夫れ摂受折伏と申す法門は水火のごとし。火は水をいとう。水は火をにくむ。摂受の者は折伏をわらう。折伏の者は摂受をかなしむ。無智悪人の国土に充満の時は摂受を前きとす。安楽行品のごとし。邪智謗法の者の多き時は折伏を前きとす。常不軽品のごとし。譬えば熱き時に寒水を用い、寒き時に火をこのむがごとし。草木は日輪の眷属、寒月に苦をう、諸水は月輪の所従、熱時に本性を失う。末法に摂受折伏あるべし。所謂、悪国・破法の両国あるべきゆえなり。日本国の当世は悪国か破法の国かとしるべし。
問て云く 摂受の時折伏を行ずると、折伏の時摂受を行ずると、利益あるべしや。
答て云く 涅槃経に云く_迦葉菩薩白仏言如来法身金剛不壊。而未能知所因云何。仏言 迦葉 以能護持正法因縁故得成就是金剛身。迦葉 我護持正法因縁今得成就是金剛身常住不壊。善男子 護持正法者不受五戒不修威儀応持刀剣弓箭<鉾槊> 如是種々説法然故不能作師子吼 不能降伏非法悪人。 如是比丘不能自利及利衆生。当知是輩懈怠懶惰。雖能持戒守護浄行当知是人無所能為 乃至 時有破戒者聞是語已咸共瞋恚害是法師。是説法者設復命終故名持戒自利利他〔迦葉菩薩、仏に白して言さく如来の法身は金剛不壊なり。未だ所因を知ること能わず云何。仏の言く 迦葉、能く正法を護持する因縁を以ての故に是の金剛身を成就することを得たり。迦葉、我護持正法の因縁にて、今是の金剛身常住不壊を成就することを得たり。善男子、正法を護持せん者は五戒を受けず、威儀を修せずして、刀剣・弓箭・<鉾槊>を持すべし。是の如く種々に法を説くも、然もなお師子吼を作すこと能わず。非法の悪人を降伏すること能わず。是の如き比丘、自利し、及び衆生を利すること能わず。当に知るべし、是の輩は懈怠懶惰なり。能く戒を持て浄行を守護すと雖も、当に知るべし、是の人は能く為す所無からん。乃至 時に破戒の者有って是の語を聞き已って、咸く共に瞋恚して是の法師を害せん。是の説法の者、設い復命終すとも、なお持戒自利利他と名づく〕等云云。
章安の云く ̄取捨得宜不可一向等。
天台云く ̄適時而已等云云。
『開目抄』
今、末法の初め、小を以て大を打ち、権を以て実を破し、東西共に之を失し、天地顛倒せり。迹化の四依は隠れて現前せず。諸天、其の国を棄て之を守護せず。此の時、地涌の菩薩、始めて世に出現し、但、妙法蓮華経の五字を以て幼稚に服せしむ。因謗堕悪必因得益とは是也。我が弟子之を惟え。地涌千界は教主釈尊の初発心の弟子也。寂滅道場にも来らず、雙林最後にも訪わず、不孝の失之有り。迹門十四品にも来らず。本門六品にも座を立ち、但、八品の間に来還せり。是の如き高貴の大菩薩、三仏に約足して之を受持す。末法の初めに出ざるべきか。当に知るべし、此の四菩薩は、折伏を現ずる時は賢王と成って愚王を誡責し、摂受を行ずる時は僧と成って正法を弘持す。
『観心本尊抄』
抑そも仏法を弘通し、群生を利益せんには、先づ教・機・時・国・教法流布の前後を弁ふべきものなり。所以は時に正像末あり、法に大小乗あり、修行に摂折あり。摂受の時、折伏を行ずるも非也。折伏の時、摂受を行ずるも失也。然るに今世には摂受の時歟、折伏の時歟、先づ是れを知るべし。摂受の行は此の国に法華一純に弘まりて、邪法・邪師、一人もなしといはん、此の時は山林に交わりて観法を修し、五種・六種、乃至十種等を行ずべき也。
