委しく一代聖教の前後を検するに法華本門竝びに観心の智慧を起こさざれば円仏と成らず。
<中略>
迹門の大教起れば爾前の大教亡ぼし、本門の大教起れば迹門・爾前の亡ぼし、観心の大教起れば本迹・爾前共に亡ぼす。此れは是れ如来所説の聖教、従浅至深して、次第に迷ひを転ずる也。
<中略>
迹門既に虚なること論に及ぶべからず。但し皆是真実とは、若し本門に望むれば、迹は是れ虚なりと雖も、一座の内に於て虚実を論ず、故に本迹両門倶に真実と言ふ也。
<中略>
一切衆生の始覚を名づけて迹門の円因と言ひ、一切衆生の本覚を名づけて本門の円果と為す。修一円因 感一円果とは是れ也。是の如く法門を談ずる之時、迹門・爾前は、若し本門顕れざれば六道を出でず。何ぞ九界を耶。
十法界事
<中略>
迹門は但九界の情を改め、十界互具を明かす。故に即ち円仏と成る也。
<中略>
迹門は二乗作仏の本懐なり。
<中略>
迹門には但是れ始覚の十界互具を説きて、未だ必ず本覚本有の十界互具を明かさず。故に所化の大衆、能化の円仏、皆是れ悉く始覚也。
『十法界事』
迹門は華厳と同勝の二義あり。華厳の円と法華迹門の相待妙の円とは同也。彼の円も判麁、此の円も判麁の故也。
<中略>
本門寿量品の意は、爾前・迹門に於て一向三乗倶に三惑を断ぜずと意得るべきなり。
『二乗作仏事』
又法華経の本門にしては爾前の円と迹門の円とを嫌ふ事不審なき者也。
『唱法華題目鈔』
本有の妙法蓮華経と云ふは本門の上の法門なり。
『諸法実相鈔』
迹門の円の菩薩は本門の蓮華を知らざるなり。
『当体義鈔』
迹門は始覚の三観三身、本門は無作の三観三身なり。心を止めて之を案ずべし。迹門は従因向果、十如、十界の成仏、三周の声聞等是なり。本門は此十如、十界は従本垂迹、無作の十界は普現難思の行相なるべし。
『授職潅頂口伝鈔』
証前は迹門、起後は本門なり。或は又閉塔は迹門、開塔は本門、是即ち境智の二法也。
『阿仏房御書』
寿量品と申は本門の肝心也。又此品は一部の肝心、一代聖教の肝心のみならず。三世の諸仏の説法の儀式の大要也。
『太田左衛門尉御返事』
一向本門の時なればとて迹門を捨べきにあらず。
<中略>
今の時は正には本門、傍には迹門也。迹門無得度と云て、迹門を捨てて一向本門に心を入させ給人人は、いまだ日蓮が本意の法門を習はせ給はざるにこそ。以の外の僻見也。
『四菩薩造立鈔』
迹門の戒は爾前大小の諸戒には勝ると雖も而も本門の戒には及ばざるなり。
『本門戒体鈔』
迹門は理具の即身成仏、本門は事の即身成仏也。今本門の即身成仏は当位即妙本有不改と断ずるなれば、肉身を其まゝ本有無作の三身如来と云へる是也。
<中略>
滅後末法の今の時は、一向本門の弘まらせ給ふべき時也。迹門の弘まらせ給ふべき時は已に過て二百余年になり。
<中略>
迹門は能入の門、本門は即身成仏の所詮の実義なり。迹門にして得道せる人人、種類種、相対種の成仏、何れも其実義は本門寿量品に限れば常にかく観念し給へ、正観なるべし。
『妙一女御返事』
像法一千年には法華経の迹門の機に相応せり。末法に入つて始めの五百年には法華経の本門前後十三品をば置きて、只寿量品の一品を弘通すべき時なり。機法相応せり。今此の本門寿量の一品は像法の後の五百歳尚ほ堪えず。況や始めの五百年をや、何に況や正法の機には迹門尚ほ日浅し、まして本門をや。末法に入つて爾前、迹門は全く出離生死の法にあらず、但だ専ら本門寿量の品に限りて出離生死の要法なり。
『三大秘法稟承事』
仏の説法に叩かれて近く覚りたりと説くをば迹門と云ふ也。此の三身の理をば我等具足して一分も迷わず、三世常住にして遍せざる所無しと説くをば本門と云ふ也。若し爾らば本迹は只久近の異にして其の法体全く異ならず。是れを以て天台釈して云く ̄本迹雖殊 不思議一〔本迹殊なりと雖も、不思議一なり〕と云云。
『總在一念鈔』
天台、妙楽の云く「迹門の正意は実相を顕すに在り、本門の正意は寿の長遠を顕す」云云。
『授職潅頂口伝鈔』
迹門の諸戒は今一分の功徳なし。功徳なからんに一日の斎戒も無用なり。但此本門の戒の弘まらせ給はんには必ず前代未聞の大瑞あるべし。所謂正嘉の地動、文永の長星是なるべし。
『教行証御書』
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