末代の修行方法(2)

第三に正しく末代の凡夫の善知識を明かさば。
 問て云く 善財童子は五十余の知識に値いき。其の中に普賢・文殊・観音・弥勒等有り。常啼・班足・妙荘厳・阿闍世等は曇無竭・普明・耆婆・二子・夫人に値い奉りて生死を離れたり。此れ等は皆大聖也。仏、世を去って之後、是の如き之師を得ること難しと為す。滅後に於て亦龍樹・天親も去りぬ。南岳・天台にも値わず。如何ぞ生死を離るべき乎。
 答て曰く 末代に於て真実の善知識有り。所謂法華・涅槃是れ也。
 問て云く 人を以て善知識と為すは常の習い也。法を以て知識と為すの証有り乎。
 答て云く 人を以て知識と為すは常の習い也。然りと雖も末代に於ては真の知識無ければ法を以て知識と為すに多くの証有り。摩訶止観に云く ̄或従知識或従経巻上聞所説一実菩提〔或は知識に従い、或は経巻に従い、上に説く所の一実の菩提を聞く〕已上。此の文の意は経巻を以て知識と為すなり。
 法華経に云く_若法華経。行閻浮提。有受持者。応作此念。皆是普賢。威神之力〔若し法華経の閻浮提に行ぜんを受持することあらん者は、此の念を作すべし、皆是れ普賢威神の力なりと〕已上。此の文の意は末代の凡夫、法華経を信ずるは普賢の善知識の力也
 又云く_若有受持読誦。正憶念。修習書写。是法華経者。当知是人。則見釈迦牟尼仏。如従仏口。聞此経典。当知是人。供養釈迦牟尼仏〔若し是の法華経を受持し読誦し正憶念し修習し書写することあらん者は、当に知るべし、是の人は則ち釈迦牟尼仏を見るなり、仏口より此の経典を聞くが如し。当に知るべし、是の人は釈迦牟尼仏を供養するなり〕已上。此の文を見るに法華経は釈迦牟尼仏也。法華経を信ぜざる人の前には釈迦牟尼仏入滅を取り、此の経を信ずる者の前には滅後為りと雖も仏の在世也。
又云く_若我成仏。滅度之後。於十方国土。有説法華経処。我之塔廟。為聴是経故。涌現其前。為作証明〔若し我成仏して滅度の後、十方の国土に於て法華経を説く処あらば、我が塔廟是の経を聴かんが為の故に、其の前に涌現して、為に証明と作って〕已上。此の文の意は我等法華の名号を唱えば多宝如来本願の故に必ず来りたもう。
 又云く_諸仏。在於十方世界説法。尽還集一処〔諸仏十方世界に在して説法したもうを、尽く一処に還し集めて〕已上。釈迦・多宝・十方諸仏・普賢菩薩等は我等が善知識也。若し此の義に依らば、我等も亦宿善、善財・常啼・班足等にも勝れたり。彼等は権経の知識に値い、我等は実経の知識に値えばなり。彼は権経の菩薩に値い、我等は実経の仏菩薩に値い奉ればなり。
 涅槃経に云く_依法不依人 依智不依識〔法に依て人に依らざれ~智に依て識に依らざれ〕已上。依法と云うは法華・涅槃の常住の法也。不依人とは法華・涅槃に依らざる人也。設い仏菩薩為りと雖も法華・涅槃に依らざる仏菩薩は善知識に非ず。況んや法華・涅槃に依らざる論師・訳者・人師に於てを乎。依智とは仏に依る。不依識とは等覚已下也。今の世の世間の道俗、源空之謗法の失を隠さんが為に徳を天下に挙げて権化なりと称す。依用すべからず。外道は五通を得て能く山を傾け海を竭すとも神通無き阿含経の凡夫に及ばず。羅漢を得、六通を現ずる二乗は華厳・方等・般若の凡夫に及ばず。華厳・方等・般若等の等覚の菩薩も法華経の名字・観行の凡夫に及ばず。設い神通智慧有りと雖も権教の善知識をば用うべからず。我等常没の一闡提の凡夫、法華経を信ぜんと欲するは仏性を顕さんが為の先表也。
