法華真言勝劣事 文永元年(1264/07/29)
東寺の弘法大師空海の所立に云く_法華経猶劣華厳経。何況於大日経乎〔法華経は猶お華厳経に劣れり。何に況んや大日経に於てをや〕云云。慈覚大師円仁・智証大師・安然和尚等の云く_法華経理同大日経。於印真言事者是猶劣也〔法華経の理は大日経に同じ。印と真言との事に於ては、是れ猶お劣れる也〕云云。[其の所釈、余処に之を出だす]
空海は大日経・菩提心論等に依て、十住心を立て、顕密の勝劣を判ず。其の中の第六の他縁大乗心は法相宗。第七の覚心不生心は三論宗。第八の如実一道心は天台宗。第九の極無自性心は華厳宗、第十の秘密荘厳心は真言宗なり。此の所立の次第は浅きより深きに至る。其の証文は大日経の住心品と菩提心論とに出づと云へり。然るに出だす所の大日経の住心品を見て他縁大乗・覚心不生・極無自性を尋ぬるに、名目経文之有り。然りと雖も、他縁・覚心・極無自性之三句を法相・三論・華厳に配する名目、之無し。其の上覚心不生と・極無自性と之中間に如実一道之文義、共に之無し。但し此の品之初めに_云何菩提。謂如実知自心〔云何なるか菩提。謂く 如実に自心を知る〕等の文、之有り。此の文を取りて此の二句之中間に置いて天台宗と名づけ、華厳宗に劣る之由、之を存す。住心品に於ては、全く文義、共に之無し。有文有義・無文有義之二句を欠く、信用に及ばず。菩提心論の文に於ても、法華・華厳の勝劣、都て之を見ざる上、此の論は龍猛菩薩の論と云ふ事、上古より諍論、之有り。此の諍論絶えざる已前に亀鏡に立つる事は竪義之法に背く。
其の上、善無畏・金剛智等、評定有りて大日経之疏義釈を作れり。一行阿闍梨の執筆也。此の疏義釈之中に、諸宗の勝劣を判ずるに、法華経与大日経 広略之異也〔法華経と大日経とは広略の異なり也〕と定め畢んぬ。空海之徳、貴しと雖も、争でか先師之義に背くべし乎と云ふ難強し[此れ、安然之難也]。之に依て空海之門人、之を陳するに、旁陳答、之有り。或は守護経、或は六波羅蜜経、或は楞伽経、或は金剛頂経等に見ゆと多く会通すれども、總じて難勢を免れず。
然りと雖も、東寺の末学等、大師の高徳を恐るる之間、強ちに会通を加へんと為れども、結句会通の術計り之無く、問答之法に背いて、伝教大師最澄は弘法大師之弟子也と云云。又宗論の甲乙等、旁論ずる事、之有り云云。
日蓮案じて云く 華厳宗之杜順・智儼・宝蔵等、法華経之始見今見の文に就いて、法華・華厳斉等之義、之を存す。其の後、澄観、始今之文に依て斉等之義を存すること、祖師に違せず。其の上、一往の弁を加へ、法華と華厳と斉等也。但し華厳は法華経より先也。華厳経之時、仏最初に法慧功徳林等の菩薩に対して出世之本懐、之を遂ぐ。然れども、二乗竝びに下賎之凡夫等、根機未熟之故に、之を用ひず。阿含・方等・般若等之調熟に依て、還りて華厳経に入らしむ。之を今見の法華経と名づく。大陳を破るに余残堅からざるが如し等。然れば実に華厳経、法華経に勝れたり等云云。本朝に於て勤操等に値ひて此の義を習学して後、天台・真言を学すと雖も旧執を改めざるが故に此の義を存す歟。何に況んや華厳経は法華経に勝る之由、陳隋より已前、南三北七、皆此の義を存す。天台已後も又諸宗、此の義を存せり。但弘法一人に非ざる歟。
