念仏は無間地獄に堕ちること(6)

法華浄土問答鈔 文永九年(1272年.正・17)

<図略>

弁成の立つ。我が身叶ひ難きが故に且く聖道の行の捨閉閣抛し浄土に帰し、浄土の往生して法華を聞いて無生を悟るを得る也。
 日蓮難じて云く 我が身叶ひ難ければ穢土に於て法華経等・教主釈尊等を捨閉閣抛し、浄土に至りて之を悟るべし等云云。何れの経文に依て此の如き義を立てるや。又天台宗の報土は分真即・究竟即・浄土宗の報土は名字即乃至究竟即等とは、何れの経論釈に出でたるや。又穢土に於ては法華経等・教主釈尊等を捨閉閣抛し、浄土に至りて法華経を悟るべしとは何れの経文に出でたるや。
 弁成の立つ。余の法華等の諸行等を捨閉閣抛して念仏を用ゆる文は観経に云く_仏告阿難汝好持是語。持是語者即是持無量寿仏名〔仏、阿難に告げたまはく、汝よくこの語を持て。この語を持てとは、即ちこれ無量寿仏の名を持てとなり〕。浄土に往生して法華を聞くと云ふ事は文に云く_観世音・大勢至 以大悲音声為其広説諸法実相除滅罪法。聞已歓喜応時即発菩提之心〔観世音・大勢至、大悲の音声を以て其の為に広く諸法実相除滅罪の法を説く。聞き已りて歓喜し、時に応じて即ち菩提之心を発す〕と。[文]。余は繁き故に且く之を置く。
 又日蓮難じて云く 観無量寿経は如来成道四十余年之内也。法華経は後八箇年之説也。如何が已説の観経に兼ねて未説の法華経の名を載せて捨閉閣抛之可説と為すべきや。随て仏告阿難等之文に至りては、只弥陀念仏を勧進する文也。未だ法華経を捨閉閣抛することを聞かず。何に況んや無量義経に法華経を説んが為に、先づ四十余年の已説の経々を未顕真実と定め了んぬ。豈に未顕真実の観経之内に已顕真実の法華経を挙げて、捨乃至抛之と為すべきや。又云く_久黙斯要 不務速説〔久しく斯の要を黙して 務いで速かに説かず〕等云云。既に教主釈尊、四十余年之間法華の名字を説かず。何ぞ已説の念仏に対して此の法華経を抛たんや。次に下品下生諸法実相除滅罪法等云云。夫れ法華経已前の実相其の数一に非ず。先づ外道之内の長爪の実相、内道之内の小乗乃至爾前の四教、皆所詮之理は実相也。何ぞ必ずしも已説の観経に載する所の実相のみ法華経に於て同じと意得らるべきや。今度慥かなる証文を出だして法然上人の無間之苦を救はるべきか。
 又弁成之立つ。観経は已説の経也と雖も、未来を面とする故に未来の衆生は未来に所有の経巻之を読誦して浄土に往生すべし。既に法華等の諸経未来流布の故に之を読誦して往生すべきか。其の法華を捨閉閣抛し、観経の持無量寿仏の文に依て法然是の如く行じ給ふか。観経の持無量寿仏の文の上に諸善を説き、一向に無量寿仏を勧持せる故に申し合わせ候。実相に於ても多く有りと云ふ難。彼は浄土の故に此の難来るべからず。法然上人、聖道行は機堪へ難き故に未来流布の法華を捨閉閣抛す。故に是の慈悲の至進なれば此の慈悲を以て浄土に往生し、全く地獄に堕すべからざるか。
 日蓮難じて云く 観経を已説の経也と云云。已説に於ては承伏か。観経之時未だ法華経を説かずと雖も未来を鑒みて捨閉閣抛すべしと法然上人は意得給ふか云云。仏未来を鑒みて已説之経に未来の経を載せて之を制止すと云はば、已説の小乗経に未説の大乗経を載せて之を制止すと為すべきか。又已説の権大乗経に未説の実大乗経を載せて未来流布の法華経を制止せば、何が故に仏爾前経に於て法華の名を載せざる由、仏之を説きたまふや。法然上人慈悲之事。慈悲之故に法華経と教主釈尊とを抛つ也と云ふは、所詮上に出だす所の証文は未だ分明ならず。慥かなる証文を出だして、法然上人の極苦を救はるべきか。上の六品の諸行往生を下の三品の念仏に対して諸行を捨つ。豈に法華を捨つるに非ず等云云。観無量寿経の上の六品之諸行は法華已前の諸行也。設ひ下の三品の念仏に対して上の六品の諸行之を抛つとも、但法華経は諸行に入らず。何ぞ之を閣かんや。又法華の意は爾前の諸行と観経の念仏と、共に之を捨て畢りて如来出世の本懐を遂げ給ふ也。日蓮管見を以て一代聖教竝びに法華経之文を勘ふるに 未だ之を見ず、法華経之名を挙げて、或は之を抛て、或は其の文を閉じる等と云ふ事を。若し爾らば法然上人の憑む所の弥陀本願之誓文竝びに法華経之入阿鼻獄の釈尊の誡文、如何ぞ之を免るべけんや。法然上人無間獄に堕せば所化の弟子竝びに諸檀那等、共に阿鼻大城に堕ち了んぬか。今度分明なる証文を出だして法然上人之阿鼻之炎を消さるべし云云。

文永九年[太歳壬申]正月十七日 日蓮 花押
弁成 花押

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