方便品と寿量品について

此方便品と申は迹門の肝心也。此品には仏十如実相の法門を説て十界の衆生の成仏を明し給へば、舎利弗等は此を聞いて無明の惑を断じ真因の位に叶ふのみならず。未来華光如来と成て、成仏の覚月を離垢世界の暁の空に詠ぜり。十界の衆生の成仏の始は是也。
<中略>
次に寿量品と申は本門の肝心也。又此品は一部の肝心、一代聖教の肝心のみならず。三世の諸仏の説法の儀式の大要也。教主釈尊寿量品の一念三千の法門を証得し給事は、三世の諸仏と内証等きが故也。但し此法門は釈尊一仏の己証のみに非ず諸仏も亦然也。我等衆生の無始已来六道生死の浪に沈没せしが、今教主釈尊の所説の法華経に奉値事は乃往過去に此寿量品の久遠実成の一念三千を聴聞せし故也。難有法門也。
『太田左衛門尉御返事』

法華経は何れの品にも先に申しつる様に愚かならねども、殊に二十八品の中に勝れてめでたきは方便品と寿量品にて侍り。余品は皆枝葉にて候也。されば常の御所作には、方便法の長行と寿量品の長行とを習ひ読ませ給候へ。又別に書き出だしてもあそばし候べく候。余の二十六品は見に影の随ひ、玉に宝の備はるが如し。寿量品・方便品をよみ候へば、自然に余品はよみ候はねども備はり候なり。薬王品・提婆品は女人の成仏往生を説かれて候品にては候へども、提婆品は方便品の枝葉。薬王品は方便品と寿量品の枝葉にて候。されば常には是の方便品・寿量品の二品をあそばし候て、余の品をば時々御いとまのひまにあそばすべく候。
『月水御書(報大学三郎妻書)』

方便品より人記品に至るまでの八品は正には二乗作仏を明かし、傍には菩薩・凡夫の作仏を明かす。法師・宝塔・提婆・勧持・安楽之五品は、上之八品を末代之凡夫之修行すべき様を説く也。又涌出品は寿量品の序也。分別功徳品より十二品は正には寿量品を末代之凡夫の行ずべき様、傍には方便品等の八品を修行すべき様を説く也。
<中略>
爾前は星の如く、法華経の迹門は月の如く、寿量品は日の如し。寿量品の時は迹門の月未だ及ばず。何に況んや爾前の星をや。夜は星の時も月の時も衆務を作さず。夜暁て必ず衆務を作す。爾前・迹門にして猶お生死を離れ難し。本門寿量品に至りて必ず生死を離るべし。
『薬王品得意抄』

法華経は亦方便・寿量の二品也。寿量品に至って実の浄土を定むる時、此の土は即ち浄土なりと定め了んぬ。
『守護国家論』

一部八巻二十八品を受持読誦し随喜護持等するは広也。方便品・寿量品等を受持し乃至護持するは略也。
『法華題目抄』

かゝるいみじき法華経と申す御経はいかなる法門ぞと申せば、一の巻方便品よりうちはじめて菩薩・二乗・凡夫皆仏になり給ふやうをとかれて候へども、いまだ其のしるしなし。
『千日尼御前御返事』

末法に入つて始めの五百年には法華経の本門前後十三品をば置きて、只寿量品の一品を弘通すべき時なり。機法相応せり。今此の本門寿量の一品は像法の後の五百歳尚ほ堪えず。況や始めの五百年をや、何に況や正法の機には迹門尚ほ日浅し、まして本門をや。末法に入つて爾前、迹門は全く出離生死の法にあらず、但だ専ら本門寿量の品に限りて出離生死の要法なり
『三大秘法稟承事』

一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしずめたり。
<中略>
迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて爾前二種の失一つ脱れたり。しかりといえどもいまだ発迹顕本せざれば、まことの一念三千もあらわれず、二乗作仏も定まらず。水中の月を見るがごとし。根なし草の波上に浮べるにいたり。
<中略>
法華経方便品の略開三顕一の時、仏略して一念三千心中の本懐を宣べ給う。
<中略>
一切経の中に此の寿量品ましまさずば、天に日月無く、国に大王無く、山河に珠無く、人に神のなからんがごとくしてあるべきを、華厳・真言等の権宗の智者とおぼしき澄観・嘉祥・慈恩・弘法等の一往権宗の人々、且つは自らの依経を讃歎せんために、或は云く 華厳経の教主は報身、法華経は応身と、或は云く 法華寿量品の仏は無明の辺域、大日経の仏は明の分位等云云。
<中略>
寿量品をしらざる諸宗の者は畜に同じ。不知恩の者なり。
『開目抄』

末法の初めは謗法の国、悪機なる故に之を止め、地涌千界の大菩薩を召して、寿量品の肝心たる妙法蓮華経の五字を以て閻浮の衆生に授与せしめたもう也。
『観心本尊抄』

本門寿量品をもて見れば、寿量品の智慧をはなれては諸経は跨説・当分の得道共に有名無実なり。
『小乗大乗分別鈔』

問て曰く 誰人の為に広開近顕遠の寿量品を演説するや。
答て曰く 寿量品の一品二半は始めより終りに至るまで正しく滅後の衆生の為なり。滅後之中には末法今時の日蓮等が為也。
疑て云く 此の法門前代に未だ之を聞かず。経文に之有りや。
答て曰く 予が智、前賢に超えず。設ひ経文を引くと雖も誰人か之を信ぜん。卞和が啼泣、伍子胥の悲傷是れ也。然りと雖も略開近顕遠動執生疑之文に云く_然諸新発意菩薩。於仏滅後。若聞是語。或不信受。而起破法。罪業因縁〔然も諸の新発意の菩薩、仏の滅後に於て若し是の語を聞かば、或は信受せずして法を破する罪業の因縁を起さん〕等云云。文の心は寿量品を説かずんば末代の凡夫、皆悪道に堕せん等也
『法華取要抄』

夫れ法華経は一代聖教の骨髄なり。自我偈は二十八品のたましいなり。三世の諸仏は寿量品を命とし、十方の菩薩も自我偈を眼目とす。<中略>今法華経寿量品を持つ人は諸仏の命を続く人也。
『法蓮鈔』

法華経の第一の聖教に超過していみじきと申すは寿量品のゆへぞかし。
『可延定業御書』

今日蓮粗之を勘ふるに、法華経之此の文を重ねて涅槃経に演べて云く_若於三法 修異想者 当知此輩 清浄三帰 則無依処 所有禁戒 皆不具足。終不能証 声聞縁覚 菩薩之果〔若し三法に於て異の想を修する者は、当に知るべし。此の輩は清浄の三帰、則ち依処無く、所有の禁戒、皆具足せず。終に声聞・縁覚・菩薩の果を証することあたはず〕等云云。此の経文は正しく法華経の寿量品を顕説せる也。寿量品は木に譬へ、爾前迹門をば影に譬へる之文なり。
『富木入道殿御返事』

本門寿量品の意は、爾前・迹門に於て一向三乗倶に三惑を断ぜずと意得るべきなり。
『二乗作仏事』

法華経の寿量品は、釈迦如来の不殺生戒の功徳に当て候品ぞかし。
『主君耳入此法門免与同罪事』

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