親鸞が主張した悪人正機や他力本願は経論に依らないで、親鸞が自分で考え出した詭弁の説です。
法華経には悪逆の堤波達多の成道の現証がありますが、浄土三部経には誰々の悪人を挙げて、何々の仏に成る、との現証は皆無です。例えあったとしても、浄土三部経は無量義経の未顕真実(真実でない)の文によって破られる権教(方便の教え)ですから信用に及びません。
阿弥陀経には舎利弗に対して、凡夫の往生すべき様が説かれていますが、四紙一巻の内、全て舎利弗等の諸の声聞の往生成仏は許されれていません。法華経に来て初めて「華光如来」と成仏が授記されています。大智者たる舎利弗すら、浄土の三部経に於いては往生成仏の除外対象なのです。故に浄土の三部経の往生は未完の教えであるのです。
悪人正機を観無量寿経に説かれる下品往生を基としたなら、観無量寿経の往生の文は方便の往生であって真実の往生ではありません。真実の往生は、これまた法華経に限られます。法華経に来て、悪人、二乗を含めた一切衆生の成仏の道が明かされているので、法華経を修行して往生成仏も可能になるのです。
法華経には、「正直に方便を捨てて」と説かれます。浄土三部経等の方便の経を捨てて、法華経を修行すれば、「若し女人あって是の経典を聞いて説の如く修行せば、乃至 安楽世界に生ぜん」と説かれています。
悪人を救う教えは、ただ法華経に限られます。浄土三部経と念仏には非ず。もし、浄土三部経に依って悪人正機の説を主張するなら、実教の智慧を盗んで権教に取り入れる、権実雑乱の失を逃れられません。
親鸞は仏経の勝劣・深浅に迷惑し、権教・実教を弁えず。未だ仏教の淵底を知らざる者です。劣った経の浄土三部経を基とした念仏を優れたものと思い込み、優れた経の法華経の題目を劣ったものと思い込む、邪見顛倒の域を出ていません。悪人正機の主張は有名無実なのです。
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