我思う、故に我あり。
デカルト『方法序説』善男子よ、諸もろの外道が専念を以ての故に「我」有りと知るが若し。
専念の性は実には我に非ざるなり。
若し専念を以て我性と為さば、過去の事には則ち忘失有らん。忘失有るが故に、定かに我無しと知る。善男子よ、諸もろの外道が憶想を以ての故に我有りと知るが若きは、憶想無きが故に、定かに我無しと知らん。
『大般涅槃経』巻第十三
「人の手に六指有るを見て、即便ちに問いて『我れは先に何処に共相に見たりや?』と言う」と説くが如く、
若し我有らば、応に復た問うべからざるに、相い問うを以ての故に、定かに我無しと知る。
ここでいう外道とはデカルトを含めた西洋哲学をいう。
デカルトの「思う」は、ここでいう「専念」「憶想」に当たる。
現代語訳を見てみよう
善き男子よ。もし諸々の外道(西洋哲学の思想家)が、「専ら念じる働き(集中した意識)があるから、我(アートマン)は存在するのだ」と知るのであれば、その“専念”という性質は、実のところ我そのものではない。
もし専念を我の本性だとするならば、過去の出来事を忘れてしまうことがあるはずである。忘失がある以上、そこに常住の我はないと、はっきり知るべきである。
また、善き男子よ。もし外道が、「記憶や想念があることによって我があると知る」と言うならば、記憶や想念がないときには、我は存在しないことになってしまう。ゆえに、確実に我は存在しないと知るべきである。
例えば、人の手に六本の指があるのを見て、すぐに「私は以前、どこであなたと会っただろうか」と尋ねるようなものである。
もし我が本当にあるのなら、そのように問い返す必要はないはずである。“問いかける”という行為がある以上、そこに確固たる我は存在しないことが明らかである。
この涅槃経の文は、デカルトの「我思う、ゆえに我あり(cogito ergo sum)」の誤りを完全に論破する根本的な資料として用いることができる。
以下、AIの手助けを借りて、論理構造を対応させながら段階的に示していく。
目次
① デカルトの主張を正確に整理すると……
まず、デカルトの核心主張をまとめてみる。
- 私はすべてを疑うことができる
- しかし「疑っているこの思考そのもの」だけは否定できない
- よって「思考している限り、思考する主体(我)は必ず存在する」
つまり、デカルトは
思考(専念・憶想)がある → それを担う実体としての「我」が必ずある
と推論している。
② 釈尊の論難:思考を「我」と同一視するのは誤り
涅槃経で、釈尊はこの推論を正面から否定している。
経文の論理を整理すると、
専念(思考)=「我」ではない
ということ。
「専念の性は実には我に非ざるなり」
- そもそも我々人間の思考・意識作用は
- 生起し
- 変化し
- 消滅する
ものである
- 生じては滅し、生じては滅し……これを繰り返す。(念念生滅)
したがって、常住不変の「我」ではありえない。
つまり、デカルトは「思考の確実性」から「主体としての実存性」を導いているが、
釈尊は、思考は単なる現象(作用)であり、実体として存在するものではあり得ないと破る。
③ 記憶・思考の不連続性による反論(忘却の問題)
経文の核心的な論破点はここだ。
若し専念を以て我性と為さば、過去の事には則ち忘失有らん。
忘失有るが故に、定かに我無しと知る。
論理構造
- もし「思考するもの=我」なら、
- 「我」は常に自己同一であるはずだ。
- しかし、現実の人間には、
- 忘却
- 昏睡(無意識状態)
- 痴呆
- 混乱
など、様々な精神作用が認められている
したがって、思考を根拠に「我」を立証することはできないのである
精神を集中させるなら集中させただけ、周りの事や過去の事に気を捉われなくなり、忘れてしまうことが多い。そのような経験は誰にでもあるのではないか。
忘却がある以上、実存する我としての統一性を欠いてしまう。
デカルトへの適用
デカルトは、
「今、思考している私は確実に存在する」
と言うが、釈尊は、
“今の思考”は確かに認識できる。しかし、認識できるからといって“同一の我が常に存在する”ことを保証するわけではない
と返している。
④ 「憶想=我」という立場も同時に崩す
デカルト哲学では記憶の連続性も「自己」の根拠としている。
これに対して釈尊は、
憶想無きが故に、定かに我無しと知らん。
と反論している。
- 記憶がなければ我が消えるなら
- 我は条件依存の現象にすぎない
- 条件依存のものは「実体」として認められない
つまり、デカルトの自我は、「縁起的作用(条件があって起こった)」に過ぎないのである。
条件を必要とする「我」は絶対的に存在するとはいえない。
デカルトの論理でいうと記憶喪失の者に「我」は認められないことになる。
普遍性を欠いているデカルトの論理は真理として通用しない。
⑤ 六指の譬喩の意味(決定的反論)
若し我有らば、応に復た問うべからざる
これは非常に鋭い指摘といえよう。
どう使うか
- デカルトのいう自我が本当に明証的なら、
- 「これは私だ」と誰でも即座に確定できるはずである。
- しかし、実際には
- 「これは誰か?」
- 「これは私の記憶か?」
という様々な問いが人間には生じている
つまり、問いが生じること自体、「自明な我」が存在しない証拠となるのである。
デカルトは「我は疑えない」と言うが、釈尊は、
疑い・問い・確認などが必要になものは、既に実体的自我ではない
と返している。
⑥ まとめ
デカルトは「思考の不可疑性」から「思考主体としての我」の実在を導いたが、
釈尊は、思考(専念・憶想)そのものが縁生(無常・可変・条件依存)である以上、それを根拠に確固たる自我を立てることはできないと論破した。
人間の思考作用を主る心には、忘却や不連続性がある以上、思考は「我の証明」ではなく、むしろ「無我」を示す証拠となるのである。


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