他力本願は穢土を厭いて、阿弥陀仏の浄土への往生を願う行為ですが、極楽往生は絶対に成就しません。
そもそもこの娑婆世界の一切衆生は皆釈尊の愛子であり、弥陀の子ではありません。釈尊は実父、弥陀は叔父に譬えられます。実父の教えをはねのけて、何の縁も無い叔父に助けを求めたところで、この叔父はこの子を救ってやるでしょうか?答えは否です。「叔父である私に助けを求める前に、まず実父の釈尊に助けを求めよ」と言われるでしょう。実父の釈尊を捨てて叔父の弥陀仏に就くのは親不孝の逆罪人です。
また、自分の住む穢土を厭いて他の浄土を求めるのは現実逃避に過ぎません。自分の住む穢土を否定し、他の浄土を願い求めたところで、果たしてこの人は浄土に生まれることができるでしょうか?この答えも否です。他仏の浄土を願う前に、まず自分の住む世界を浄めるべきです。
自分の住んでいる穢土を自分の力で浄めてこそ、浄土に生まれることが可能であって、自分の住む仏国土も浄められない様な住人が、他仏の浄土に生まれるわけもありません。
例えば、自分の部屋が汚いのに掃除を全くしないで他人の綺麗な部屋に移り住もうと願ってばかりいる人間が、果たして綺麗な部屋に移ることができるでしょうか?もし自分の部屋の掃除もできない人間が綺麗な部屋に移っても、またすぐ掃除を放棄して汚くしてしまうでしょうから、綺麗な部屋の管理人は汚い部屋の住人の移動を認めないでしょう。
自分の部屋の掃除をちゃんとできる人なら、どんな部屋に移ろうとも部屋を綺麗に保てるから、綺麗な部屋ならどこでも移動が可能になるのです。
これと同じで、自分の住んでいる穢土を他人の力に頼らないで、自分の力で浄められる人が十方の浄土に易々と往生できるのです。
無量寿経には〔衆生、我が国に生ぜんと欲して、ないし十念せんに、もし生ぜずといはば正覚を取らじ。唯五逆と誹謗正法とを除く〕という経文があります。いくら念仏を唱えようが、親鸞が念仏以外の仏道修行を閉ざしていることは、正法(法華経)を捨てさせることです。これは誹謗正法に当たります。
専ら阿弥陀仏に頼って、実父の釈迦仏を捨て去る行為は、不孝であり五逆に当てはまります。故に親鸞の提唱した他力本願の教えは、ここでいう五逆と誹謗正法に当てはまり、往生は不可能どころか、返って無間地獄に堕ちることになります。
以上の理由があって、日蓮は「念仏無間」の格言を提唱されたのです。
-まとめ-
結局、歎異抄は日本人の眼を晦ませる悪書に過ぎません。親鸞は日本史上でも、十本の指に入るであろう大悪人です。親鸞は邪智であり、詭弁を用いて多くの国民に口遊びに過ぎない念仏を弘めて正法の法華経を捨てさせた罪は計り知れません。
ただ、立正安国論こそが、我々に正見をもたらす救いの書なのです。
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