唱題(南無妙法蓮華経)の意義について

末代濁悪世の愚人は、念仏等の難行・易行等をば抛ちて、一向に法華経の題目を南無妙法蓮華経と唱へ給ふべし。

『善無畏三蔵鈔』

 問て云く 一文不通の愚人、南無妙法蓮華経と唱へては何の益か有らんや。
 答ふ 文盲にして一字を覚悟せざる人も信を至して唱へたてまつれば、身口意の三業の中には先づ口業の功徳を成就せり。若し功徳成就すれば仏の種子をむねの中に収めて必ず出離の人と成る為り。

『總在一念鈔』

念仏は多けれども仏と成る道にはあらず。戒は持てども浄土へまひる種とは成らず。但南無妙法蓮華経の七字のみこそ仏になる種には候へ。

『九郎太郎殿御返事』

南無妙法蓮華経と申は法華経の中の肝心、人の中の神のごとし。
<中略>
今末法に入ぬれば余経も法華経もせん(詮)なし、但南無妙法蓮華経なるべし

『上野殿御返事』

法華経の行者を諸の菩薩・人天・八部等、二聖・二天・十羅刹等、千に一つも来たりてまもり給わぬ事侍らば、上は釈迦諸仏をあなずり奉り、下は九界をたぼらかす失あり。行者は必ず不実なりとも智慧はおろかなりとも、身は不浄なりとも、戒徳は備えずとも南無妙法蓮華経と申さば必ず守護したもうべし

『祈祷鈔』

 南無妙法蓮華経と申す事は唱へがたく、南無阿弥陀仏、南無薬師如来なんど申す事は唱へやすく、又文字の数の程も大旨は同じけれども、功徳の勝劣は遥かに替わりて候也。

『題目弥陀名号勝劣事』

法華経を行ずる人の一口は南無妙法蓮華経、一口は南無阿弥陀仏なんど申は、飯に糞を雑へ 沙石を入たるが如し。法華経の文に、「但楽受持大乗経典乃至不受余経一偈」等と説は是也。

『秋元殿御書(筒御器鈔)』

諸病之中には法華経を謗ずるが第一の重病也。諸薬之中には南無妙法蓮華経は第一の良薬也。

『法華取要抄』

釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す。我等、此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与えたもう
『観心本尊抄』

此法華経の本門の肝心妙法蓮華経は、三世の諸仏の万行万善の功徳を集めて五字となせり
『教行証御書』

妙法蓮華経の五字は一部八巻二十八品の肝心にあらずや。
<中略>
南無妙法蓮華経と申せば、南無阿弥陀仏の用も南無大日真言の用も、観世音菩薩の用も一切の諸仏諸経諸菩薩の用、皆悉く妙法蓮華経の用に失はる。
<中略>
南無妙法蓮華経は万年の外未来までもながるべし。日本国の一切衆生の盲目をひらける功徳あり。無間地獄の道をふさぎぬ。此功徳は伝教天台にも超へ、龍樹・迦葉にもすぐれたり。
『報恩抄』

所謂、諸仏の誠諦得道の最要は只是れ妙法蓮華経の五字也。檀王の宝位を退き龍女が蛇身を改めしも、只此の五字の致すところ也。
<中略>
只、南無妙法蓮華経とだにも唱へ奉らば、滅せぬ罪や有るべき、来らぬ福(さいはひ)や有るべき。真実也。甚深也。是れを信受すべし。
<中略>
 法華一部の功徳は只妙法等の五字の内に籠もれり
『聖愚問答鈔』

彼の大集経の白法隠没の時は第五の五百歳当世なる事は疑ひなし。但し彼の白法隠没の次には法華経の肝心たる南無妙法蓮華経の大白法の、一閻浮提の内八万の国あり、其の国々に八万の王あり、王々ごとに臣下竝びに万民までも、今日本国に弥陀称名を四衆の口々に唱ふるがごとく広宣流布せさせ給ふべきなり。
 問て云く 其の証文如何。
 答て云く 法華経の第七に云く_我滅度後。後五百歳中。広宣流布。於閻浮提。無令断絶〔我が滅度の後後の五百歳の中、閻浮提に広宣流布して、断絶して〕等云云。経文は大集経の白法隠没の次の時を説かせ給ふに、広宣流布と云云。
<中略>
正像二千年の大王よりも、後世ををもはん人々は、末法の今の民にてこそあるべけれ。此れを信ぜざらんや。彼の天台の座主よりも南無妙法蓮華経と唱ふる痴人とはなるべし。
『撰時抄』

