、自分自身の身体だと思い込んでいるだけである」と諭している。
身体(色)は認められる。しかし、
身体 = 我、我所ではない
ということである。
衆生も亦た爾り。五陰は本より来、人無く、我無し。
『止観弘決』巻第七之三
空は其の相を取りて闘諍を生ず。若し披かれて地に在れば、但だ骨肉のみ有り。
復た人・我無し。爾の時に当って誰か彼此を論ぜん。
是の故に菩薩は衆生に語りて言わく、「汝、慎みて本空の中に於いて闘諍の罪を起こすこと勿れ」と。
衆生もまた同じである。五陰には元々、「人」も「我」も存在しない。
空であるのに、その姿や特徴に執着して互いに争いを生じる。もし遺体を地面に置いてしまえば(生体を唯物的に観れば)、そこにあるのは骨肉だけである。
そこにはもはや「人」や「我」というものは無い。そのような状態になったとき、誰が「これは私」「これは他人」と互いに区別して議論することができるだろうか?
だからこそ、菩薩は衆生にこう語るのである。
「あなたは慎んで、もともと空であるものの中に、争いによる罪を起こしてはならない」と。
「誰が思考している?」と問われれば、そもそも誰もいない。
我々は骨肉でしかなく、本来は空であるのに、そこに妄りに執着して「我有り」「我無し」といった議論や争いを起こすのである。
再反論⑤ あなたは全てにおいて「無我」と言うのか?一向に「我が無い」と言うこと自体、邪見なのではないか?
といわれるかもしれない。つまり、
何でもかんでも「無我」と言うなら、それも邪見ではないのか?
という問いである。
回答
世諦を説くが故に我有り。第一義諦を説くが故に我無しと言う。是れを正見と為す。
『成実論』身見品
- 世諦(世俗・世間)からすると、我が有ることが認められる。
- しかし、第一義諦(真理)からすると、我は無い。
デカルト側から、
ほら、結局あなたも「我が有る」と認めているではないか
と言われるだろう。
しかしそれは、世諦の「我」と、第一義諦の「我」を混同している。
世俗的な名称としての「我」は認められる。
しかし、この我は仮の我である。
世俗に随順するため、便宜的に立てられたものだ。
- 「私は考える」
- 「私は食事をした」
- 「私は昨日これをした」
などと言って、私も日常的にこの「我」を使っている。
しかし、そこから、実体的な我が存在すると導くこと、我を証明することはできない。
思考や認知作用は条件依存の縁生で、一時的、可変的である。
だから、世諦の我は真理に成り得ない。
デカルトの「我」が世俗的な人格を指すだけなら、仏教も日常的な「我」の使用を否定していない。
しかし、その「我」を第一義的真理・実体的な存在として確立しようとするなら、仏法と正面衝突する。
仏教では世俗の我は認めるが、外道が主張する「真理としての我」は無いと説く。
そこを食い違得てはいけない。
我に囚われることの過悪
それでも、「我は有る」といってその存在に執着するなら、我見を増上し、様々な過悪を生み出すことになる。
また、「我」というものを立てること自体が過失である。
『成実論』身見品
なぜなら、我という心があるために我所(私のもの)という意識が生じ、我所があるために、貪りや怒りなど一切の煩悩が生じるからである。
したがって、「我心」は、煩悩を生じさせるものであると知るべきである。
又復た当に観ずべし。無量劫より来、多く名色及び想・行に約して我・人を計す。
若し其れ執作すれば、忽ち讃罵を聞きて、「我を讃罵す」と云う。忽ち讃罵を聞く等とは、人の瓶を持するに、持つ者を罵り、或いは持つ者を讃むを聞いて、他の彼の説を攬りて、「我を讃罵す」と云うが如し。
『摩訶止観』巻第七下
一切の事業も亦復た是の如し。況んや復た、己を罵るは全く是れ他を罵るなり。
身は他に属し、四大の造る所を以ての故に云云。
さらに次のように観察すべきである。
無量劫の過去から、人は多く「名色」や「想」「行」に執着して、それを「我」「人」と考えてきた。
ひとたびそれを「我」だと決めつけると、誰かが他人を褒めたり悪口を言ったりするのを聞いても、「私が褒められた」「私が悪口を言われた」と思ってしまうことがある。
