禅宗は天魔の所為(3)

禅宗天台勝劣鈔 文永元年

問う 禅宗・天台宗何れ勝れたりと云うべきや。
 答う 天台宗勝れたり。之に付て禅宗をば又は仏心宗と云う。我が心仏なるが故也。或いは教外別伝とも云う。一代聖教の外に伝うと習う法門なり。始め華厳より終わり涅槃経に至りては、教内の法門にて猶涕唾に類す。余経余論は教内にしてたやすく生死を出でがたし。今別伝は一代聖教の外に有りて速やかに生死を出でて至極甚深の法門也。然る者されば天台宗は教内、禅宗は教外也。若し爾者しからば、禅宗まさると云うべきや。
 答う 凡そ禅宗とは東土の六祖是を伝う。達磨既に楞伽経に依りて宗を立つ。其楞伽経は法華已然の方等部の経、猶権経也。権経に依って立つる所の宗、豈法華にまさらんや。但し教外別伝と云う事証拠なき事実也。所以に一代聖教を離れて、別に仏法有りとは何れの経論に見えたるや。又経論に依らずして師の言に依るべき歟。祖師と仏と何れを信ずるべきや。若し祖師を信ぜずば、其祖師の善不善何に依りてか別つべき。悟不悟亦いかでか知るべき。若し仏を信ぜば、教外別伝と云うべからず。仏全く教外に別伝ありとは仰せられず。若しありといわば外道の法なるべし。天魔の所説正法破滅の源也。
之に依りて経に云く_若し経律を離れて是の説を作さば、当に知るべし、即ち是れ虚説也 云云。
像法決疑経に云く_諸の悪比丘、或いは禅を修すこと有るとも経論に依らず。自ら己見を逐って非を以て是と為し、「是れ邪、是れ正なり」と分別すること能わず。遍く道俗に向かって是の如き言を作さん。「我能く是れを知り、我能く是れを見る」と。当に知るべし、是の人は速やかに我が法を滅せんことを 文。
玄の一に云く_若し観心の人は心に即して是なり、己即ち仏に均しと謂いて都て経論を尋ねず、増上慢に墜ちぬ。此れ則ち炬を把って自ら燒く。行の悪道に牽くこと其れ聞くことを習わざるに由る也。
 此等の文釈・経論によらず。教外に別伝ありと云わんは、天魔・外道・上慢破法堕悪の者なるべしと云う証拠也。故に教外別伝とは全く仏法に非ずと云うべき也。たとい録等に此の旨ありとも、録は人師の釈也。仏説に非ず、信ずべからず。「我即ち仏、我既に解りたり」と云い、又「是心是仏」と云うて心の外に法なしと云えども、経論に依らずばさとりにもあらず。心法にもあらず。仏法にもあらず。

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