仏教を信ぜぬ悪人外道はさておき候ぬ。仏教の中に入り候ても爾前権教の念仏等を厚く信じて、十遍・百遍・千遍・一万乃至六万等を一日にはげみて、十年二十年の間にも南無妙法蓮華経と一遍だにも申さぬ人々は、先判について後判をもちいぬ者にては候まじきか。此れ等は仏説を信じたりげには我が身も一も思いたりげに候えども、仏説の如くならば不幸の者也。
<中略>
たとい爾前の経につかせ給いて、百千万億劫行ぜさせ給うとも、法華経を一遍も南無妙法蓮華経と申させ給わずは、不孝の人たる故に三世十方の聖衆にもすてられ、天神地祇にもあだまれ給わん歟是れ一。
『南条兵衛七郎殿御書』

法華経を信ずる人は、かまへてかまへて法華経のかたきををそれさせ給へ。念仏者と持斉と真言師と、一切南無妙法蓮華経と申さざらん者をば、いかに法華経をよむとも法華経のかたきとしろしめすべし。かたきをしらねばかたきにたぼら(誑)かされ候ぞ。
『光日房御書』

 しかるに目連尊者と申す人は法華経と申す経にて正直捨方便とて、小乗の二百五十戒立ちどころになげすてゝ南無妙法蓮華経と申せしかば、やがて仏になりて名号をば多摩羅跋栴檀香仏と申す。此の時こそ父母も仏になり給へ。
『盂蘭盆御書』

檀戒等の五度をを制止して一向に南無妙法蓮華経と称せしむるを一念信解初随喜之気分と為す也。是れ則ち此の経の本意也
<中略>
 問ふ 汝の弟子、一分の解りなくして但一口に南無妙法蓮華経と称する其の位如何。
 答ふ 此の人は但四味三経の極意竝びに爾前の円人に超過するのみに非ず、将た又真言等の諸宗の元祖、畏・厳・恩・蔵・宣・摩・導等に勝出すること百千万億倍也。請ふ、国中の諸人、我が末弟等を軽んずること勿れ。進んで過去を尋ぬれば、八十万億劫供養せし大菩薩也。
『四信五品抄』

 願はくは_現世安穏。後生善処〔現世安穏にして後に善処に生じ〕の妙法を持つのみこそ、只今生の名聞後生の弄引なるべけれ。須らく心を一にして南無妙法蓮華経と我も唱へ、他をも勧めんのみこそ、今生人界の思い出なるべき。
『持妙法華問答鈔』

法華経に云く_世尊法久後 要当説真実〔世尊は法久しゅうして後 要ず当に真実を説きたもうべし〕とは、念仏等の不真実に対し、南無妙法蓮華経を真実と申す文也。
『六郎恒長御消息』

 然れば久遠実成の釈尊と皆成仏道の法華経と我等衆生との三は全く差別無しと解りて、妙法蓮華経と唱へ奉る処を、生死一大事の血脈とは云ふ也。
 此の事、但、日蓮が弟子檀那等の肝要也。法華経を持つとは是れ也。所詮、臨終、只今にありと解りて、信心を致して南無妙法蓮華経と唱ふる人を、是人命終。為千仏授手。令不恐怖。不堕悪趣〔是の人命終せば、千仏の手を授けて、恐怖せず悪趣に堕ちざらしめたもうことを為す〕と説かれて候。悦ばしい哉、一仏二仏に非ず、百仏二百仏に非ず、千仏まで来迎し手を取り給はん事、歓喜の感涙押さへ難し。
『生死一大事血脈鈔』

万民一同に南無妙法蓮華経と唱へ奉らば、吹く風枝をならさず、雨土くれ(壞)をくだかず、代はぎのう(義農)の世となりて、今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人、法共に不老不死の理を顕さん時を各各御らん(覧)ぜよ。
<中略>
南無妙法蓮華経と唱へて、唱へ死にしぬ(死)るならば、釈迦、多宝、十方の諸仏、霊山会上にして御契約なれば、須臾のほどに飛び来りて、手をとりかたに引きかけて霊山へはしり参り給はば、二聖、二天、十羅刹女は受持の者をおうごし、諸天善神は天蓋をさし、旛を上げて我等を守護して、たしかに寂光の宝刹へ送り給ふべきなり。あらうれしや、あらうれしや。
『如説修行鈔』

