念仏は無間地獄に堕ちること(7)

浄蓮房御書  建治元年六月 五十四歳作

細美帷一送り給候畢ぬ。善導和尚と申す人は漢土に臨シと申国の人也。幼少の時密州と申す国の明勝と申す人を師とせしが、彼の僧は法華経と浄名経を尊重して、我も読誦し人をもすゝめしかば善導に此を教ゆ。善導此を習ひて師の如く行ぜし程に過去の宿習にや有けん。案じて云く「仏法には無量の行あり、機に随て皆利益あり。教いみじといへども機にあたらざれば虚きがごとし。されば我法華経を行ずるは我が機に叶はずばいかんが有べかるらん。教には依べからず」と思て一切経蔵に入り、両眼を閉て経をとる。観無量寿経を得たり。披見すれば此経に云く〔為未来世為煩悩賊之所害者説清浄業〕等云云。華厳経は二乗のため、法華経、涅槃経等は五乗にわたれどもたいし(大旨)は聖人のためなり。末法の我等が為なる経は唯観経にかぎれり。釈尊最後の遺言には涅槃経にはすぐべからず。彼経には七種の衆生を列たり。第一は入水則没の一闡提人也。生死の水に入しより已来いまに出ず。譬へば大石を大海に投入たるがごとし。身重して浮ぶことを習はず、常に海底に有り。此を常没と名く。第二をば出已復没と申す。譬へば身に力有とも浮ぶことをならはざれば出で已て復入ぬ。此は第一の一闡提の人には有ねども一闡提のごとし。又常没と名く。第三は出已不没と申す、生死の河を出でてよりこのかた没することなし。此は舎利弗等の声聞なり。第四は出已即住。第五は観方。第六は浅処。第七到彼岸等也。第四、第五、第六、第七は縁覚、菩薩也。釈迦如来世に出させ給て一代五時の経経を説給ひて、第三已上の人人を救ひ給ひ畢ぬ。第一は捨させ給ぬ。法蔵比丘、阿弥陀仏此をうけとて四十八願を発して迎とらせ給ふ。十方三世の仏と釈迦仏とは第三已上の一切衆生を救ひ給ふ。あみだ(阿弥陀)仏は第一、第二を迎とらせ給ふ。而に今末代の凡夫は第一、第二に相当れり。而を浄影大師、天台大師等の佗宗の人師は此事を弁へずして、九品の浄土に聖人も生ると思へり。?が中の?也。一向末代の凡夫の中に上三品は遇大始て大乗に値へる凡夫。中三品は遇小始て小乗に値へる凡夫。下三品は遇悪、一生造悪、無間非法の荒凡夫。臨終の時始て上の七種の衆生を弁へたる智人に行きあいて、岸上の経経をうちすてて水に溺るゝの機を救はせ給ふ。観経の下品、下生の大悪業に南無阿弥陀仏を授たり。されば我一切経を見るに法華経等は末代の機には千中無一也。第一、第二の我等衆生は第三已上の機の為に説れて候。法華経等を末代に修行すれば身は苦んで益なしと申て、善導和尚は立所に法華経を抛すてて観経を行ぜしかば三昧発得して、阿弥陀仏に見参して重て此法門を渡し給ふ、四帖の疏是也。導の云く「然るに諸仏の大悲は苦なる者に於て心偏に常没の衆生を愍念す。是を以て勧めて浄土に帰せしむ。亦水に溺るゝの人の如く急に須く偏に救ふべし。岸上の者何ぞ用て済ふことをなさん」と云云。又云く「深心と言へるは即ち是深信の心也。亦二種有り、一には決定して自身は現に是罪悪生死の凡夫なり。昿劫より已来常に没し常に流転して出離の縁有ること無しと深信す」。又云く「二には決定して彼の阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受したまふこと疑ひ無く慮り無く、彼の願力に乗ずれば定んで往生を得ると深信す」云云。此の釈の心は上にかき顕して候。浄土宗の肝心と申は此也。我等末代の凡夫は涅槃経の第一第二也。さる時に釈迦仏の教には「無有出離之縁」。法蔵比丘の本願にては「定得往生と知るを三心の中の深心とは申す也」等云云。此又導和尚の私義には非ず。綽禅師と申せし人の涅槃経を二十四反かう(講)ぜしが、曇鸞法師の碑の文を見て立所に涅槃経を捨てて観経に遷て後、此法門を導には教て候也。鸞法師と申せし人は斉の代の人也。漢土にては時に独歩の人也。初には四論と涅槃経とをかうぜしが、菩提流支と申す三蔵に値ひて四論、涅槃を捨て観経に遷りて往生をとげし人也。三代が間伝へて候法門也。漢土、日本には八宗を習ふ智人正法すでに過て像法に入りしかば、かしこき人人は皆自宗を捨てて浄土念仏に遷りし事此也。日本国のいろはは天台山の恵心の往生要集此也。三論の永観が十因往生講式、此等皆此法門をうかがい得たる人人也。法然上人亦爾也云云。