 故に妙楽大師云く ̄自非内薫何能生悟。故知生悟力在真如。故以冥薫為外護也〔内薫に非ざるよりは何ぞ能く悟りを生ぜん。故に知んぬ、悟りを生ずる力は真如に在り。故に冥薫を以て外護と為す也〕已上。法華経より外の四十余年の諸経には十界互具無し。十界互具を説かざれば内心の仏界を知らず。内心の仏界を知らざれば外の諸仏も顕れず。故に四十余年の権行の者は仏を見ず。設い仏を見ると雖も他仏を見る也。二乗は自仏を見ざるが故に成仏無し。爾前の菩薩も亦自身の十界互具を見ざれば二乗界の成仏を見ず。故に衆生無辺誓願度の願も満足せず。故に菩薩も仏を見ず。凡夫も亦十界互具を知らざるが故に自身の仏界顕れず。故に阿弥陀如来の来迎も無く、諸仏如来の加護も無し。譬えば盲人の自身の影を見ざるが如し。今、法華経に至って九界の仏界を開くが故に、四十余年の菩薩・二乗・六凡始めて自身の仏界を見る。此の時此の人の前に始めて仏・菩薩・二乗を立つ。此の時に二乗・菩薩始めて成仏し、凡夫始めて往生す。是の故に在世滅後の一切衆生の誠の善知識は法華経是れ也。常途の天台宗の学者は爾前に於て当分の得道を許せども、自義に於ては猶お当分の得道を許さず。然りと雖も此の書に於ては其の義を尽くさず。略して之を記す。追って之を記すべし。

 大文の第六に法華・涅槃に依る行者の用心を明かさば。一代の教門の勝劣・浅深・難易等に於ては先の段に既に之を出す。此の一段に於ては一向に後世を念う末代常没の五逆・謗法・一闡提等の愚人の為に之を注す。略して三有り。一には在家の諸人、正法を護持するを以て生死を離るべく、悪法を持つに依て三悪道に堕することを明かす。二には但法華経の名字計りを唱えて三悪道を離るべきことを明かす。三には涅槃経は法華経の為の流通と成ることを明かす。

 第一に在家の諸人、正法を護持するを以て生死を離るべく、悪法に依て三悪道に堕することを明かさば。
 涅槃経第三に云く_仏告迦葉以能護持正法因縁故得成就是金剛身〔仏、迦葉に告げたまわく、能く正法を護持する因縁を以ての故に是の金剛身を成就することを得たり〕。亦云く_時有国王名曰有徳 乃至 為護法故 乃至 与是破戒諸悪比丘極共戦闘 乃至 王於是時得聞法已心大歓喜尋即命終生阿・仏国〔時に国王有り、名を有徳と曰う。乃至 護法の為の故に、乃至 是の破戒の諸の悪比丘と極めて共に戦闘す。乃至 王是の時に於て法を聞くことを得已って心大いに歓喜し、尋いで即ち命終して阿・仏の国に生ず〕。此の文の如くならば在家の諸人、別の智行無しと雖も謗法の者を対治する功徳に依て生死を離るべき也
 問て云く 在家の諸人、仏法を護持すべき様如何。
 答て曰く 涅槃経に云く_若有衆生貧著財物我当施財然後以是大涅槃経勧之令読 乃至 先以愛語而随其意 然後漸当以是大乗大涅槃経勧之令読。若凡庶者当以威勢逼之令読。若・慢者我当為其而作僕使随順其意令其歓喜。然後復当以大涅槃而之教導。若有誹大乗経者当以勢力摧之令伏既摧伏已然後勧令読大涅槃。若有愛楽大乗経者我躬当往恭敬供養尊重讃歎〔若し衆生有って財物に貧著せば我当に財を施して然して後に是の大涅槃経を以て之を勧めて読ましむべし。乃至 先に愛語を以て而も其の意に随い、然して後に漸く当に是の大乗大涅槃経を以て之を勧めて読ましむべし。若し凡庶の者には当に威勢を以て之に逼りて読ましむ。若し・慢の者には我当に其れが為に而も僕使と作り其の意に随順し其れをして歓喜せしむ。然して後に復当に大涅槃を以て而も之を教導す。若し大乗経を誹謗する者有らば、当に勢力を以て之を摧きて伏せしめ既に摧伏し已って然して後に勧めて大涅槃を読ましむ。若し大乗経を愛楽する者有らば、我躬ら当に往いて恭敬し供養し尊重し讃歎すべし〕已上。
