女人について(5)

四条金吾殿御女房御返事  文永十二(1275.正・27)

所詮日本国の一切衆生の目をぬき神をまどはかす邪法、真言師にはすぎず。是れは且く之を置く。十喩は一切経と法華経との勝劣を説かせ給ふと見えたれども、仏の御心はさには候はず。一切経の行者と法華経の行者とをならべて、法華経の行者は日月等のごとし、諸経の行者は衆星燈炬のごとしと申す事を、詮と思しめされて候。なにをもんてこれをしるとならば、第八の譬への下に一の最大事の文あり。所謂此の経文に云く_有能受持。是経典者。亦復如是。於一切衆生中。亦為第一〔能く是の経典を受持することあらん者も亦復是の如し。一切衆生の中に於て亦為れ第一なり〕等云云。此の二十二字は一経第一の肝心なり。一切衆生の目也。文の心は法華経の行者は日月・大梵王・仏のごとし、大日経の行者は、衆星・江河・凡夫のごとしととかれて候経文也。
 されば此の世の中の男女僧尼は嫌ふべからず。法華経を持たせ給ふ人は一切衆生のしう(主)とこそ、仏は御らん候らめ、梵王・帝釈はあをがせ給ふらめとうれしさ申すばかりなし。
 又この経文を昼夜に案じ朝夕によみ候へば、常の法華経の行者にては候はぬにはんべり。是経典者とて者の文字はひととよみ候へば、此の世の中の比丘・比丘尼・うば塞・うばいの中に、法華経信じまいらせ候人々かとみまいらせ候へばさにては候はず。
 次ぎ下の経文に、此の者の文字を仏かさねてとかせ給ふて候には、若有女人ととかせて候。日蓮法華経より外の一切経をみ候には、女人とはなりたくも候はず。或経には女人をば地獄の使いと定められ、或経には大蛇ととかれ、或経にはまがれる木のごとし、或経には仏の種をい(熬)れる者とこそとかれて候へ。
 仏法ならず外典にも栄啓期と申せし者の、三楽をうたいし中に、無女楽と申して天地の中に女人と生れざる事を楽とこそたてられて候へ。わざわい三女よりをこれりと定められて候に、此の法華経計りに、此経持女人は一切の女人にすぎたるのみならず、一切の男子にこえたりとみへて候。
 せんずるところは一切の人にそしられて候よりも、女人の御ためには、いとを(愛)しとをもわしき男にふびんとをもわれたらんにはすぎじ。一切の人はにくまばにくめ。釈迦仏・多宝仏・十方の諸仏乃至梵王・帝釈・日月等だにも、ふびんとをもわれまいらせなば、なにくるし。法華経にだにもほめられたてまつりなば、なにかたつましかるべき。今三十三の御やくとて、御ふせをくりたびて候へば、釈迦仏・法華経・日天の御まえに申しあげ候ぬ。
 人の身には左右のかた(肩)あり。このかたに二つの神をはします。一をば同名神、二をば同生神と申す。此の二つの神は梵天・帝釈・日月の人をまほらせんがために、母の腹の内に入りしよりこのかた一生をわるまで、影のごとく眼のごとくつき随ひて候が、人の悪をつくり善をなしなむどし候をば、つゆちりばかりものこさず、天にうた(訴)へまいらせ候なるぞ。華厳経の文にて候を止観の第八に天台大師よませ給へり。
 但し信心のよはきものをば、法華経を持つ女人なれどもすつるとみへて候。れいせば大将軍心ゆわければしたがふものもかいなし。ゆみゆわければ、つるゆるし。風ゆるなればなみちひさきはじねんのだうりなり。しかるにさゑもん(左衛門)どのは俗のなかには日本にかたをならぶべき物もなき法華経の信者なり。これにあひつ(連)れさせ給ひぬるは日本第一の女人なり。法華経の御ためには龍女とこそ仏はをぼしめされ候らめ。
 女と申す文字をばかゝるとよみ候。藤の松にかゝり、女の男にかゝるも、今は左衛門殿を師とせさせ給ひて、法華経へみちびかれさせ給ひ候へ。又三十三のやくは転じて三十三のさいはひとならせ給ふべし。七難即滅七福即生とは是れ也。年はわかう(若)なり、福はかさなり候べし。あなかしこあなかしこ。

正月二十七日                                日蓮 花押

  四条金吾殿御女房 御返事

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