法華題目抄 文永三年(1266) 根本大師門人 日蓮 撰
南無妙法蓮華経
問て云く 法華経の意もしらず、義理をもあじわわずして、只南無妙法蓮華経と計り五字七時に限って一日に一遍、一月乃至一年十年一期生の間に只一遍なんど唱えても、軽重の悪にひかれずして四悪趣におもむかず、ついに不退の位にいたるべしや。
答て云く しかるべき也。
問て云く 火火といえども手にとらざればやけず、水水といえども口にのまざれば水のほしさもやまず。只南無妙法蓮華経と題目ばかりを唱うとも義趣をさとらずば悪趣をまぬがれん事いかがあるべかるらん。
答て云く 師子の筋を琴の絃として一度奏すれば、余の絃悉くきれ、梅子のすき声をきけば口につ(唾)たまりうるをう。世間の不思議是の如し、況んや法華経の不思議をや。小乗の四諦の名計りをさやずる鸚鵡なお天に生ず。三帰計りを持つ人大魚の難をまぬかる。何に況んや法華経の題目は八万聖教の肝心一切諸仏の眼目なり。汝等此れをとなえて四悪趣をはなるべからずと疑うか。正直捨方便の法華経には以信得入と云い、雙林最期の涅槃経には_是菩提因雖復無量若説信心則已摂尽〔是の菩提の因は復無量なりと雖も、若し信心を説けば則ち已に摂尽す〕等云云。
夫れ仏道に入る根本は信をもて本とす。五十二位の中には十信を本とす。十信の位には信心初め也。たといさとりなけれども信心あらん者は鈍根も正見の者也。たといさとりあれども信心なき者は誹謗闡提の者也。善星比丘は二百五十戒を持て四禅定を得、十二部経を諳にせし者也。提婆達多は六万八万の宝蔵をおぼえ十八変を現ぜしかども、此れ等は有解無信の者也。今に阿鼻大城にありと聞く。又鈍根第一の須梨槃特は智慧もなく悟りもなし。只一念の信ありて普明如来と成り給う。又迦葉・舎利弗等は無解有信の者也。仏に授記を蒙って華光如来・光明如来といわれき。仏説いて云く_生疑不信者即当堕悪道〔疑いを生じて信ぜざらん者ば即ち当に悪道に堕すべし〕等云云。此れ等は有解無信の者を皆悪道に堕すべしと説き給いし也。
而るに今の代の世間の学者の云く 只信心計りにて解心なく南無妙法蓮華経と唱うる計りにて争でか悪趣をまぬかるべき等云云。此の人々は経文の如くならば阿鼻大城をまぬかれがたし。さればさせる解なくとも、南無妙法蓮華経と唱うるならば悪道をまぬかるべし。
譬えば蓮華は日に随って回る、蓮に心なし。芭蕉は雷によりて増長す、是の草に耳なし。我等は蓮華と芭蕉との如く、法華経の題目は日輪と雷との如し。犀の生角を身に帯して水に入りぬれば、水五尺身に近づかず。栴檀の一葉開きぬれば、四十由旬の伊蘭変ず。我等が悪業は伊蘭と水との如く、法華経の題目は犀の生角と栴檀の一葉との如し。金剛は堅固にして一切の物に破られざれども、羊の角と亀の甲に破らる。尼倶類樹は鵬にも枝おれざれども、か(蚊)のまつげにすくうせうれう鳥(鷦鷯鳥)にやぶらる。我等が悪業は金剛のごとし、尼倶類樹のごとし。法華経の題目は羊角のごとく、せうれう鳥の如し。琥珀は塵をとり磁石は鉄をすう。我等が悪業は塵と鉄との如く、法華経の題目は琥珀と磁石との如し。かくおもいて常に南無妙法蓮華経と唱えさせ給うべし。
法華経の第一巻に云く_無量無数劫 聞是法亦難〔無量無数劫にも 是の法を聞くこと亦難し〕。第五の巻に云く_是法華経。於無量国中。乃至名字。不可得聞〔是の法華経は無量の国の中に於て、乃至名字をも聞くことを得べからず〕等云云。法華経の御名をきく事はおぼろげにもありがたき事なり。
