撰時抄 建治元年(1275.06) 釈子 日蓮 述
其の後人王第五十代、像法八百年に相当て桓武天王の御宇に、最澄と申す小僧出来せり。後には伝教大師と号したてまつる。始めには三論・法相・華厳・倶舎・成実・律の六宗竝びに禅宗等を行表僧正等に習学せさせ給ひし程に、我と立て給える国昌寺、後には比叡山と号す、此にして六宗の本経本論と宗々の人師の釈とを引き合わせて御らむありしかば、彼の宗々の人師の釈、所依の経論に相違せる事多き上、僻見多々にして信受せん人皆悪道に堕ちぬべしとかんがへさせ給ふ。其の上法華経の実義は宗々の人々、我も得たり、我も得たりと自讃ありしかども其の義なし。此れを申すならば喧嘩出来すべし。もだ(黙)して申さずは仏誓にそむきなんと、をもひはずらわせ給ひしかども、終に仏の誡めををそれて桓武皇帝に給ひしかば、帝此の事ををどろかせ給ひて六宗の碩学に召し合わさせ給ふ。彼の学者等始めは慢幢山のごとし、悪心毒蛇のやうなりしかども、終に王の前にしてせめをとされ、六宗七寺一同に御弟子となりぬ。例せば漢土の南北の諸師、陳殿にして天台大師にせめをとされて御弟子となりしがごとし。此は是、円定円慧計りなり。
其の上天台大師のいまだせめ給はざりし小乗の別受戒をせめをとし、六宗の八大徳に梵網経の大乗別受戒をさづけ給ふのみならず、法華経の円頓の別受戒を叡山に建立せしかば、延暦円頓の別受戒は日本第一たるのみならず、仏滅後一千八百余年が間、身毒・尸那・一閻浮提にいまだなかりし霊山の大戒日本国に始まる。されば伝教大師は其の功を論ずれば龍樹・天親にもこえ、天台・妙楽にも勝れてをはします聖人なり。
されば日本国の当世の東寺・薗城・七大寺・諸国の八宗・浄土・禅宗・律宗等の諸僧等、誰人か伝教大師の円戒をそむくべき。かの漢土の九国の諸僧等は円定円慧は天台の弟子ににたれども、円頓一同の戒場は漢土になければ、戒にをいては弟子とならぬ者もありけん。この日本国は伝教大師の御弟子にあらざる者は外道なり悪人なり。而れども漢土・日本の天台宗と真言の勝劣は大師心中には存知せさせ給ひけれども、六宗と天台宗とのごとく公場にして勝負なかりけるかのゆへにや、伝教大師已後には東寺・七寺・園城の諸寺、日本一州一同に、真言宗は天台宗に勝れたりと上一人より下万民にいたるまでおぼしめしをもえり。しかれば天台法華宗は伝教大師の御時計りにぞありける。此の伝教の御時は像法の末、大集経の多造塔寺堅固の時なり。いまだ於我法中闘諍言訟白法隠没の時にはあたらず。
<中略>
像法の末に伝教大師日本に出現して天台大師の円慧円定の二法を我朝に弘通せしむるのみならず、円頓の大戒場を叡山に建立して日本一州皆同じく円戒の地になして、上一人より下万民まで延暦寺を師範と仰がせ給ふは、豈に像法の時法華経の広宣流布にあらずや。
<中略>
問て云く 伝教大師は日本国の士也。桓武の御宇に出世して欽明より二百余年が間の邪義をなんじやぶり、天台大師の円慧円定を撰し給ふのみならず、鑒真和尚の弘通せし日本小乗の三処の戒壇をなんじやぶり、叡山に円頓の大乗別受戒を建立せり。此の大事は仏滅後一千八百年が間の身毒・尸那・扶桑乃至一閻浮提第一の奇事なり。内証は龍樹・天台等には或は劣るにもや、或は同じくもやあるらん。仏法の人をすべ(統)て一法となせる事は、龍樹・天親にもこえ、南岳・天台にもすぐれて見えさせ給ふなり。惣じては如来御入滅の後一千八百年が間、此の二人こそ法華経の行者にてはおはすれ。