 日蓮云く、此義を存ずる人人等も但恒河の第一第二は一向浄土の機と云云。此此法門の肝要か。日蓮涅槃経の三十二、三十六を開き見るに、第一は誹謗正法の一闡提、常没大魚と名けたり。第二は又常没、其第二の人を出さば提婆達多、瞿伽利、善星等也。此は誹謗五逆の人人なり。詮する所第一、第二は謗法と五逆也。法蔵比丘の〔設ひ我仏を得んに十方衆生至心に信楽して我国に生れんと欲し、乃至十念して若生ぜずんば正覚を取らじ。唯五逆と誹謗正法とを除く〕云云。此願の如きんば法蔵比丘は恒河の第一第二を捨はててこそ候ぬれ。導和尚の如くならば末代の凡夫阿弥陀仏の本願には千中無一也。法華経の結経たる普賢経には五逆と誹謗正法は一乗の機と定給ひたり。されば末代の凡夫の為には法華経は十即十生百即百生也。善導和尚が義に付て申す詮は私案にはあらず。阿弥陀仏は無上念王たりし時娑婆世界は已にすて給ぬ。釈迦如来は宝海梵志として此の忍土を取給畢ぬ。十方の浄土には誹謗正法と五逆と一闡提とをば迎べからずと、阿弥陀仏、十方の仏誓給ひき。宝海梵志の願に云く〔即ち十方浄土の擯出の衆生を集めて我当に之を度すべし〕云云。法華経に云く〔唯我一人能為救護〕等云云。唯我一人の経文は堅きやうに候へども釈迦如来の自義にはあらず。阿弥陀仏等の諸仏我と娑婆世界を捨しかば、教主釈尊唯我一人と誓てすでに娑婆世界に出給ぬる上はなにをか疑ひ候べき。鸞、綽、導、心、観、然等の六人の人人は智者也。日蓮は愚者也。非学生也。但上の六人は何の国の人ぞ、三界の外の人か六道の外の衆生歟。阿弥陀仏に値奉りて出家受戒して沙門となりたる僧歟。今の人人は将門、純友、清盛、義朝等には種性も及ばず威徳も足らず。心のかうさ(剛)は申ばかりなけれども朝敵となりぬれば、其人ならざる人人も将門か純友かと舌にうちからみ(?)て申ども彼の子孫等もとがめず。義朝なんど申は故右大将家の慈父也。子を敬ひまいらせば父をこそ敬ひまいらせ候べきに、いかなる人人も義朝、為朝なんど申すぞ。此則ち王法の重く逆臣の罪のむくい(報)也。上の六人又かくのごとし。釈迦如来世に出させ給て一代の聖教を説をかせ給ふ。五十年の説法を我と集て浅深勝劣、虚妄真実を定て四十余年は〔未顕真実已今当第一〕等と説せ給しかば、多宝、十方の仏、真実なりと加判せさせ給て定めをかれて候を、彼六人は未顕真実の観経に依て、皆是真実の法華経を第一第二の悪人の為にはあらずと申さば、今の人人は彼にすかされて数年を経たるゆへに、将門、純友等が所従等彼を用ひざりし百姓等を、或は切り或は打ちなんどせしがごとし。彼をおそれて従ひし男女は、官軍にせめられて彼人人と一時に水火のせめに値しなり。今日本国の一切の諸仏、菩薩一切経を信ずるやうなれども、心は彼の六人の心也。身は又彼の六人の家人也。彼の将門等は官軍の向はざりし時は、大将の所従知行の地且く安穏なりしやうなりしかども、違勅の責近づきしかば所は脩羅道となり、男子は厨者の魚をほふる(屠)がごとし。炎に入り水に入りしなり。今日本国又かくのごとし。彼六人が僻見に依て今生には守護の善神に放されて三災七難の国となり、後生には一業所感の衆生なれば阿鼻大城の炎に入べし。法華経の第五巻に末代の法華経の強敵を仏記し置給へるは〔如六通羅漢〕と云云。上の六人は尊貴なること六通を現ずる羅漢の如し。然に浄蓮上人の親父は彼等の人人の御檀那也。仏教実ならば無間大城疑なし。又君の心を演るは臣、親の苦をやすむるは子也。目連尊者悲母の餓鬼の苦を救ひ、浄蔵、浄眼は慈父の邪見を翻し給き。父母の遺体は子の色心也。浄蓮上人の法華経を持ち給ふ御功徳は慈父の御力也。提婆達多は阿鼻地獄に堕しかども天王如来の記を送給き。彼は仏と提婆と同性一家なる故也。此は又慈父也、子息也。浄蓮上人の所持の法華経いかでか彼の故聖霊の功徳とせなざるべき。事多しと申せども止め畢ぬ。三反人によませてきこしめせ。恐恐謹言。

六月二十七日 日蓮 花押
返す返す。するが(駿河)の人人みな同じ御心と申させ給ひ候へ。

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