「忽ち讃罵を聞く」というのは、例えば、ある人のアカウントが自分と同じアイコンやアバター、ハンドル名を使っているとする。そのアカウントが他人から誹謗中傷されたり褒められたりすると、自分にも向けられたものだと受け取り、「私を褒めたり貶したりしている……」と考えてしまうことである。
全ての行為についてもこれと同じである。まして、自分を罵しったりすることは、全て他人を罵ることになる。
なぜなら、この身体は自分も他人も同じ、地水火風の四大(衆縁)によって造られたものだからである。
立・行・住・坐・臥、一切の事物に皆我を計す。膠を手に塗るが如し。執るに随いて随いて著す。
『止観』巻第七下
経に云く、「凡夫、若し我心を離るれば、是の処有ること無し」と。
若し貧窮に遭わば、本心を失うとも亦我と計すること息まず。若し富貴を得れば、勢を恣にし、毒を縦にして天下を酷害し、赫怒隆盛して辜無きを怨枉す。
諸業興起すること皆我が為す所なり。誰か代わりて当たる者ぞ。
逆風に火を執れば、豈に手を焼かざらんや。
彼の夜房に謂いて、「鬼有り」と言い、天明けて照了すれば、乃ち本の旧人なるが如し。
また、立つ、歩く、座る、横になるなど、あらゆる行為についても「私がしている」「これは私の行為」と考える。
これは、まるで手に膠を塗るようなものである。何かに触れればすぐにくっついて離れなくなるのと同じように、「我」に執着すると何事にも「私」という思いが付きまとう。
経典にも、「凡夫が我心から離れることは決してない」と説かれている。
もし貧しくなり、これまでの生活を失っても、それでも「私」という思いへの執着は止まらない。
反対に、富や権力を得れば、その勢いに任せて見境なく悪を行い、世の人々を苦しめ、怒りをさらに激しくして、罪の無い人まで理不尽に害することがある。
このように、様々な業が生じるのは、すべて「我」の仕業である。いったい誰がその報いを代わりに受けてくれるというのか。
逆風の中で火を手に取るようなものである、その手は必ず焼けてしまう。
これは逸話↓にある、夜の暗い部屋で「鬼がいる」と思い込んで恐れるようなものである。夜が明けて明るくなってみれば、鬼だと思っていたものは、実は以前からそこにいた人にすぎなかったのだ。
逸話を詳しく
二人の僧が、同じ部屋を「鬼が出る部屋」だと思い込んでいました。
夜になり、一人が部屋の中にいるところへ、もう一人が外から入ろうとします。
しかし暗闇のため、
中にいる僧 → 鬼が来たと思う
外にいる僧 → 鬼が中にいると思う
となり、互いに相手を鬼だと思って激しく殴り合います。
そして夜が明けてみると、
実は二人とも昔からの知り合いだった。
という話です。
つまり、「我」への執着によって、実際には確かな実体のないものを「私のもの」「私自身」と思い込み、そこからさまざまな苦しみや悪業を生じるのである。
まとめ
デカルトは「思考の不可疑性」から「思考主体としての我」の実在を導いたが、
釈尊は、思考(専念・憶想)そのものが縁生(生滅無常・条件依存)である以上、それを根拠に自我を立てることはできないと論破した。
『我思う故に我あり』が証明するのは、せいぜい「今、思考という現象が生じている」という事実を認めたこと。
五陰の『行』『識』に気付いたぐらいでである。
しかし、「行」「識」を以て「我という実体が存在する」と決め付けるのは単なる執着、『我見』に陥っているだけであり、世諦を真理(第一義諦)と見なす誤りである。
身見とは甚だ痴なりと名づく。一切の凡夫は皆、身見を以て心を乱し、有に深く著するが故に生死を往来す。
『成実論』身見品
若し無我を見れば、往来則ち断ず。
デカルトが打ち立てた「我有り」の主張は、非常に愚かなものである。
一切の凡夫(デカルト等の哲学者、それに騙された人々)は皆、身見によってその心を乱し、
「有(五陰・森羅万象)」に深く執着するために、生死の世界を絶え間なく往来する。
もし「無我」が解れば、この生死の往来は断たれるのだ。



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