弘法大師云く 第一大日経・第二華厳経・第三法華経と能く能く此の次第を案ずべし。仏は何なる経にか此の三部の経の勝劣を説き判じ給えるや。もし第一大日経・第二華厳経・第三法華経と説き給える経あるならば尤も然るべし。其の義なくんば甚だ以って依用し難し。法華経に云く_薬王今告汝我所説諸経 而於此経中 法華最第一〔薬王今汝に告ぐ 我が所説の諸経 而も此の経の中に於て 法華最も第一なり〕等云云。仏正しく諸経を挙げて其の中に於いて法華第一と説き給う。仏の説法と弘法大師の筆とは水火の相違なり。尋ね究むべき事也。
『祈祷鈔』
而るに弘法大師一人のみ、法華経を華厳・大日之二経に相対して於戯論盗人と為す。所詮、釈尊・多宝・十方の諸仏を以て盗人と称するか。末学等、眼を閉ぢて之を案ぜよ。
『曾谷入道殿許御書』
弘法大師は同じき延暦年中に御入唐、青龍寺の慧果に値ひ給ひて真言宗をならわせ給へり。御帰朝の後、一代の勝劣を判じ給ひけるには、第一真言・第二華厳・第三法華とかかれて候。此の大師は世間の人々はもつてのほかに重んずる人なり。但し仏法の事は申すにをそれあれども、もつてのほかにあらき(荒量)事どもはんべり。此の事をあらあらかんがへたるに、漢土にわたらせ給ひては、但真言の事相の印・真言計り習ひつたえて、其の義理をばくわしくもさはぐらせ給はざりけるほどに、日本にわたりて後、大に世間を見れば天台宗もつてのほかにかさみたりければ、我が重んずる真言宗ひろめがたかりけるかのゆへに、本日本国にして習ひたりし華厳宗をとりいだして法華経にまされるよしを申しけり。それも常の華厳宗に申すやうに申すならば人信ずまじとやをぼしめしけん。すこしいろをかえて、此れは大日経、龍猛菩薩の菩提心論、善無畏等の実義なりと大妄語をひきそへたりけれども、天台宗の人々いたうとがめ申す事なし。
『撰時抄』
弘法大師は神泉苑にして祈雨あるべきにてありし程に、守敏と申せし人すゝんで云く 弘法は下臈なり。我は上臈なり。まづをほせをかほるべしと申す。こう(請)に随ひて守敏をこなう。七日と申すには大雨下る。しかれども京中計りにて田舎にふらず。弘法にをほせつけられてありしかば、七日にふらず、二七日にふらず、三七日にふらざりしかば、天子我といのりて雨をふらせ給ひき。而るを東寺の門人等、我が師の雨とがうす。くはしくは日記をひいて習ふべし。
<中略>
弘法大師の三七日に雨下らずして候を、天子の雨を我が雨と申すは、又善無畏等よりも大にまさる失のあるなり。第一の大妄語には弘法大師の自筆に云く 弘仁九年の春、疫れいをいのりてありしかば、夜中に日いでたりと云云。かゝるそらごとをいう人なり。此の事は日蓮が門下第一の秘事なり。本分をとりつめ(取詰)ていうべし。
『三三蔵祈雨事』
又石淵の勤操僧正の御弟子に空海と云う人あり。後には弘法大師とがうす。去ぬる延暦二十三年五月十二日に御入唐、漢土にわたりては金剛智・善無畏の両三蔵の第三の御弟子慧果和尚といゐし人に両界を伝受、大同二年十月二十二日に御帰朝、平城天王の御宇なり。桓武天王は御ほうぎよ、平城天王に見参し、御用ひありて御帰依他にことなりしかども、平城ほどもなく嵯峨に世をとられさせ給ひしかば、弘法ひき入れてありし程に、伝教大師は嵯峨の天王弘仁十三年六月四日御入滅。同じき弘仁十四年より弘法大師、王の御師となり、真言宗を立て東寺を給ひ、真言和尚とがうし、此より八宗始る。
一代の勝劣を判じて云く 第一真言大日経・第二華厳・第三は法華涅槃等云云。法華経は阿含・方等・般若等に対すれば真実の経なれども、華厳経・大日経に望むれば戯論の法なり。教主釈尊は仏なれども、大日如来に向ふれば無明の辺域と申して皇帝と俘囚(えびす)とのごとし。天台大師は盗人なり。真言の醍醐を盗んで法華経を醍醐というなんどかゝれしかば、法華経はいみじとをもへども、弘法大師にあひぬれば物のかずにもあらず。天竺の外道はさて置きぬ。漢土の南北が法華経は涅槃経に対すれば邪見の経といゐしにもすぐれ、華厳宗が法華経は華厳経に対すれば枝末教と申せしにもこへたり。例せば彼の月氏の大慢婆羅門が大自在天・那羅延天・婆籔天・教主釈尊の四人を高座の足につくりて、其の上にのぼつて邪法を弘めしがごとし。伝教大師御存生ならば、一言は出されべかりける事なり。又義真・円澄・慈覚・智証等もいかに御不審はなかりけるやらん。天下第一の大凶なり。
<中略>