折伏の時はかくの如くならず。経教のおきて蘭菊に、諸宗のおぎろ(頤口)譽れを檀(ほしいまま)にし、邪正肩を並べ、大小先を争はん時は、万事を閣きて謗法を責むべし。是れ折伏の修行也。此の旨を知らずして摂折途に違はば、得道は思ひもよらず、悪道に堕つべしと云ふ事、法華・涅槃に定め置き、天台・妙楽の解釈にも分明也。是れ仏法修行の大事なるべし。
譬へば文武両道を以て天下を治むるに、武を先とすべき時もあり、文を旨とすべき時もあり。天下無為にして国土静かならん時は文を先とすべし。東夷南蛮西戎北狄蜂起して野心をさしはさまんには武を先とすべき也。文武のよき事計りを心えて時をもしらず、万邦安堵の思ひをなして世間無為ならん時、甲冑をよろひ兵杖をもたん事も非也。又、王敵起こらん時、戦場にして武具をば閣きて筆硯を提(ひつさげ)ん事、是れも亦、時に相応せず。摂受折伏の法門も亦、是の如し。正法のみ弘まて邪法・邪師無からん時は、深谷にも入り、閑静にも居して、読誦書写をもし、観念工夫をも凝らすべし。是れ天下の静かなる時、筆硯を用ふるが如し。権宗謗法、国にあらん時は、諸事を閣きて謗法を責むべし。是れ合戦の場に兵杖を用ふるが如し。
然れば章安大師、涅槃の疏に釈して云く ̄昔時平而法弘。応持戒勿持杖。今時嶮而法翳。応持杖勿持戒。今昔倶嶮応倶持杖。今昔倶平応倶持戒。取捨得宜不可一向〔昔の時は平にして而も法弘まる。応に戒を持すべし、杖を持すこと勿れ。今の時は嶮にして而も法かくる。応に杖を持すべし、戒を持すこと勿れ。今昔倶に嶮なれば、応に倶に杖を持すべし。今昔倶に平なれば、応に倶に戒を持すべし。取捨宜しきを得て一向にすべからず〕。
此の釈の意、分明也。昔は世もすなをに、人もただしくして、邪法邪義無かりき。されば威儀をただし、穏便に行業を積みて、杖をもて人を責めず、邪法をとがむる事無かりき。今の世は濁世也。人の情もひがみゆがんで、権教謗法のみ多ければ正法弘まりがたし。此の時は読誦書写の修行も観念工夫修練も無用也。只、折伏を行じて、力あらば威勢を以て謗法をくだき、又、法門を以ても邪義を責めよと也。取捨、其の旨を得て、一向に執する事なかれと書けり。今の世を見るに、正法一純に弘まる国歟、邪法の興盛する国歟、勘ふべし。
<中略>
歓喜仏の末の世の覚徳比丘、正法を弘めしに、無量の破戒、此の行者を怨みて責めしかば、有徳国王正法を守る故に、謗法を責めて終に命終して阿鐡仏の国に生まれて、彼の仏の第一の弟子となる。大乗を重んじて五百人の婆羅門の謗法を誡めし仙豫国王は不退の位に登る。憑もしい哉、正法の僧を重んじて邪悪の侶を誡むる人かくの如くの徳あり。されば今の世に摂受を行ぜん人は謗人と倶に悪道に堕ちん事疑ひ無し。
『聖愚問答鈔』
末法の始めの五百年には純円一実の法華経のみ広宣流布の時なり。此時は闘諍堅固、白法隠没の時と定めて権、実雑乱の砌なり。敵ある時は刀杖弓箭を持つべし、敵なき時は弓箭兵杖何にかせん。今の時は権教が即ち実教の敵と成るなり。一乗流布の時は権教ありて、敵と成りてまぎらはしくば実教より之を責むべし。是を摂、折修行の中には法華経の折伏と申すなり。天台云く「法華折伏破権門理」とまことに故あるかな。然るに摂受たる四安楽の修行を今の時行ずるならば、冬種子を下して春菓を求むる者にあらずや。にはとりの暁になくは用なり、よひになくは物怪なり。権、実雑乱の時法華経の敵を責めずして山林に閉ぢ篭りて摂受を修行せんは、あに法華経修行の時を失う物怪にあらずや。されば末法今の時法華経の折伏の修行をば、誰か経文の如く行じ給へしぞ。
『如説修行鈔』
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