 法華経の第五に云く_諸天昼夜。常為法故。而衛護之〔諸天昼夜に常に法の為の故に而も之を衛護し〕。経文の如くば南無妙法蓮華経と申す人をば大梵天・帝釈・日月・四天等、昼夜に守護すべしと見えたり。
『諌曉八幡抄』

此経を持ん人は難に値べしと心得て持つ也。「則為疾得無上仏道」は疑なし。三世の諸仏の大事たる南無妙法蓮華経を念ずるを、持とは云也。
『四条金吾殿御返事』

真実一切衆生色心の留難を止むる秘術は、唯南無妙法蓮華経なり。
『四条金吾殿御返事』

法華経一部の肝心は南無妙法蓮華経の題目にて候。朝夕御唱へ候はば、正く法華経一部を真読にあそばすにて候。二返唱ふるは二部、乃至百返は百部、千返は千部、加様に不退に御唱へ候はば、不退に法華経を読人
にて候べく候。
『妙法尼御前御返事』

妙法蓮華経の御本尊供養候ぬ。此曼陀羅は、文字は五字七字にて候へども、三世諸仏の御師、一切の女人の成仏の印文也。冥途にはともしびとなり死出の山にては良馬となり、天には日月の如し地には須弥山の如し。生死海の船也、成仏得度の導師也。
<中略>
末代の一切衆生はいかなる大医いかなる良薬を以てか治すべきとかんがへ候へば、大日如来の智拳印並に大日の真言、阿弥陀如来の四十八願、薬師如来の十二大願、衆病悉除の誓も此薬に及ぶべからず。つやつや病消滅せざる上いよいよ倍増すべし。此等の末法の時のために教主釈尊多宝如来、十方分身の諸仏を集させ給て一の仙薬をとどめ給へり。所謂妙法蓮華経の五の文字也
『妙法曼荼羅供養事』

 経に云く_諸仏智慧。甚深無量〔諸仏の智慧は甚深無量なり〕云云。此の経文に諸仏とは十方三世の一切諸仏、真言宗の大日如来、浄土宗の阿弥陀、乃至諸宗・諸経の仏菩薩、過去未来現在の總諸仏、現在の釈迦如来等を諸仏と説き挙げて、次に智慧といへり。此の智慧とはなにものぞ、諸法実相十如果成の法体也。其の法体とは又なにものぞ、南無妙法蓮華経、是れ也。
『四条金吾殿御返事』

無一不成仏と申して南無妙法蓮華経と只一反申せる人一人として仏にならざるはなしととかせ給ひて候。
『南條殿御返事』

若然者貴賎上下をえらばず南無妙法蓮華経ととなうるものは、我身宝塔にして我身又多宝如来也。妙法蓮華経より外に宝塔なきなり。法華経の題目宝塔なり、宝塔又南無妙法蓮華経也。
『阿仏房御書』

法華経一部の肝心は南無妙法蓮華経の題目にて候。
『妙法尼御前御返事』

南無妙法蓮華経と唱ふる人は煩悩、業、苦の三道、法身、般若、解脱の三徳と転じて、三観、三諦即一心に顕れ、其の人の所住之処は常寂光土なり。
『当体義鈔』

 しかれば故聖霊、最後臨終に南無妙法蓮華経と唱へさせ給ひしかば、一生乃至無始の悪業変じて仏の種となり給ふ。煩悩即菩提、生死即涅槃即身成仏と申す法門なり。
『妙法尼御前御返事』

一身凡夫にて候へども、口に南無妙法蓮華経と申せば如来の使に似たり。
『四條金吾殿御返事』

法華経の極理南無妙法蓮華経の七字を、始めて持たん日本国の弘通の始めならん人の、弟子檀那とならん人々の大難の来たらん事をば、言をもて尽くし難し、心をもておしはかるべしや。
『兄弟鈔』

法華経の題目は一切経の神、一切経の眼目也。
『曾谷殿御返事』

今末法は南法妙法蓮華經の七字を弘めて利生得益あるへき時也。されは此題目には餘事を交へは僻事なるへし
『御講聞書目録』

コメント

タイトルとURLをコピーしました