伝教大師とは(2)

伝教大師筆尺牘(久隔帖)

其の後、人王第五十代桓武天皇の御宇に伝教大師と申せし聖人出現せり。始めには華厳・三論・法相・倶舎・成実・律の六宗を習ひ究め給ふのみならず、達磨宗の淵底を探り究竟するのみならず、本朝未弘の天台法華宗・真言宗の二門を尋ね顕して浅深勝劣を心中に存じ給へり。去る延暦二十一年正月十九日に桓武皇帝高雄寺に行幸ならせ給ひ、南都七大寺の長者善議・勤操等の十四人最澄法師等召し合わせ給ひて、六宗と法華宗との勝劣浅深得道の有無を糾明せられしに、先は六宗の碩学各々宗々ごとに我が宗は一代超過、一代超過の由立て申されしかども、澄公の一言に万事破れ畢んぬ。其の後皇帝重ねて口宣す。和気の弘世を御使として諌責せられしかば、七大寺六宗の碩学一同に謝表を奉り畢んぬ。一十四人之表に云く_此界含霊 而今而後 悉載妙円之船 早得済彼岸〔此界の含霊、而今而後、悉く妙円の船に載り、早く彼岸を済ることを得る〕。教大師云く_二百五十戒忽捨畢〔二百五十戒忽ちに捨て畢んぬ〕。又云く_正像稍過已末法甚有近〔正像やや過ぎ已って、末法はなはだ近きに有り〕。又云く ̄一乗之家都不用〔一乗の家にはすべて用ひざれ〕。又云く_無以穢食置宝器〔穢食を以て宝器に置くことなかれ〕。又云く_仏世之大羅漢已被此呵嘖。滅後小蚊虻何不随此〔仏世の大羅漢、已に此の呵嘖を被れり。滅後の小蚊虻、何ぞ此れに随はざらん〕云云。
 此れ又私の責めにはあらず。法華経には_正直捨方便 但説無上道〔正直に方便を捨てて 但無上道を説く〕云云。涅槃経には邪見之等云云。邪見方便と申すは華厳・大日経・般若経・阿弥陀経等の四十余年の経経也。捨とは天台の云く 廃也。又云く 謗とは背く也。正直の初心の行者の法華経を修行する法は上に挙ぐるところの経々宗々を抛ちて、一向に法華経を行ずるが真の正直の行者にては候也。
<中略>
されども又世末になるまゝに、人の悪は日々に増長し、政道は月々に衰減するかの故に、又三災七難先よりいよいよ増長して、小乗戒等の力験なかりしかば、其の時治をかへて小乗の戒等を止めて大乗を用ゆ。大乗又叶はねば法華経の円頓の大戒壇を叡山に建立して代を治めたり。
 所謂伝教大師、日本三所の小乗戒竝びに華厳・三論・法相の三大乗戒を破失せし是れ也。此の大師は六宗をせめ落とさせ給ふのみならず、禅宗をも習ひ極め、剰へ日本国にいまだひろまらざりし法華宗・真言宗をも勘へ出だして勝劣鏡をかけ、顕密の差別黒白也。然れども、世間の疑ひを散じがたかりしかば、去る延暦年中に御入唐、漢土の人々も他事には賢かりしかども、法華経・大日経・天台・真言の二宗の勝劣浅深は分明に知らせ給はざりしかば、御帰朝の後、本の御存知の如く、妙楽大師の記の十の、不空三蔵の改悔の言を含光がかたりしを引き載せて、天台勝れ真言劣なる明証を依憑集に定め給ふ。剰へ真言宗の宗の一字を削り給ふ。其の故は善無畏・金剛智・不空の三人、一行阿闍梨をたぼらかして、本はなき大日経に天台の已証の一念三千の法門を盗み入れて、人の珍宝を我が有とせる大誑惑の者と心得給へり。例せば澄観法師が天台大師の十法成乗の観法を華厳経に盗み入れて、還りて天台宗を末経と下すがごとしと御存知あて、宗の一字を削りて叡山は唯七宗たるべしと云云。
『下山御消息』

