最近は原始仏教とか初期仏教なんかに釈迦の真の教え、釈迦の真の言葉を見い出そうなんて傾向があるが、無理な話だ。
原始仏教とか初期仏教とかいうものは、釈尊入滅直後の数百年の間にインドだけで弘まった仏教だそうだが、その教えは皆阿含等の小乗経で、全て当時のインド人のためだけの教えである。
土地も時代も懸け離れた現代の日本人には修行不可能であって今更持ち出すべきではない。
仏滅直後のインド人と現代の日本人では、遥かにその性質、機根も違うし、煩悩の病も当時のインド人と比べて甚だ重い。
小乗教は今の現代人には堪え難く、これを修行すれば返って混乱を招いて迷いを増す。結句、身を損ない仏道を失う。小乗の二百五十戒なんか、現代人に守ることができる者は一人もいないのだ。時代遅れの不適切な教えである。
仏教を学ぼうと思うなら、まず時・国・機を弁えなければならない。
時とは正法・像法・末法。
国とはインド・中国・日本等。
時代によって、衆生の心の病の軽重も異なるし、国によって、人の性質(機根)が異なるのは誰でも分かることだ。
まずは膨大な仏典の中からどの経を選び出して、今の時代、今の国民に適切であるかを考えないといけない。
昔のインド人には昔のインド人向けの教えがあるし、今の日本人には今の日本人向けの教えがある。
小乗の機根の者には小乗教、大乗を受容できる器の者には大乗教、というように、一切経の中から適切な経を選び出して用いないと、利益にならないばかりか罪を招くことになる。
仏滅以後の弟子達は釈尊の教戒を守って、その時代、その衆生に合わない経は封印して妄りに弘めなかった。
釈尊入滅直後の数百年間は正法といい、一向に三蔵(小乗の経律)が流布して大乗経の出番は無し。なぜなら、その時代の人間は小乗の機根であり、大乗の教えは堪え難いから。小乗の教えを修行して、証を得る。
ようやく時代が下るにつれ衆生の病は重くなる。ここで初めて大乗経が出現することになる。
重病に応じてを用いる薬を変えるように、段階を踏まえて適切な経法を弘めていった。
日本に於いては聖徳太子、伝教大師等が日本人の機を鑑みた結果、「小乗の機に非ず、権大乗の機にも非ず、『ただ実大乗の法華経の機』のみ有り」と見定めて日本に法華経を流布させた。
これ以後、日本国は一向に法華経流布の国である。それを今になって、「原始だ!初期だ!この教えの中にこそ、法華経に勝る釈迦の真の言葉、真の教えがあるのだ!」なんて無闇に弘めている輩は見当違いも甚だしい。
末代の日本人は一向に大乗の機、大乗の中でも法華一乗の機である。
これを知らない学者は、いくら仏教に精通して解釈を弘めても、返って仏教を失う。
時と国を弁えないから、できもしない時期不相応の教えを弘めて「原典でなければいけない」「パーリ語でなければ真の仏教ではない」なんていう妄説を弘める。
これに飛びつく初学者も、この学者の誤った解説を用い、両者共に仏道を壊乱して大罪を得る。
「仏教は原始のもの、初期であるほうが真実なのだ」なんて思い込むのは誤った認識。
「原始の方が正しい」「初期の方が正確だ」なんて誰が決めた?早いものが真実で、遅いものが偽者、なんてどこにその根拠がある?むしろ真実で重要な教えは後になってから弘まっていくものだ。
原始・初期仏教に真実の仏教を求めたところで、その教えは所詮、当時のインド人のためだけの仏教であり、現代の日本人の心の病を治す薬とはならないのだ。
釈尊の真の言葉、真の教えは小乗よりも大乗、大乗の中でも法華経にこめられているのであり、原始仏教、初期仏教ではない!
釈尊は三十で成道して、以後四十二年の間は衆生の機根を調えるための、諸々の経を説いて、御年七十二、法華の時に至って衆生の機根が熟したのを知り、前に説いた経を廃して、自らの本懐を説かれたのだ。
釈尊の本懐は法華経に終結する。ただ、法華経だけが釈迦の真実の教えであり、真実の言葉なのである。
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