弘法大師は去る天長元年の二月大旱魃のありしに、先には守敏(しゅびん)祈雨して七日が内に雨を下す。但し京中にふりて田舎にそゝがず。次に弘法承取りて一七日に雨気なし、二七日に雲なし。三七日と申せしに、天子より和気の真綱を使者として御幣を神泉苑にまいらせたりしかば雨下る事三日。此をば弘法大師竝びに弟子等此の雨をうばひとり、我が雨として今に四百余年、弘法の雨という。
<中略>
弘法大師いかなる徳ましますとも、法華経を戯論の法と定め、釈迦仏を無明の辺域とかゝせ給へる御ふで(筆)は、智慧かしこからん人は用ふべからず。
<中略>
又六巻(涅槃経)に云く_仏告迦葉 我般涅槃 乃至 後是魔波旬漸当沮壊我之正法。乃至 化作阿羅漢身及仏色身 魔王以此有漏之形作無漏身壊我之正法 等云云。[p1235]
弘法大師は法華経を華厳経・大日経に対して戯論等云云。而も仏身を現ず。此涅槃経には魔有漏の形をもつて仏となつて我正法をやぶらんと記し給ふ。
<中略>
弘法大師は仏身を現じて華厳経・大日経に対して法華経は戯論等云云。仏説まことならば弘法は天魔にあらずや。
『報恩抄』
大日経は法華経より劣る事七重也。而るを弘法等、顛倒して大日経最第一と定めて日本国に弘通せるは、法華経一分の乳に大日経七分の水を入れたる也。水にも非ず乳にも非ず、大日経にも非ず、法華経にも非ず。而も法華経に似たり、大日経に似たり。
大覚世尊是れを集めて涅槃経に記して云く_於我滅後○正法将欲滅尽。爾時多有行悪比丘。乃至 如牧牛女為欲売乳貪多利故。加二分水。乃至 此乳多水。○爾時是経於閻浮提当広流布。是時当有諸悪比丘鈔略是経分作多分能滅正法色香美味。是諸悪人雖復読誦如是経典滅除如来深密要義 乃至 安置世間荘厳文飾無義之語。鈔前著後鈔後著前前後著中中著前後。当知如是諸悪比丘是魔伴侶〔我が滅後に於て○正法将に滅尽せんと欲せんとす。爾時に多く悪を行ずる比丘有らん。乃至 牧牛女の如く乳を売るに多く利を貪らんと欲するをもつての故に。二分の水を加ふ。乃至 此の乳、水を多し。○爾の時に、是の経、閻浮提に於て当に広く流布すべし。是の時当に諸の悪比丘有って、是の経を鈔略し、分けて多分と作し、能く正法の色香美味を滅すべし。是の諸の悪人、復是の如き経典を読誦すと雖も、如来の深密の要義を滅除せん 乃至 前を鈔して後に著け、後を鈔して前に著け、前後を中に著け、中を前後に著く。当に知るべし、是の如きの諸の悪比丘は是れ魔の伴侶なり〕等云云。
『諌曉八幡抄』
第四の巻に云く_薬王今告汝我所説諸経 而於此経中 法華最第一〔薬王今汝に告ぐ 我が所説の諸経 而も此の経の中に於て 法華最も第一なり〕[文]。此の文の意は霊山会上に薬王菩薩と申せし菩薩に仏告げて云く、始め華厳より終り涅槃経に至るまで無量無辺の経恒河沙等の数多し。其の中には今の法華経最第一と説かれたり。然るを弘法大師は一の字を三と読まれたり。
<中略>
同じく第五巻には、最在其上と宣べて大日経・金剛頂経等の無量の経の頂に此の経は有るべしと説かれたるを、弘法大師は最在其下と謂へり。釈尊と弘法と、法華経と宝鑰とは実に以て相違せり。釈尊を捨て奉りて弘法に付くべき歟。又、弘法を捨てゝ釈尊に付き奉るべき歟。又、経文に背ひて人師の言に随ふべき歟。人師の言を捨てゝ金言を仰ぐべき歟。用捨、心に有るべし。
『聖愚問答鈔』
弘法大師は又此れ等にはにるべくもなき僻人なり。所謂法華経は大日経に劣るのみならず、華厳経等にもをとれり等云云。而るを此の邪義を人に信ぜさせんために、或は大日如来より写瓶せりといゐ、或は我まのあたり霊山にしてきけりといゐ、或は師の慧果和尚の我をほめし、或は三鈷をなげたりなんど申す種種の誑言をかまへたり。愚かな者は今信をとる。
『破良観等御書』
教主釈尊は法華経をば「世尊法久後要当説真実」。多宝仏は「妙法蓮華経皆是真 実」。十方分身の諸仏は「舌相至梵天」とこそ見て候に、弘法大師は法華経をば戯論の法と被書たり。釈尊、多宝、十方の諸仏は「皆是真実」と被説て候。いづれをか信じ候べき。
『頼基陳状』
弘法大師は法華最第一の角を最第三となをし、一念三千、久遠実成、即身成仏は法華に限れり、是をも真言経にありとなをせり。かゝる謗法の族を責んとするに返て弥怨をなし候。
『大白牛車書』
而るを弘法大師と申す天下第一の自讃毀多の大妄語の人、教大師御入滅の後、対論なくして公家をかすめたてまつりて八宗と申し立てぬ。
『下山御消息』
弘法大師の邪義は中中顕然なれば、人もたぼらかされぬ者もあり。
『曾谷入道殿御書』
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