 夫れ人王三十代欽明の御宇、始めて仏法渡りし以来、桓武の御宇に至るまで、二十代二百余年之間、六宗有りと雖も仏法未だ定まらず。爰に延暦年中に一りの聖人有りて此の国に出現せり。所謂伝教大師是れ也。此の人先より弘通する六宗を糺明し、七寺を弟子と為して、終に叡山を建てて本寺と為し、諸寺を取りて末寺と為す。日本の仏法唯一門なり。王法も二つに非ず。法定まり国清めり。其の功を論ぜば源已今当の文より出でたり。
『四信五品抄』

先ず山門はじまりし事は此の国に仏法渡って二百余年、桓武天皇の御宇に伝教大師立て始め給いしなり。当時の京都は昔聖徳太子王気ありと相し給いしかども、天台宗の渡らん時を待ち給いし間都をたて給わず。又上宮太子の記に云く_我滅後二百余年仏法日本可弘〔我が滅後二百余年に仏法日本に弘まるべし〕云云。伝教大師延暦年中に叡山を立て給う。桓武天皇は平の京都をたて給いき。太子の記文たがわざる故なり。
『祈祷鈔』

彼の天台大師は南北の諸人あだみしかども、陳隋二代の帝重んじ給ひしかば、諸人の怨もうすかりき。此の伝教大師は南都七大寺讒言せしかども、桓武・平城・嵯峨の三皇用ひ給ひしかば、怨敵もをかしがたし。今日蓮は日本国十七万一千三十七所の諸僧等のあだするのみならず、国主用い給はざれば、万民あだをなす事父母の敵にも超へ、宿世のかたきにもすぐれたり。
『神国王御書』

尸那国より三千里をへだてて東方に国あり、日本国となづけたり。漢土の天台大師御入滅二百余年と申せしに此の国に生まれて伝教大師となのらせ給いて、秀句と申す書を造り給いしに_能化所化倶無歴劫妙法経力即身成仏と龍女が成仏を定め置き給えり。
『法華題目抄』

桓武の御宇に山階寺の行表僧正の御弟子に最澄といふ小僧有り。[後に伝教大師と号す。]已前に渡る所の六宗竝びに禅宗、之を極むと雖も未だ我が意に叶はずして 聖武天皇の御宇に大唐の鑒真和尚渡す所の天台の章疏 四十余年を経て已後始めて最澄之を披見し 粗仏法の玄旨を覚り了んぬ。最澄、天長地久の為に延暦四年叡山を建立す。桓武皇帝之を崇め、天子本命の道場と号す。六宗の帰依を捨て一向天台円宗に帰伏したまふ。同延暦十三年に長岡の京を遷して平安城を建つ。同延暦二十一年正月十九日高雄寺に於て南都七大寺の六宗の碩学勤操・長耀等の十四人を召し合わせて勝負を決断す。六宗の名匠一問答にも及ばず。口を閉じること鼻の如し。華厳宗の五教・法相宗の三時・三論宗の二蔵三時の所立を破し了んぬ。但自宗を破らるるのみに非ず、皆謗法の者たることを知る。同じき二十九日皇帝勅宣を下して之を詰める。十四人謝表を作して皇帝に捧げ奉る。
『安国論御勘由来』

 比叡山には天台宗・真言宗の二宗、伝教大師習ひつたへ給ひしかども、天台円頓の円定・円慧・円戒の戒壇立つべきよし申させ給ひしゆへに、天台宗に対しては真言宗の名あるべからずとをぼして、天台法華宗の止観・真言とあそばして、公家へまいらせ給ひき。伝教より慈覚たまはらせ給ひし誓戒の文には、天台法華宗の止観・真言と正しくのせられて、真言宗の名をけづられたり。天台法華宗は仏立宗と申して仏より立てられて候。
『聖密房御書』

 去る弘仁九年の春の大旱魃ありき。嵯峨の天皇、真綱と申す下臣をもつて冬嗣のとり申されしかば、法華経・金光明経・仁王経をもつて伝教大師祈雨ありき。三日と申せし日、ほそきくも(細雲)、ほそきあめ(微雨)しづしづと下りしかば、天子あまりによろこばせ給ひて、日本第一のかたこと(難事)たりし大乗の戒壇はゆるされしなり。
『三三蔵祈雨事』