 問て云く 今の世の道俗偏に選択集に執して、法華・涅槃に於ては自身不相応の念を為す之間、護惜建立の心無し。偶たま邪義の由を称する人有れば念仏誹謗者と称し、悪名を天下に雨らす。斯れ等は如何。
 答て曰く 自答を存すべきに非ず。仏自ら此の事を記して云く 仁王経に云く_大王我滅度後未来世中四部弟子諸小国王太子王子乃是住持護三宝者転更滅破三宝如師子身中虫自食師子。非外道也。多壊我仏法得大罪過正教衰薄民無正行以漸為悪其寿日減至于百歳。人壊仏教無復孝子六親不和天神不祐。疾疫悪鬼日来侵害災怪首尾連禍縦横死入地獄餓鬼畜生〔大王、我が滅度の後、未来世の中の四部の弟子・諸の小国の王・太子・王子・乃ち是の三宝を住持し護る者、転た更に三宝を滅破せんこと師子の身中の虫の自ら師子を食うが如くならん。外道に非ざる也。多く我が仏法を壊り、大罪過を得、正教衰薄し、民に正行無く、漸く悪を為すを以て其の寿日に減じて百歳に至らん。人仏教を壊りて復孝子無く、六親不和にして、天神も祐けず。疾疫悪鬼日に来りて侵害し、災怪首尾し、連禍縦横し、死して地獄・餓鬼・畜生に入らん〕と。
 亦次下に云く_大王未来世中諸小国王四部弟子自作此罪破国因縁 乃至 諸悪比丘多求名利於国王太子王子前自説破仏法因縁破国因縁。其王不別信聴此語 乃至 当其時正法将滅不久〔大王、未来世の中の諸の小国の王・四部の弟子・自ら此の罪を作るは破国の因縁なり。乃至 諸の悪比丘、多く名利を求め、国王・太子・王子の前に於て、自ら破仏法の因縁・破国の因縁を説かん。其の王別えずして此の語を信聴し、乃至 其の時に当たって正法将に滅すべきこと久しからず〕已上。
 余、選択集を見るに敢えて此の文の未来記に違わず。選択集は法華・真言等の正法を定めて雑行・難行と云い、末代の我等に於ては時機不相応、之を行ずる者は千中無一。仏還って法華等を説きたもうと雖も法華・真言の諸行の門を閉じて念仏の一門を開く。末代に於て之を行ずる者は群賊等と定め、当世の一切の道俗に於て此の書を信ぜしめ此の義を以て如来の金言と思えり。此の故に世間の道俗、仏法建立の意無く、法華・真言の正法の法水忽ちに竭き、天人減少して三悪日に増長す。偏に選択集の悪法に催されて起こす所の邪見也。此の経文に仏記して_我滅度後と云えるは、正法の末八十年、像法の末八百年、末法の末八千年也。選択集の出る時は像法の末、末法の始めなれば八百年之内也。仁王経に記す所の時節に当たれり。諸小国王とは日本国の王也。中下品の善は粟散王是れ也。如師子身中とは仏弟子の源空是れ也。諸悪比丘とは所化の衆是れ也。説破仏法因縁破国因縁とは上に挙げる所の選択集の語是れ也。其王不別信聴此語とは今の世の道俗邪義を弁えずして猥りに之を信ずる也。請い願わくは、道俗法の邪正を分別して其の後正法に付いて後世を願え。今度人身を失い三悪道に堕して後に後悔すとも何ぞ及ばん。

 第二に但法華経の題目計りを唱えて三悪道を離るべきことを明かさば。