但し澄観、始見今見之文に依て、華厳経は法華経より勝れりと料簡する才覚に於ては、天台智者大師、涅槃経之是経出世 乃至 如法華中〔是の経の出世は 乃至 法華の中の~如し〕之文に依て、法華・涅槃斉等の義を存するのみに非ず、又勝劣之義を存すれば、此の才覚を学びて此の義を存する歟。此の義、若し僻案ならば、空海之義も又僻見なるべき也。天台・真言の書に云く_法華経与大日経 広略之異也。略者法華経也。与大日経と雖斉等理 印真言略之故也。広者大日経。非説極理 説印真言故也。又法華経大日経 有同劣二義。謂理同事劣也。又有二義。一大日経五時摂也。是与義也。二大日経非五時之摂也。是奪義也〔法華経と大日経とは広略の異なり也。略とは法華経也。大日経と斉等の理なりと雖も、印・真言、之を略する故也。広とは大日経なり。極理を説くのみに非ず、印・真言をも説ける故也。又法華経と大日経とに同劣の二義有り。謂く 理同事劣也。又二義有り。一には大日経は五時の摂也。是れ与の義也。二には大日経は五時之摂に非ざる也。是れ奪の義也〕。又云く_法華経譬如裸形猛者。大日経帯甲冑猛者〔法華経は譬へば裸形の猛者の如し。大日経は甲冑を帯せる猛者なり〕等云云。又云く_無印真言者 不可知其仏〔印・真言無きは其の仏を知るべからず〕等云云。
日蓮不審して云く 何を以て之を知る。理は法華経と大日経と斉等也と云ふ事を。
答ふ 疏義釈竝びに慈覚・智証等之所釈に依る也。
求て云く 此れ等の三蔵大師等は、又何を以て之を知るや。理は斉等の義也と。
答て云く 三蔵大師等をば疑ふべからず等云云。
難じて云く 此の義、論議の法に非ざる上、仏の遺言に違背す。慥かに経文を出だすべし。若し経文無くんば、義分無かるべし、如何。
答ふ 威儀形色経・瑜祇経・観智儀軌等也。文は口伝すべし。
問て云く 法華経に印・真言を略すとは、仏より歟。
答て云く 或は仏と云ひ、或は経家と云ひ、或は訳者と云ふなり。
不審して云く 仏より真言印を略して法華経と大日経と理同事勝の義、之有りといはゞ、此の事何れの経文ぞ乎。文証の所出を知らず、我が意の浮言ならば、之を用ふべからず。若し経家・訳者より之を略すといはゞ、仏説に於てはなんぞ理同事勝の釈を作るべきや。法華経と大日経とは全体斉等なり。能く能く子細を尋ぬべき也。
私に日蓮云く 威儀形色経瑜祇経等の文の如くんば、仏説に於ては法華経に印・真言有る歟。若し爾らば、経家・訳者、之を略せる歟。六波羅蜜経の如きは、経家、之れを略す。旧訳之仁王経の如きは、訳者、之れを略せる歟。若し爾らば、天台・真言之理同事異の釈は、経家並びに訳者之時より法華経・大日経之勝劣也。全く仏説の勝劣に非ず。此れ天台・真言之極也。天台宗之義勢、才覚の為に此の義を難ず。天台・真言之僻見、此の如し。東寺所立之義勢は且く之を置く。僻見眼前の故也。
