法華経の迹門は月の如く、寿量品は日の如し。寿量品の時は迹門の月未だ及ばず。何に況んや爾前の星をや。夜は星の時も月の時も衆務を作さず。夜暁て必ず衆務を作す。爾前・迹門にして猶お生死を離れ難し。本門寿量品に至りて必ず生死を離るべし。
『薬王品得意抄』
法華経の時迹門の月輪始めて出給いし時、菩薩の両眼先にさとり、二乗の眇目次にさとり、凡夫の盲目次に開き、生盲の一闡提も未来に眼の開くべき縁を結ぶ事、是れ偏に妙の一字の徳也。迹門十四品の一妙、本門十四品の一妙、会わせて二妙。迹門の十妙、本門の十妙、合わせて二十妙。迹門の三十妙、本門の三十妙、合わせて六十妙。迹門の四十妙、本門の四十妙、観心の四十妙、合わせて百二十重の妙也。六万九千三百八十四字、一々の字の下に一の妙あり。総じて六万九千三百八十四の妙あり。
『法華題目抄』
一念三千と申す事は迹門にすらなお許されず。何に況んや爾前に分たえたる事なり。一念三千の出処は略開三之十如実相なれども、義分は本門に限る。爾前は迹門の依義判文、迹門は本門の依義判文なり。但真実の依文判義は本門に限るべし。
『十章抄』
一念三千の法門は但法華経の本門寿量品の文の底にしずめたり。
<中略>
迹門方便品は一念三千・二乗作仏を説いて爾前二種の失一つ脱れたり。しかりといえどもいまだ発迹顕本せざれば、まことの一念三千もあらわれず、二乗作仏も定まらず。水中の月を見るがごとし。根なし草の波上に浮べるにいたり。
本門にいたりて、始成正覚をやぶれば四教の果をやぶる。四教の果をやぶれば、四教の因やぶれぶ。爾前・迹門の十界の因果を打ちやぶて、本門十界の因果をとき顕す。此れ即ち本因本果の法門なり。九界も無始の仏界に具し、仏界も無始の九界に備わりて、真の十界互具・百界千如・一念三千なるべし。
『開目抄』
又、迹門・爾前之意を以て之を論ずれば、教主釈尊は始成正覚の仏也。
<中略>
本門の所化を以て迹門の所化に比校すれば、一・{いったい}と大海、一塵と大山と也。本門の一菩薩を、迹門の十方世界の文殊・観音等に対向すれば、猿猴を以て帝釈に比するに、尚お及ばず。
<中略>
法華経の迹門等の釈尊は文殊・普賢等を以て脇士と為す。
<中略>
又、迹門竝びに前四味・無量義経・涅槃経等の三説は悉く随他意・易信易解。本門は三説の外の難信難解・随自意也。
<中略>
迹門十四品・涅槃経等の一代五十余年の諸経、十方三世諸仏の微塵の経々は皆無量の序分也。
<中略>
迹門の円教すら尚お仏因に非ず。
<中略>
迹門十四品の正宗の八品は一往之を見るに二乗を以て正と為し菩薩・凡夫を以て傍と為す。
<中略>
又、本門十四品の一経に序正流通有り。涌出品の半品を序分と為し、寿量品と前後の二半、此れを正宗と為す。其の余は流通分也。其の教主を論ずれば始成正覚の釈尊に非ず。所説の法門も、亦、天地の如し。
『観心本尊抄』
又法華経の寿量品に_楽於小法徳薄垢重者〔小法を楽える徳薄垢重の者〕と申す文あり。天台大師は此の経文に小法と云うは小乗経にもあらず。久遠実成を説かざる華厳経の円ないし方等・般若・法華経の迹門十四品の円頓の大法まで小乗の法也。
<中略>
本門寿量品をもて見れば、寿量品の智慧をはなれては諸経は跨説・当分の得道共に有名無実なり。
『小乗大乗分別鈔』
法華経の迹門は過去の三千塵点劫を演説す。一代超過是れ也。本門は五百塵点劫・過去遠遠劫をも之を演説し、又未来無数劫の事をも宣伝す。
『聖人知三世事』
夫れ一代四十余年が間なかりし大瑞を現じて、法華経の迹門をとかせ給ひぬ。其の上本門と申すは又爾前の経経の瑞に迹門を対するよりも大なる大瑞なり。大宝塔の地よりをどりいでし、地涌千界大地よりならび出し大震動は、大風の大海を吹けば、大山のごとくなる大波の、あし(蘆)のは(葉)のごとくなる小船のをひほ(追帆)につくがごとくなりしなり。
されば序品の瑞をば弥勒は文殊に問ひ、涌出品の大瑞をば慈氏は仏に問ひたてまつる。これを妙楽釈して云く ̄迹事浅近 可寄文殊。本地難裁故唯託仏〔迹事は浅近、文殊に寄すべし。本地はことはり難し、故に唯仏に託す〕云云。迹門のことは仏説き給はざりしかども文殊ほぼこれをしれり。本門のことは妙徳すこしもはからず。
『瑞相御書』
迹門より本門は機を尽くす也。
『四信五品抄』
世尊、眼前に薬王菩薩等の迹化他方の大菩薩に、法華経の半分迹門十四品を譲り給ふ。これは又地涌の大菩薩、末法の初めに出現せさせ給ひて、本門寿量品の肝心たる南無妙法蓮華経の五字を、一閻浮提の一切衆生に唱へさせ給ふべき先序のため也。所謂迹門弘通の衆は南岳・天台・妙楽・伝教等是れ也。
<中略>
彼(伝教大師)の円頓戒も迹門の大戒なれば今(末法)の時の機にはあらず。旁叶ふべき事にはあらず。
『下山御消息』
法華経に又二経あり。所謂迹門と本門となり。本迹の相違は水火天地の違目也。
今本門と迹門とは教主すでに久始のかはりめ、百歳のをきなと一歳の幼子のごとし。弟子又水火也。土の先後いうばかりなし。而るを本迹混合すれば水火を弁へざる者也。
<中略>
今末法に入て本門のひろまらせ給ふべきには、小乗・権大乗・迹門の人々設ひ科なくとも又彼々の法にては験有るべからず。
『富木入道殿御返事』
本門に於て二の心有り。一には涌出品の略開近顕遠は前四味竝びに迹門の諸衆をして脱せしめんが為也。二には涌出品の動執生疑より一半竝びに寿量品・分別功徳品の半品、已上一品二半を広開近顕遠と名づく。一向に滅後の為也。
『法華取要抄』
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