されば須仙多仏・多宝仏はよにいでさせ給いたりしかども法華経の御名をだにもとき給わず。釈迦如来は法華経のために世にいでさせ給いたりしかども、四十二年が間は名を秘してかたりいださざ利子門も、仏の御年七十二と申せし時はじめて妙法蓮華経ととなえいださせ給いたりき。しかりといえども摩訶尸那日本等の辺国の者は御名をもきかざりき。一千余年すぎて三百五十余年に及んでこそ纔かに御名計りをば聞きたりしか。
さればこの経に値いたてまつる事をば三千年に一度花さく優曇華、無量無辺功に一度値うなる一眼の亀にもたとえたり。大地の上に針を立てて大梵天王宮より芥子をなぐるに、針のさきに芥子のつらぬかれたるよりも法華経の題目に値うことはかたし。此の須彌山に針を立ててかの須彌山より大風のつよく吹く日いとをわたさんに、いたりてはりの穴にいとのさきにいりたらんよりも法華経の題目に値い奉る事かたし。
さればこの経の題目を唱えさせ給わんにはおぼしめすべし。生盲の始めて眼あきて父母等をみんよりもうれしく、強きかたきにとられたる者のゆるされて妻子を見るよりもめずらしとおぼすべし。
問て云く 題目計りを唱うる証文これありや。
答て云く 妙法蓮華経の第八に云く_受持法華名者。福不可量〔法華の名を受持せん者~福量るべからず〕。正法華経に云く_若聞此経宣持名号徳不可量〔若し此の経を聞いて名号を宣持せば徳量るべからず〕。添品法華経に云く_受持法華名者。福不可量〔法華の名を受持せん者~福量るべからず〕。
此れ等の文は題目計りを唱うる福計るべからずとみえぬ。一部八巻二十八品を受持読誦し随喜護持等するは広也。方便品・寿量品等を受持し乃至護持するは略也。但一四句偈乃至題目計りを唱うる者を護持するは要也。広・略・要の中には題目は要の内なり。
問て云く 妙法蓮華経の五字にはいくばくの功徳をおさめたるや。
答て云く 大海は衆流を納め、大地は有情非情を持ち、如意宝珠は萬宝を雨らし、梵王は三界を領す。妙法蓮華経の五字も亦復是の如し。一切の九界の衆生竝びに仏界を納めたり。十界を納むれば亦十界の依報の国土を収む。
先ず妙法蓮華経の五字に一切の法を納むる事をいわば、経の一字は諸経の中の王也。一切の群経を納む。
仏世に出させ給いて五十余年の間八万聖教を説きおかせ給いき。仏は人寿百歳の時、壬申の歳、二月十五日の夜半に御入滅あり。その後四月八日より七月十五日に至るまで一夏九旬の間一千人の阿羅漢結集堂にあつまりて、一切経をかきおかせ給いき。
其の後正法一千年の間は五天竺に一切経ひろまらせ給いしかども、震旦国には渡らず。像法に入って一十五年と申せしに、後漢の孝明皇帝永平十年丁卯の歳、仏経始めて渡って、唐の玄宗皇帝開元十八年庚午の歳に至るまで渡れる訳者一百七十六人、持ち来る経論律一千七十六部・五千四十八巻・四百八十秩。是れ皆法華経の経の一字の眷属の修多羅也。