故に秀句に云く_若接須弥 擲置他方 無数仏土 亦未為難 乃至 若仏滅後 於悪世中 能説此経 是則為難〔若し須弥を接つて 他方の 無数の仏土に擲げ置かんも 亦未だ難しとせず 乃至 若し仏の滅後に 悪世の中に於て 能く此の経を説かん 是れ則ち難しとす〕等云云。此の経を釈して云く_浅易深難釈迦所判。去浅就深丈夫之心也。天台大師信順釈迦助法華宗敷揚震旦 叡山一家相承天台助法華宗弘通日本〔浅は易く深は難しとは釈迦の所判なり。浅を去て深に就くは丈夫の心なり。天台大師は釈迦に信順し法華宗を助けて震旦に敷揚し、叡山の一家は天台に相承し法華宗を助けて日本に弘通す〕云云。
釈の心は、賢劫第九の減、人寿百歳の時より、如来在世五十年、滅後一千八百余年が中間に、高さ十六万八千由旬六百六千十二万里の金山を、有人五尺の小身の手をもつて方一寸二寸等の瓦礫をにぎりて一丁二丁までなぐるがごとく、雀鳥のとぶよりもはやく鉄圍山の外へなぐる者はありとも、法華経を仏のとかせ給ひしやうに説かん人は末法にはまれなるべし。天台大師・伝教大師こそ仏説に相似してとかせ給ひたる人にてをはすれとなり。天竺の論師はいまだ法華経へゆきつき給はず。漢土の天台已前の人師は或はすぎ或はたらず。慈恩・法蔵・善無畏等は東を西といゐ、天を地と申せる人々なり。此れ等は伝教大師の自讃にはあらず。
去る延暦二十一年正月十九日高雄山に桓武皇帝行幸なりて、六宗七大寺の碩徳たる善議・勝猷・奉基・寵忍・賢玉・安福・勤操・修円・慈誥・玄耀・歳光・道証・光証・観敏等の十有余人、最澄法師と召し合わせられて宗論ありしに、或は一言に舌を巻いて二言三言に及ばず、皆一同に頭をかたぶけ、手をあざ(叉)う。三論の二蔵・三時・三転法輪、法相の三時・五性、華厳宗の四教・五教・根本枝末・六相十玄皆大綱やぶらる。例せば大屋の棟梁のをれたるがごとし。十大徳の慢幢も倒れにき。
爾の時天子大に驚かせ給ひて、同二十九日に弘世・国道の両吏を勅使として、重ねて七寺六宗に仰せ下されしかば、各々帰伏の状を載せて云く_竊見天台疏者 惣括釈迦一代教悉顕其趣無所不通 独逾諸宗殊示一道。其中所説甚深妙理。七箇大寺六宗学生 昔所未聞曽所未見。三論法相久年之諍渙焉氷解 照然既明猶披雲霧而見三光矣。自聖徳弘化以降于今二百余年之間 所講経論其数多矣。彼此争理其疑未解。而此最妙円宗猶未闡揚。蓋以此間群生未応円味歟。伏惟聖朝久受如来之付 深純結円之機 一妙義理始乃興顕 六宗学者初悟至極。可謂此界含霊而今而後 悉載妙円之船早得済於彼岸。乃至 善議等牽逢休運乃閲奇詞。自非深期何託聖世哉〔竊かに天台の疏を見れば、惣じて釈迦の一代の教を括つて悉く其の趣を顕すに通ぜざるところ無く、独り諸宗に逾へ、殊に一道を示す。其の中の所説甚深の妙理なり。七箇の大寺六宗の学生昔より未だ聞かざるところ、曽て未だ見ざるところなり。三論法相久年之諍渙焉として氷のごとく解け、照然として既に明かに猶雲霧を披て三光を見るがごとし。聖徳の弘化よりこのかた今まで二百余年の間、講ずる所の経論其の数多し。彼此の理を争えども其の疑未だ解けず。而るに此の最妙の円宗、猶未だ闡揚せず。蓋し以て此の間の群生未だ円味にかなわざるか。伏して惟れば聖朝久しく如来之付を受け深く純円之機を結び、一妙の義理始めて乃ち興顕し、六宗の学者初めて至極を悟る。謂つべし。此界の含霊而今而後、悉く妙円之船に載せ、早く彼岸に済ることを得ると。乃至 善議等牽かれて休運に逢て、乃ち奇詞を閲す。深期に非ざるよりは何ぞ聖世に託せん〕等云云。