抑そも天台・真言宗の所立の理同事勝に二難有り。一には法華経と大日経との理同之義、其の文全く之無し。法華経と大日経との先後、如何。既に義釈に二経之前後、之を定め畢りて、法華経は先、大日経は後なりと云へり。若し爾らば、大日経は法華経の重説也、流通也。一法を両度、之を説くが故也。もし所立の如くんば法華経之理を重ねて之を説くを大日経と云ふ。然れば則ち、法華経と大日経と敵論之時は、大日経之理、之を奪ふて法華経に付くべし。但し、大日経の得分は、但印・真言計り也。印契は身業、真言は口業也。身・口のみにして意なくば印・真言有るべからず。手・口等を奪ふて法華経に付けなば、手無くして印を結び、口無くして真言を誦せば、虚空に印・真言を誦結すべき歟。如何。裸形之猛者と甲冑を帯せる猛者と之事。裸形の猛者の進んで大陳を破ると、甲冑を帯せる猛者の退いて一陳をも破らざるとは、何れが勝るゝ哉。又、猛者は法華経也。甲冑は大日経也。猛者無くんば、甲冑何の詮か、之有らん。之は理同之義を何ずる也。
次に事勝の義を難ぜば。法華経には印・真言無く、大日経には印・真言、之有りと云云。印契・真言之有無に付いて二経之勝劣を定むるに、大日経に印・真言有りて、法華経に之無き故に劣ると云はば、阿含経には世界建立・賢聖の地位、是れ分明也。大日経には之無し。若し爾らば、大日経は阿含経より劣る歟。双観経等には四十八願是れ分明也。大日経に之無し。般若経には十八空、是れ分明也。大日経には之無し。此れ等の諸経に劣ると云ふべき歟。又、印・真言無くんば、仏を知るべからず等と云云。今反詰して云く_ 理無くんば仏有るべからず。仏無くんば印契・真言一切徒然と成るべし。彼難じて云く 賢聖並びに四十八願等をば印・真言に対すべからず等と云云。今反詰して云く 最上の印・真言、之無くば法華経は大日経等より劣る歟。若し爾らば、法華経には二乗作仏・久遠実成之有り。大日経には之無し。印・真言と、二乗作仏・久遠実成とを対論せば天地雲泥也。諸経に印・真言を簡ばず、大日経、之を説きて何の詮か有るべき乎。二乗若し、灰断之執改めずんば、印・真言も無用也。一代之聖教に、皆二乗を永不成仏と簡ぶ。随て大日経にも之を隔つ。皆、成仏までこそ無からめ、三分が二、之を捨て、百分が六十余分、得道せずんば、仏の大悲、何かせん。凡そ、理の三千、之れ有りて成仏すと云ふ上には、何の不足か有るべき。成仏に於ては、疔(丁→亜)なる仏・中風の覚者は、之有るべからず。之を以て案ずるに、印・真言は規模無き歟。又諸経には、始成正覚の旨を談じて三身相即の無始の古仏を顕さず。本無今有之失有れば、大日如来は有名無実也。寿量品に此の旨を顕す。釈尊は、点の一月、諸仏菩薩は、萬水に浮かべる影なりと見えたり。委細之旨は且く之を置く。
又、印・真言無ければ、祈祷有るべからずと云云。是れ又以ての外の僻見也。過去・現在の諸仏、法華経を離れて成仏すべからず。法華経を以て正覚成り給ふ。法華経の行者を捨て給はゞ、諸仏還りて凡夫と成りたまふ。恩を知らざる故也。
又、未来の諸仏之中の二乗も、法華経を離れては永く枯木・敗種也。今は再生也。華果也。他経之行者と相論を為すときは、華光如来・光明如来等は、何れの方に付くべき乎。華厳経等の諸経の仏・菩薩・人天乃至四悪趣等之衆は皆法華経に於て一念三千・久遠実成の説を聞きて、正覚を成ずべし。何れの方に付くべき乎。真言宗等と外道並びに小乗・権大乗之行者等と、敵対相論を為す之時は、甲乙知り難し。法華経の行者に対する時は、龍と虎と、師子と兎と之闘ひの如く、諍論、分絶えたる者也。慧亮、脳を破する之時、次弟、位に即き、相応加持する之時、真済之悪霊、伏せらるゝ等、是れ也。一向真言の行者は、法華経の行者に劣れる証拠、是れ也。