像法之末八百年に相当りて、伝教大師、和国に託生して華厳宗等の六宗之邪義を糺明するのみに非ず、加之、南岳・天台も未だ弘めたまはざる円頓の戒壇を叡山に建立す。日本一州之学者、一人も残らず大師の門弟と為る。但天台と真言との勝劣に於ては誑惑と知りて而も分明ならず。所詮、末法に贈りたまふか。此れ等は傍論たる之故に且く之を置く。吾が師伝教大師、三国に未だ弘まらざる之円頓の大戒壇を叡山に建立したまふ。此れ偏に上薬を持ち用て衆生の重病を治せんとする、是れ也。
『瀧泉寺申状』

日本国に去る聖武皇帝と孝謙天皇との御宇に、小乗の戒壇を三所に建立せり。其の後桓武の御宇に伝教大師之を破りたまひぬ。其の詮は、小乗戒は末代の機に当らずと云云。護命・景深の本師等其の諍論に負るるのみに非ず、六宗の碩徳各退状を捧げ、伝教大師に帰依し、円頓の戒壇を伝受す云云。其の状今に朽ちず。汝自ら開き見よ。
『行敏訴状御会通』

 桓武の御代に最澄法師、後には伝教大師とがうす。入唐已前に六宗を習ひきわむる上、十五年が間天台・真言の二宗を山にこもりゐて御覧ありき。入唐已前に天台宗をもつて六宗をせめしかば七大寺皆せめられて最澄の弟子となりぬ。六宗の義やぶれぬ。後延暦二十三年に御入唐、同じき二十四年御帰朝、天台・真言の宗を日本国にひろめたり。但し勝劣の事は内心に此れを存じて人に向てとかざるか。
『随自意御書』

 伝教大師は延暦二十三年の御入唐、霊感寺順暁和尚に真言三部の秘法を伝はり、仏瀧寺の行満座主に天台の宝珠をうけとり、顕密二道の奥旨をきわめ給ひたる人。華厳・三論・法相・律宗の人人の自宗我慢の辺執を倒して、天台大師に帰入せる由をかゝせ給ひて候。依憑集・守護章・秀句なむど申す書の中に、善無畏・金剛智・不空等は天台宗に帰入して智者大師を本師と仰ぐ由のせられたり。
『善無畏鈔』