先ず妙法蓮華経の以前、四十余年の間の経の中に大方広仏華厳経と申す経まします。龍宮城には三本あり。上品は十三世界微塵の品、中本は四十九億一万八千八百偈一千二百品、下本は十万偈四十八品。此の三本の外に震旦・日本には僅かに八十巻・六十巻・四十巻等あり。阿含小乗経・方等般若の諸大乗経等。大日経は梵本には阿・・訶・{あばらかきゃ}アバラカキャ{梵字}の五字計りをもて三千五百の偈をむすべり。況んや余の諸尊の種子尊形三摩耶其の数をしらず。而るに漢土には但纔かに六巻七巻也。涅槃経は雙林最期の説、漢土には但四十巻也。是れも梵本之多し。此れ等の諸経は皆釈迦如来の諸説の法華経の眷属の修多羅也。此の外過去の七仏千仏・遠々劫の諸仏の諸説、現在十方の諸仏の諸経も皆法華経の経の一字の眷属也。
されば薬王品に宿王華菩薩に対して云く_譬如一切。川流江河。諸水之中。海為第一。衆山之中。須弥山為第一。衆星之中。月天子。最為第一〔譬えば一切の川流江河の諸水の中に、海為れ第一なるが如く ~衆山の中に、須弥山為れ第一なるが如く ~ 衆星の中に月天子最も為れ第一なるが如く〕等云云。妙楽大師の云く ̄已今当説最為第一等云云。
此の経の一字の中に十方法界の一切経を納めたり。譬えば如意宝珠の一切の財を納め、虚空の万象を含めるが如し。経の一字は一代に勝る。故に妙法蓮華の四字も又八万宝蔵に超過するなり。妙とは法華経に云く_開方便門。示真実相〔方便の門を開いて真実の相を示す〕云云。章安大師云く ̄発秘密之奥蔵称之為妙〔秘密之奥蔵を発き之を称して妙と為す〕云云。妙楽大師此の文を受けて云く ̄発者開也〔発とは開なり〕等云云。妙と申す事は開と云う事也。世間に財を積める蔵に鑰なければ開く事かたし。開かざれば蔵の内の財を見ず。華厳経は仏説き給いたりしかども、彼の経を開く鑰をば仏彼の経に説き給わず。阿含・方等・般若・観経等の四十余年の経々も仏説き給いたりしかども、彼の経々の意をば開き給わず、門を閉じておかせ給いたりしかば、人彼の経々をさとる者一人もなかりき。たといさとれりと思いしも僻見にてありし也。
而るに仏法華経を説かせ給いて諸経の蔵を開かせ給いき。此の時に四十余年の九界の衆生始めて諸経の蔵の内の財をば見しりたりし也。譬えば大地の上に人畜草木等あれども、日月の光なければ眼ある人も人畜草木の色かたちをしらず。日月いで給いてこそ始めてこれをばしることには候え。爾前の諸経は長夜のやみのごとし、法華経の本迹二門は日月のごとし。諸の菩薩の二目ある、二乗の眇目なる、凡夫の盲目なる、闡提の生盲なる、共に爾前の経々にてはいろかたちをばわきまえずありし程に、法華経の時迹門の月輪始めて出給いし時、菩薩の両眼先にさとり、二乗の眇目次にさとり、凡夫の盲目次に開き、生盲の一闡提も未来に眼の開くべき縁を結ぶ事、是れ偏に妙の一字の徳也。迹門十四品の一妙、本門十四品の一妙、会わせて二妙。迹門の十妙、本門の十妙、合わせて二十妙。迹門の三十妙、本門の三十妙、合わせて六十妙。迹門の四十妙、本門の四十妙、観心の四十妙、合わせて百二十重の妙也。六万九千三百八十四字、一々の字の下に一の妙あり。総じて六万九千三百八十四の妙あり。妙とは天竺には薩と云い、漢土には妙と云う。妙とは具の義也。具とは円満の義也。法華経の一々の文字、一字一字に余の六万九千三百八十四字を納めたり。譬えば大海の一・{いったい}の水に一切の河の水を納め、一の如意宝珠の芥子計りなるが一切の如意宝珠の財を雨らすが如し。
譬えば秋冬枯れたる草木の、春夏の日に値いて枝葉華菓出来するが如し。爾前の秋冬の草木の如くなる九界の衆生、法華経の妙の一字の春夏の日輪に値いたてまつりて、菩提心の華さき成仏の菓なる。