彼の漢土の嘉祥等は一百余人をあつめて天台大師を聖人と定めたり。今日本の七寺二百余人は伝教大師を聖人とがうしたてまつる。仏の滅後二千余年に及んで両国に聖人二人出現せり。其の上、天台大師未弘の円頓大戒を叡山に建立し給ふ。此れ豈に像法の末に法華経広宣流布するにあらずや。
答て云く 迦葉・阿難等の弘通せざる大法を、馬鳴・龍樹・提婆・天親等の弘通せる事、前の難に顕れたり。又龍樹・天親等の流布し残し給へる大法、天台大師の弘通し給ふ事又難にあらわれぬ。又天台智者大師の弘通し給はざる円頓の大戒を、伝教大師の建立せさせ給ふ事又顕然也。
<中略>
日本国の伝教大師漢土にわたりて、天台宗をわたし給ふついでに、真言宗をならべわたす。天台宗を日本の皇帝にさづけ、真言宗を六宗の大徳にならわせ給ふ。但し六宗と天台宗の勝劣は入唐已前に定めさせ給ふ。入唐已後には円頓の戒場立てう立じの論か計りなかりけるかのあひだ、敵多くしては戒場の一事成じがたしとやをぼしめしけん、又末法にせめさせんとやをぼしけん、皇帝の御前にしても論ぜさせ給はず。弟子等にもはかばかしくかたらせ給はず。但し依憑集と申す一巻の秘書あり。七宗の人々の天台に落ちたるやうをかゝれて候文なり。かの文の序に真言宗の誑惑一筆みへて候。
<中略>
伝教大師は日本国にして十五年が間、天台真言等を自見せさせ給ふ。生知の妙悟にて師なくしてさとらせ給ひしかども、世間の不審をはらさんがために、漢土に亙りて天台・真言の二宗を伝へ給ひし時、漢土の人々はやうやうの義ありしかども、我が心には法華は真言にすぐれたりとをぼしめししゆへに、真言宗の宗の名字をば削らせ給ひて、天台宗の止観真言等かかせ給ふ。十二年の年分度者二人ををかせ給ひ、重ねて止観院に法華経・金光明経・仁王経の三部を鎮護国家の三部と定めて宣旨を申し下し、永代日本国の第一の重宝神璽・宝剣・内侍所とあがめさせ給ひき。
<中略>
伝教大師は三論・法相・華厳等の日本の碩学等を六虫とかかせ給へり。
<中略>
伝教大師は叡山を立てて一切衆生の眼目となる。結句七大寺は落ちて弟子となり、諸国は檀那となる。されば現に勝れたるを勝れたりという事は慢ににて大功徳となりけるか。伝教大師云く_天台法華宗勝諸宗者 拠所依経故 不自讃毀他〔天台法華宗の諸宗に勝れたるは、所依の経に拠るが故に、自讃毀他ならず〕等云云。
報恩抄 建治二年(1276.07.21) 日蓮 撰之
真言宗と申すは、日本人王第四十四代と申せし元正天皇の御宇に、善無畏三蔵、大日経をわたして弘通せずして漢土へかへる。又玄・等、大日経の義釈十四巻をわたす。又東大寺の得清大徳わたす。
此等を伝教大師御らんありてしかども、大日経・法華経の勝劣いかんがとおぼしけるほどに、かたがた不審ありし故に、去る延暦二十三年七月御入唐。西明寺の道邃和尚・仏瀧寺の行満等に値ひ奉りて、止観円頓の大戒を伝受し、霊感寺の順暁和尚に値ひ奉りて、真言を相伝し、同延暦二十四年六月に帰朝し、桓武天王に御対面。宣旨を下て、六宗の学匠に止観・真言を習はしめ、同七大寺にをかれぬ。真言・止観の二宗の勝劣は漢土に多く子細あれども、又大日経の義釈には理同事勝とかきたれども、伝教大師は善無畏三蔵のあやまりなり、大日経は法華経には劣りたりと知しめして、八宗とはせさせ給はず。真言宗の名をけづりて、法華宗の内に入れ七宗となし、大日経をば法華天台宗の傍依経となして、華厳・大品般若・涅槃等の例とせり。
而れども大事の円頓の大乗別受戒の大戒壇を我が国に立う立じの諍論がわづらはしきに依りてや、真言・天台二宗の勝劣は弟子にも分明にをしえ給はざりけるか。