 今之を案ずるに、日本小国の王となり、神となり給ふは、小乗には三賢の菩薩、大乗には十信、法華には名字五品の菩薩也。何なる氏神有りて無尽の功徳を修すとも、法華経の名字を聞かず、一念三千の観法を守護せずんば、退位の菩薩と成りて永く無間大城に沈み候べし。故に扶桑記に云く_又伝教大師奉為八幡大菩薩 於神宮寺自講法華経。乃聞畢大神託宣 我不聞法音久歴歳年。幸値遇和尚得聞正教。兼為我修種種功徳。至誠随喜。何足徳謝矣。兼有我所持法衣。即託宣主自開宝殿 手捧紫袈裟一・紫衣一。奉上和尚。大悲力故幸垂納受。是時禰宜祝等各歎異云 元来不見不聞如是奇事哉。此大神所施法衣 今在山王院〔又伝教大師、八幡大菩薩のおんために神宮寺に於て自ら法華経を講ず。乃ち聞き畢りて大神託宣すらく。我法音を聞かずして久しく歳年を歴る。幸ひ和尚に値遇して正教を聞くことを得たり。兼ねて我がために種種の功徳を修す。至誠随喜す。何ぞ徳を謝するに足らんや。兼ねて我が所持の法衣有りと。即ち託宣の主自ら宝殿を開きて、てずから紫の袈裟を一つ・紫の衣一つを捧げ、和尚に奉上す。大悲力の故に幸ひに納受を垂れたまへと。是の時に禰宜祝ねぎはぶり等おのおの歎異して云く 元来是の如きの奇事を聞かざる見ざる哉。此の大神の施したまふ所の法衣、今山王院にあるなり〕云云。
 今謂く八幡は人王第十六代応神天皇也。其の時は仏経無かりし。此に袈裟衣有るべからず。人王第三十欽明の治三十二年に神と顕れ給ひ、其れより已来弘仁五年まで禰宜・祝等次第に宝殿を守護す。何れの王の時、此の袈裟を納めけると意へし。而して禰宜等云 元来不見不聞等云云。此の大菩薩いかにしてか此の袈裟衣は持ち給ひけるぞ。不思議なり不思議なり。又欽明より已来弘仁五年に至るまでは王は二十二代、仏法は二百六十余年也。其の間に三論・成実・法相・倶舎・華厳・律宗・禅宗等の六宗七宗日本国に渡りて、八幡大菩薩の御前にして経を講ずる人々、其の数を知らず。又法華経を読誦する人も争でか無からん。又八幡大菩薩の御宝殿の傍には神宮寺と号して、法華経等の一切経を講ずる堂、大師より已前に是れあり。其の時定めて仏法を聴聞し給ひぬらん。何ぞ今始めて、我不聞法音久歴歳年等と託宣し給ふべきや。幾ばくの人々か法華経・一切経を講じ給ひけるに、何ぞ此の御袈裟・衣をば進らせ給はざりけるやらん。当に知るべし。伝教大師已前は法華経の文字のみ読みけれども、其の義はいまだ顕れざりけるか。
 去る延暦に十年十一月の中旬の頃、伝教大師比叡山にして、南都七大寺の六宗の碩徳十余人を奉請して法華経を講じ給ひしに、弘世・真綱等の二人の臣下此の法門を聴聞してなげいて云く_慨一乗之権滞 悲三諦之未顕〔一乗の権滞を慨き、三諦の未顕を悲しむ〕等云云。又云く_長幼摧破三有之結 猶未改歴劫之轍〔長幼三有の結を摧破して、猶未だ歴劫の轍を改めず〕等云云。
 其の後延暦二十一年正月十九日に高雄寺に主上行幸ならせ給ひて、六宗の碩徳と伝教大師と御召し合わせられて宗の勝劣を聞し食ししに、南都十四人皆口を閉ぢて鼻の如くす。後に重ねて怠状を捧げたり。其の状に云く_自聖徳弘化以降于今二百余年之間 所講経論其数多矣。彼此争理其疑未解。而此最妙円宗猶未闡揚〔聖徳の弘化よりこのかた今まで二百余年の間、講ずる所の経論其の数多し。彼此の理を争て其の疑未だ解けず。而るに此の最妙の円宗、猶未だ闡揚せず〕等云云。
 此れをもつて思ふに、伝教大師已前には法華経の御心いまだ顕れざりけるか。八幡大菩薩の不見不聞と御託宣有りけるは指す也、指す也。あきらか也、白也。
 法華経第四に云く_於我滅度後。能窃為一人。説法華経。乃至 当知是人。則如来使 乃至 如来則為。以衣覆之〔我が滅度の後、能く窃かに一人の為にも法華経を説かん。乃至 当に知るべし、是の人は則ち如来の使なり 乃至 如来則ち衣を以て之を覆いたもうべし。〕等云云。当来の弥勒仏は法華経を説き給ふべきゆへに、釈迦仏は大迦葉尊者を御使として衣を送り給ふ。又伝教大師の御使として法華経を説き給ふべきゆへに八幡大菩薩を使いとして衣を送り給ふか。又此の大菩薩は伝教大師已前には加水の法華経を服してをはしましけれども、先生の善根に依て大王と生れ給ひぬ。其の善根の余慶、神と顕れて此の国を守護し給ひけるほどに、今は先生の福の余慶も尽きぬ。正法の味も失ひぬ。謗法の者等国中に充満して年久しけれども、日本国の衆生に久しく仰がれてをわせし。大科あれども捨てがたくをぼしめし、老人の不孝の子を捨てざるが如くして天のせめに合ひ給ひぬるか。
『諌曉八幡抄』

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