問て云く 義釈之意は、法華経・大日経共に二乗作仏・久遠実成を明かす耶、如何。
答て云く 共に之を明かす。義釈に云く_此経心之実相彼経諸法実相〔此の経の心の実相は、彼の経の諸法実相なりと〕云云。又云く_本初是寿量義〔本初は是れ寿量の義なり〕等と云云。
問て云く 華厳宗の義に云く 華厳経には二乗作仏・久遠実成、之を明かす。天台宗は之を許さず。宗論は且く之を置く。人師を捨てゝ本経を存せば、華厳経に於ては二乗作仏・久遠実成の相似の文、之れ有りと雖も、実には之無し。之を以て之を思ふに、義釈には大日経に於て二乗作仏・久遠実成を存すと雖も、実には之無き歟。如何。
答て云く 華厳児湯の如く、相似之文、之れ有りと雖も、実義、之無き歟。私に云く 二乗作仏無くんば、四弘誓願、満足すべからず。四弘誓願、満足せずんば、又別願も満すべからず。總別の二願、満せずんば、衆生之成仏も有り難き歟。能く能く意得べし云云。
問て云く 大日経の疏に云く_大日如来無始無終。遥勝五百塵点〔大日如来は無始無終なりと。遥かに五百塵点に勝れたり〕。如何。
答ふ 鐐盧遮那の無始無終なる事、華厳・浄名・般若等之諸大乗経に、之を説く。独り大日経のみに非ず。
問て云く 若し爾らば五百塵点は、際限有れば有始有終也。無始無終は際限なし。然れば則ち、法華経は諸経に破せらるゝ歟、如何。
答て云く 他宗之人は此の義を存す。天台一家に於て此の難を会通する者有り難き歟。今、大日経並びに諸大乗経之無始無終は、法身之無始無終也。三身之無始無終に非ず。法華経の五百塵点は、諸大乗経の破せざる伽耶之始成、之を破したる五百塵点也。大日経等の諸大乗経には全く此の義無し。宝塔の涌現、地涌之涌出、弥勒之疑ひ、寿量品之初めの三誓四請。弥勒菩薩、領解之文に、仏説希有法 昔所未曾聞〔仏希有の法を説きたまふ、昔より未だ曾て聞かざる所なり〕等の文、是れ也。大日経六巻、並びに供養法の巻・金剛頂経・蘇悉地経等の諸の真言部之経の中に、未だ三止四請、二乗之劫国名号、難信難解等の文を見ず。
問て云く 五乗の真言、如何。
答ふ 未だ二乗の真言を知らず。四諦・十二因縁之梵語のみ有る也。又、法身平等に会すること有らんや。
問て云く 慈覚・智証等、理同事勝之義を存す。争でか此れ等の第四等に過ぎん乎。
答て云く 人を以て人を難ずるは、仏之誡め也。何ぞ汝、仏之制誡に違背する乎。但、経文を以て勝劣之義を存すべし。
難じて云く 末学之身として祖師之言に背かば、之を難ぜざらん耶。
答ふ 末学の祖師に違背する、之を難ぜば何ぞ智証・慈覚之天台・妙楽に違するを、何ぞ之を難ぜざる耶。
問て云く 相違如何。
答て云く 天台・妙楽之意は、已今当の三説之中に、法華経に勝れたる経、之れ有るべからず。若し法華経に勝れたる経有りといはゞ、一宗之宗義、之を壊るべきの由、之を存す。若し大日経、法華経に勝るといはゞ、天台・妙楽之宗義、忽ちに破るべき乎。
問て云く 天台・妙楽之已今当の宗義、証拠経文に有り乎。
答て云く 之有り。法華経法師品に云く_我所説経典。無量千万億。已説。今説。当説。而於其中。此法華経。最為難信難解〔我が所説の経典無量千万億にして、已に説き今説き当に説かん。而も其の中に於て此の法華経最も為れ難信難解なり〕等と云云。此の経文の如きんば、五十余年之釈迦所説之一切経の内には法華経最第一也。