 法華経の第五に云く_文殊師利。是法華経。於無量国中。乃至名字。不可得聞〔文殊師利、是の法華経は無量の国の中に於て、乃至名字をも聞くことを得べからず〕。第八に云く_汝等但能擁護。受持法華名者。福不可量〔汝等但能く法華の名を受持せん者を擁護せんすら、福量るべからず〕。提婆品に云く_聞妙法華経。提婆達多品。浄心信敬。不生疑惑者。不堕地獄。餓鬼。畜生〔妙法華経の提婆達多品を聞いて、浄心に信敬して疑惑を生ぜざらん者は、地獄・餓鬼・畜生に堕ちずして〕。大涅槃経名字功徳品に云く_若有善男子善女人聞是経名生悪趣無有是所〔若し善男子・善女人有って是の経の名を聞いて悪趣に生ずというは、是のことわり有ること無けん〕涅槃経は法華経の流通たるが故に之を引く。
 問て云く 但法華の題目を聞くと雖も解心無くば如何にして三悪趣を脱れん乎。
 答て云く 法華経流布の国に生まれて此の経の題名を聞き信を生ずるは、設い今生は悪人無智なりと雖も必ず過去の宿善有るが故に此の経の名を聞いて信を致す者也。故に悪道に堕せず。
 問て云く 過去の宿善とは如何。
 答て云く 法華経の第二に云く_若有信受 此経法者 是人已曾 見過去仏 恭敬供養 亦聞是法〔若し此の経法を 信受すること有らん者 是の人は已に曾て 過去の仏を見たてまつりて 恭敬供養し 亦是の法を聞くけるなり〕。法師品に云く_又如来滅度之後。若有人。聞妙法華経。乃至。一偈一句。一念随喜者 乃至 当知是諸人等。已曽供養。十万億仏〔又如来の滅度の後に、若し人あって妙法華経の乃至一偈・一句を聞いて一念も随喜せん者には、乃至 当に知るべし、是の諸人等は、已に曽て十万億の仏を供養し〕。涅槃経に云く_若有衆生於煕連河沙等諸仏発菩提心乃能於是悪世受持如是経典不生誹謗。善男子若有能於一恒河沙等諸仏世尊発菩提心然後乃能於悪世中不謗是法愛敬是典〔若し衆生有って煕連河沙等の諸仏に於て菩提心を発し、乃ち能く是の悪世に於て是の如き経典を受持して誹謗を生ぜず。善男子、若し能く一恒河沙等の諸仏世尊に於て菩提心を発すこと有って然して後に乃ち能く悪世の中に於て是の法を謗ぜずして是の典を愛敬せん〕已上経文。此れ等の文の如くんば、設い先に解心無くとも此の法華経を聞いて謗ぜざるは大善の所生也
 夫れ三悪の生を受けること大地微塵より多く、人間の生を受けること爪上の土より少なし。乃至、四十余年の諸経に値うは大地微塵より多く、法華・涅槃に値うことは爪上の土より少なし。上に挙げる所の涅槃経三十三の文を見るべし。設い一字一句なりと雖も此の経を信ずるは宿縁多幸也
 問て云く 設い法華経を信ずと雖も悪縁に随わば何ぞ三悪道に堕せざらん乎。
 答て曰く 解心無き者権教の悪知識に値うて実経を退せば悪師を信ずる失に依て必ず三悪道に堕すべき也。彼の不軽軽毀の衆は権人也。大通結縁の者の三千塵点を歴しは法華経を退して権教に遷りしが故也。法華経を信ずる之輩、法華経之法華経之信を捨て権人に随わんより外は世間の悪業に於ては法華の功徳に及ばず。故に三悪道に堕すべからざる也。
 問て云く 日本国は法華・涅槃有縁の地なりや、否や。