龍樹菩薩の大論に云く ̄譬如大薬師能以毒為薬〔譬えば大薬師の能く毒を以て薬と為すが如し〕と云云。此の文は大論に法華経の妙の徳を釈する文也。妙楽大師の釈に云く ̄難治能治所以称妙〔治し難きを能く治す。所以に妙と称す〕等云云。
総じて成仏往生のなり難き者四人あり。第一には決定性の二乗・第二には一闡提人・第三には空心の者・第四には謗法の者也。此れ等を法華経において仏になさせ給う故に法華経を妙とは云う也。
提婆達多は斛飯王の第一の太子、浄飯王にはおい、阿難尊者がこのかみ、教主釈尊にはいとこに当たる、南閻浮提にかろからざる人なり。須陀比丘を師として出家し、阿難尊者に十八変をならい、外道の六万蔵・仏の八万蔵を胸にうかべ、五法を行じて殆ど仏よりも尊きけしきなり。両頭を立てて破僧罪を犯さんがために象頭山に戒壇を築き、仏弟子を招し取り、阿闍世太子をかたらいて云く 我は仏を殺して新仏となるべし。太子は父の王を殺して新王となり給え。阿闍世太子すでに父の王を殺せしかば提婆達多又仏をうかがい、大石をもちて仏の御身より血をいだし、阿羅漢たる華色比丘尼を打ちころし、五逆の内たる三逆をつぶさにつくる。其の上瞿伽梨尊者を弟子とし、阿闍世王を檀那とたのみ、五天竺十六の大国・五百の中国等の一逆二逆三逆等をつくれる者は皆提婆達多が一類にあらざる事これなし。譬えば大海の諸河をあつめ、大山の草木をあつめたるがごとし。智慧の者は舎利弗にあつまり、神通の者は目連にしたがい、悪人は提婆にかたらいしなり。
されば厚さ十六万八千由旬、其の下に金剛の風輪ある大地すでにわれて、生身に無間大城に堕ちにき。第一の弟子瞿伽梨も又生身に地獄に入る。旃遮婆羅門女もおちにき。波瑠璃王もおちぬ。善星比丘もおちぬ。此れ等の人々の生身に堕ちしをば五天竺十六の大国・五百の中国・十千の小国の人々も皆これをみる。六欲・四禅・色・無色・梵王・帝釈・第六天の魔王も閻魔法王等も皆御覧ありき。三千大千世界十方法界の衆生も皆聞きし也。
されば大地微塵劫はすぐとも無間大城を出づべからず。劫石はひすらぐとも阿鼻大城の句はつきじとこそ思い合いたりしに、法華経の提婆達多品にして、教主釈尊の昔の師天王如来と記し給う事こそ不思議にはおぼゆれ。爾前の経々実ならば法華経は大妄語、法華経実ならば爾前の諸経は大虚誑罪也。提婆が三逆罪を具に犯して、其の外無量の重罪を作りしも、天王如来となる。況んや二逆一逆等の諸の悪人の得道疑いなき事、譬えば大地をかえすに草木等のかえるがごとく、堅石をわる者軟草をわるが如し。故に此の経をば妙と云う也。女人をば内外典に是れをそしり、三皇五帝の三墳五典にも諂曲者と定む。
されば災いは三女より起こると云えり。国の亡び人の損ずる源は女人を本とす。内典の中には初成道の大法たる華厳経には_女人地獄使。能断仏種子。外面似菩薩。内心如夜叉〔女人は地獄の使いなり。能く仏の種子を断つ。外面は菩薩に似て、内心は夜叉の如し〕[文]。雙林最後の大涅槃経には_一切江河必有回曲。一切女人必有諂曲〔一切の江河必ず回曲有り。一切の女人必ず諂曲有り〕[文]。又云く_所有三千界男子諸煩悩合集為一人女人業障〔あらゆる三千界の男子の諸の煩悩合集して一人の女人の業障と為る〕等云云。大華厳経の文に_能断仏種子と説かれて候は、女人は仏になるべき種子をい(焦)れり。