但依憑集と申す文に、正く真言宗は法華天台宗の正義を偸みとりて、大日経に入れて理同とせり。されば彼の宗は天台宗に落ちたる宗なり。いわうや不空三蔵は善無畏・金剛智入滅の後、月氏に入りてありしに、龍智菩薩に値ひ奉りし時、月氏には仏意をあきらめたる論釈なし。漢土に天台という人の釈こそ、邪正をえらび、偏円をあきらめたる文にては候なれ。あなかしこ、あなかしこ。月氏へ渡し給へと、ねんごろにあつら(誂)へし事を、不空の弟子含光といゐし者が妙楽大師にかたれるを、記の十の末に引き載せられて候を、この依憑集に取り載せて候。法華経に大日経は劣るとしろしめす事、伝教大師の御心顕然也。
<中略>
日本国には伝教大師が仏滅後一千八百年にあたりていでさせ給ひ、天台の御釈を見て欽明より已来二百六十余年が間の六宗をせめ給ひしかば、在世の外道・漢土の道士、日本に出現せりと謗ぜし上、仏滅後一千八百年が間、月氏・漢土・日本になかりし円頓の大戒を立てんというのみならず、西国の観音寺の戒壇・東国下野小野寺の戒壇・中国大和の国東大寺の戒壇は、同じく小乗臭糞の戒なり、瓦石のごとし。其を持つ法師等は野干猿猴等のごとしとありしかば、あら不思議や、法師ににたる大蝗虫、国に出現せり。仏教の苗一時にうせなん。殷の紂・夏の桀、法師となりて日本に生まれたり。後周の宇文・唐の武宗、二たび世に出現せり。仏法も但今失せぬべし。国もほろびなんと。大乗小乗の二類の法師出現せば、・羅と帝釈と、項羽と高祖と、一国に竝べるなるべし。諸人手をたゝき、舌をふるふ。在世には仏と提婆が二の戒壇ありてそこばくの人々死ににき。されば他宗にはそむくべし。我師天台大師の立て給はざる円頓の戒壇を立つべしという不思議さよ。あらをそろしをそろしとのゝし(罵)りあえりき。されども経文分明にありしかば、叡山の大乗戒壇すでに立てさせ給ひぬ。
されば内証は同じけれども、法の流布は迦葉・阿難よりも馬鳴・龍樹等はすぐれ、馬鳴等よりも天台はすぐれ、天台よりも伝教は超えさせ給ひたり。世末になれば、人の智はあさく仏教はふかくなる事なり。例せば軽病は凡薬、重病には仙薬、弱人には強きかたうど(方人)有りて扶くるこれなり。
開目抄 文永九年(1272.02)
日本我が朝には華厳等の六宗、天台・真言已前にわたりけり。華厳・三論・法相、諍論水火なりけり。伝教大師此の国にいでて、六宗の邪見をやぶるのみならず、真言宗が天台の法華経の理を盗み取て自宗の極とする事あらわれおわんぬ。伝教大師宗々の人師の異執をすてて専ら経文を前として責めさせ給いしかば、六宗の高徳八人・十二人・十四人・三百余人竝びに弘法大師等せめおとされて、日本国一人もなく天台宗に帰伏し、南都・東寺・日本一州の山寺、皆叡山の末寺となりぬ。又漢土の諸宗の元祖の天台に帰伏して謗法の失をまぬかれたる事もあらわれぬ。
<中略>
日蓮云く 日本に仏法わたりてすでに七百余年、但、伝教大師一人計り法華経をよめりと申すをば諸人これを用いず。
<中略>
伝教大師の南京の諸人に_最澄未見唐都〔最澄未だ唐都を見ず〕等といわれさせ給いし、皆法華経のゆえなればはじならず。愚人にほめられたるは第一のはじなり。
観心本尊抄 文永10年(1273.04.26)
伝教大師、粗法華経の実義を顕示す。然りと雖も、時、未だ来らざる之故に東方の鵝王を建立して、本門の四菩薩を顕さず。所詮、地涌千界の為に之を譲り与うる故也。
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