 答て云く 法華経第八に云く_於如来滅後。閻浮提内。広令流布。使不断絶〔如来の滅後に於て閻浮提の内に、広く流布せしめて断絶せざらしめん〕。七の巻に云く_広宣流布。於閻浮提。無令断絶〔閻浮提に広宣流布して、断絶せしむること無けん〕。涅槃経第九に云く_此大乗経典大涅槃経亦復如是。為於南方諸菩薩故当広流布〔此の大乗経典大涅槃経も亦復是の如し。南方の諸の菩薩の為の故に当に広く流布すべし〕已上経文。三千世界広しと雖も仏自ら法華・涅槃を以て南方流布の所と定む。南方の諸国の中に於ては、日本国は殊に法華経の流布すべき処也。
 問て云く 其の証、如何。
 答て曰く 肇公の法華翻経後記に云く ̄羅什三蔵奉値須利耶蘇摩三蔵授法華経時語云 仏日隠西山遺耀照東北。茲典有縁東北諸国。汝慎伝弘〔羅什三蔵、須利耶蘇摩三蔵に値い奉りて法華経を授かる時の語に云く 仏日西山に隠れ遺耀東北を照らす。茲の典東北の諸国に有縁なり。汝、慎んで伝弘せよ〕已上。東北とは日本也。西南の天竺より東北の日本を指すなり。故に慧心の一乗要決に云く ̄日本一州円機純一 朝野遠近同帰一乗 緇素貴賎悉期成仏〔日本一州円機純一なり。朝野遠近同じく一乗に帰し、緇素貴賎悉く成仏を期す〕已上。願わくは日本国の今の世の道俗、選択集の久習を捨て、法華・涅槃の現文に依り、肇公・慧心の日本記を恃みて法華修行の安心を企てよ
 問て云く 法華経修行の者、何れの浄土を期す耶。
 答て曰く 法華経二十八品の肝心たる寿量品に云く_我常在此。娑婆世界〔我常に此の娑婆世界に在って〕。亦云く_我常住於此〔我常に此に住すれども〕。亦云く_我此土安穏〔我が此の土は安穏にして〕文。此の文の如くんば本地久成の円仏は此の世界に在せり。此の土を捨て、何れの土を願うべき乎。故に法華経修行の者の所住之処を浄土と思うべし。何ぞ煩わしく他所を求めん乎。故に神力品に云く_若経巻。所住之処。若於園中。若於林中。若於樹下。若於僧坊。若白衣舎。若在殿堂。若山谷曠野 乃至 当知是処。即是道場〔若しは経巻所住の処あらん。若しは園中に於ても、若しは林中に於ても、若しは樹下に於ても、若しは僧坊に於ても、若しは白衣の舎にても、若しは殿堂に在っても、若しは山谷曠野にても、乃至 当に知るべし、是の処は即ち是れ道場なり〕。涅槃経に云く_若善男子是大涅槃微妙経典所流布処当知其地即是金剛。是中諸人亦如金剛〔若し善男子、是の大涅槃微妙の経典流布せらる処は、当に知るべし、其の地は即ち是れ金剛なりと。是の中の諸人も亦金剛の如し〕已上。法華・涅槃を信ずる行者は余処に求むべきに非ず。此の経を信ずる人の所住の処は即ち浄土也
 問て云く 華厳・方等・般若・阿含・観行等の諸経を見るに、兜率・西方・十方の浄土を勧む。其の上法華経の文を見るに、亦兜率・西方・十方の浄土を勧む。何ぞ此れ等の文に違いて但此の瓦礫荊棘の穢土を勧むる乎。
 答て曰く 爾前の浄土は久遠実成の釈迦如来の所言の浄土にして実には皆穢土也。法華経は亦方便・寿量の二品也。寿量品に至って実の浄土を定むる時、此の土は即ち浄土なりと定め了んぬ。但し兜率・安養・十方の難に至っては、爾前の名目を改めずして此の土に於て兜率・安養等の名を付く。例せば此の経に三乗の名有りと雖も三乗に有らざるが如し。_不須更指観経等也の釈の意是れ也。法華経に結縁無き衆生の当世西方浄土を楽うは瓦礫の土を楽うとは是れ也。法華経を信ぜざる衆生は誠に分添の浄土無き也
『守護国家論』

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