譬えば大旱魃の時、虚空の中に大雲おこり大雨を大地に下すに、かれたるが如くなる無量無辺の草木花さき菓なる。然りと雖もいりたる種はおいずして、結句雨しげければくちうするが如し。仏は大雲の如く、説教は大雨の如く、かれたるが如くなる草木を一切衆生に譬えたり。仏経の雨に潤って五戒・十善・禅定等の功徳を得るは花さき菓なるが如し。雨ふれども、いりたる種のおいずして、かえりてくちうするは、女人の仏教に遇えども、生死をはなれずして、かえりて仏教を失い悪道に堕ちるに譬う。是れを能断仏種子とは申す也。
涅槃経の文に、一切の江河のまがれるが如く女人も又まがれりと説かれたるは、水はやわらかなる物なれば、石山なんどのこわき物にさえられて水のさきひるむゆえに、かしこここへ行く也。女人も又是の如し。女人の心をば水に譬えたり。心よわくして水の如く也。道理と思う事も男のこわき心に値いぬればせかれてよしなき方へおもむく。又水にえがくにとどまらざるが如し。女人は不信を体とするゆえに、只今さあるべしと見る事も、又しばらくあればあらぬさまになるなり。仏と申すは正直を本とす。故にまがれる女人は仏になるべきにあらず。五障三従と申して、五つのさわり、三つしたがう事あり。されば銀色女経には、三世諸仏の眼は大地に落つとも女人は仏になるべからずと説かれ、大論には、清風はとると云えども女人の心はとりがたしと云えり。
此の如く諸経に嫌われたりし女人を文殊師利菩薩の妙の一字を説き給いしかば忽ちに仏になりき。あまりに不審なりし故に、宝浄世界の多宝仏の第一の弟子智積菩薩・釈迦如来の御弟子の智慧第一の舎利弗尊者、四十余年の大小乗経の意をもって龍女の仏になるまじき由を難ぜしかども、終にかなわずして仏になりにき。初成道の能断仏種子も雙林最後の一切江河必有回曲の文も破れぬ。銀色女経竝びに大論の亀鏡も空しくなりぬ。又智積・舎利弗は舌を巻き口を閉じ、人天大会は歓喜のあまりに掌を合わせたりき。是れ偏に妙の一字の徳也。此の南閻浮提の内に二千五百の河あり。一々に皆まがれり。南閻浮提の女人心のまがれるが如し。但し娑婆耶と申す河あり。縄を引きはえ(延)たるが如くして直に西海に入る。法華経を信ずる女人も亦復是の如く、直に西方浄土へ入るべし。是れ妙の一字の徳也。妙とは蘇生の義也。蘇生と申すはよみがえる義也。
譬えば黄鵠の子しせるに、鶴の母子安となけば死せる子還って活えり、鴆鳥水に入らば魚蚌悉く死す、犀の角これにふるれば死せる者皆よみがえるが如く、爾前の経々にて仏種をいりて死せる二乗闡提女人等の、妙の一字を持ちぬればいれる仏種も還って生ずるが如し。天台云く ̄闡提有心猶可作仏。二乗滅智心不可生。法華能治所以称妙〔闡提は心有り猶お作仏すべし。二乗は智を滅す、心生ずべからず。法華は能く治す、所以に妙と称す〕云云。妙楽云く ̄但名大不名妙者 一有心易治無心難治 難治能治所以称妙〔但大と名づけて妙と名づけざるは、一には有心は治し易く無心は治し難し、治し難きを能く治す所以に妙と称す〕等云云。
此れ等の文の心は大方広仏華厳経・大集経・大般若経・大涅槃経等は題目に大の字のみありて妙の字なし。但生者を治して死せる者をば治せず。法華経は死せる者をも治す。故に妙と云う釈也。