難じて云く 真言師の云く 法華経は釈迦所説の一切経之中に第一也。大日経は大日如来所説の経也と。
答て云く 釈迦如来より外に大日如来、閻浮提に於て八相成道して大日経を説ける歟[是一]。六波羅蜜経に云く_〔過去現在並釈迦牟尼仏之所説諸経分為五蔵 其中第五陀羅尼蔵真言也〔過去・現在、並びに釈迦牟尼仏の所説の諸経を分かちて五蔵と為し、其の中の第五の陀羅尼蔵は真言なり〕と。真言の経、釈迦如来の所説に非ずといはゞ、経文に違す〔是二〕。我所説経典等の文は、釈迦如来の正直捨方便之説也。大日如来之証明、分身之諸仏、広長舌相之経文也〔是三〕。五仏章、尽く諸仏皆法華経を第一也と時給ふ〔是四〕。以要言之、如来一切所有之法〔要を以て之を言わば、如来の一切の所有の法〕、乃至 皆於此経宣示顕説〔皆此の経に於て宣示顕説す〕等と云云。此の経文の如くならば、法華経は釈迦所説之諸経の第一なるのみに非ず、大日如来、十方無量諸仏之諸経之中に、法華経第一也。此の外、一仏二仏之所説の諸経之中に、法華経に勝れたる之経有りと、之云はば、信用有るべからず[是五]大日経等之諸の真言経之中に法華経に勝れたる由の経文、之無し[是六]。仏より外之天竺・震旦・日本国之論師・人師之中に、天台大師より外の人師、所釈之中に、一念三千之名目、之無し。若し一念三千を立てざれば、性悪之義、之無し。性悪之義、之無くんば、仏・菩薩の普現色身、不動・愛染等の降伏の形、十界之曼荼羅、三十七尊等、本無今有の外道之法に同ず歟[是七]
問て云く 七義之中、一一難勢、之有り。然りと雖も、六義は且く之を置く。第七義、如何。華厳之澄観・真言之一行等、皆性悪之義を存す。何ぞ諸宗に此の義無しと云ふ哉。
答て云く 華厳の澄観・真言の一行は、天台所立之義を盗んで、自宗の義と成す歟。此の事余処に勘へたるが如し。
問て云く 天台大師の玄義の三に云く_法華總括衆経。〔法華は衆経を總括す〕乃至 舌爛口中〔舌、口中に爛る〕~莫以人情局彼太虚也。〔人情を以て彼の大虚を局むること莫れ〕釈籤の三に云く_不了法華宗極之旨。謂記聲聞事相而已不如華嚴般若融通無礙。~諌曉不止舌爛何疑〔法華宗極の旨を了せずして、聲聞に記する事相、而るに已に、華嚴・般若の融通無礙なるに如かずと謂ふ。~諌曉すれども止まず。舌の爛れんこと、何ぞ疑はん〕乃至 已今當妙於茲固迷。舌爛不止。猶爲華報。謗法之罪苦流長劫〔已今當の妙、ここに於いて固く迷へり。舌爛れて止まざるは、猶ほ、これ華報なり。謗法の罪苦、長劫に流る〕等云云。若し、天台・妙楽之釈、実ならば、南三北七、並びに華厳・法相・三論・東寺之弘法等、舌爛れんこと、難の疑ひ有らん耶。乃至、苦流長劫の者なる歟。是れは且く之を置く。慈覚・智証等之、親り此の宗義を承けたる者、法華経は大日経より劣るの義、存すべし。若し、其の義ならば、此の人、人の舌爛口中苦流長劫は、如何。
答て云く 此の義は最も上之難の義也。口伝に在り云云。
文永元年[甲子]七月二十九日之を記す 日蓮
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