されば諸経にしては仏になるべき者も仏にならず。法華は仏になりがたき者すら尚お仏になりぬ。仏になりやすき者は云うにや及ぶと云う道理立ちぬれば、法華経をとかれて後は諸経におもむく人一人もあるべからず。
而るに正像二千年すぎて末法に入って当世の衆生の成仏往生のとげがたき事は、在世の二乗闡提等にも百千万億倍すぎたる衆生の、観経等の四十余年の経々に値うて生死をはなれんと思うはいかが。はかなしはかなし。女人は在世正像末総じて一切の諸仏の一切経の中に法華経をはなれて仏になるべからざる事を、霊山の聴衆として道場開悟し給える天台智者大師定めて云く ̄他経但記男不記女 今経皆記〔他経は但男に記して女に記せず 今経は皆記す〕云云。釈迦如来多宝仏十方諸仏の御前にして、摩竭提国王舎城の艮、霊鷲山と申す所にて、八箇年の間説き給いし法華経を智者大師まのあたり聞こしめしけるに、我五十年の一代聖教を説く事は皆衆生利益のためなり。但し其の中に四十二年の経々には女人仏になるべからずと説き、今法華経にして女人の成仏をとくとなのらせ給いしを、仏滅後一千五百余年に当たって霊鷲山より東北十万八千里の山海をへだてて摩訶尸那と申す国あり。震旦国是れ也。此の国に仏の御使いとして出世し給い、天台智者大師となのりて女人は法華経をはなれて仏になるべからずと定め給いぬ。
尸那国より三千里をへだてて東方に国あり、日本国となづけたり。漢土の天台大師御入滅二百余年と申せしに此の国に生まれて伝教大師となのらせ給いて、秀句と申す書を造り給いしに ̄能化所化倶無歴劫妙法経力即身成仏と龍女が成仏を定め置き給えり。
而るに当世の女人は即身成仏こそかたからめ、往生極楽は法華を憑まば疑いなし。譬えば江河の大海に入るよりもたやすく、雨の空より落ちるよりもはやくあるべき事也。
而るに日本国の一切の女人は南無妙法蓮華経とは唱えずして、女人の往生成仏をとげざる双観経等によりて、弥陀の名号を一日に六万遍十万遍なんどとなうるは、仏の名号なれば巧みなるにはにたれども、女人不成仏不往生の経によれる故にいたづらに他の財を数えたる女人なり。これひとえに悪知識にたぼらかされたるなり。されば日本国の一切の女人の御かたきは虎狼よりも山財海賊よりも父母の敵とわり等よりも、法華経をばおしえずして念仏等をおしうるこそ一切の女人の御かたきなれ。南無妙法蓮華経と一日に六万十万千万等も唱えて、後に暇あらば時時は弥陀等の諸仏の名号をも口すさみなるように申し給わんこそ、法華経を信ずる女人にてはあるべきに、当世の女人は一期の間弥陀の名号をばしきりに唱え、念仏の仏事をばひまなくおこない、法華経をばつやつや唱えず供養せず、或はわづかに法華経を持経者によますれども、念仏者をば父母兄弟なんどのようにもいなし、持経者をば所従眷属よりもかろくおもえり。
かくしてしかも法華経を信ずる由をなのるなり。抑そも浄徳婦人は二人の太子の出家を許して法華経をひろめさせ、龍女は_我闡大乗経度脱苦衆生とこそ誓いしが、全く他経計りを行じて此の経を行ぜじとは誓わず。今の女人は偏に他経を行じて法華経を行ずる方をしらず。とくとく心をひるがえすべし。心をひるがえすべし。南無妙法蓮華経。南無妙法蓮華経。
日蓮 花押
文永三年[丙寅]正月六日 於清澄寺未時書畢〔清澄寺に於て未の時書き畢んぬ〕
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