最近の仏教学とかいうものは、仏教の本質を学ぶことから遠く離れてしまっている。
経典の成立時代や出所なんかを探ることに必死で、「経典の言葉をそのまま信じる」という一番大切なことを忘れている。
「仏道修業の根本は何か」と問われれば、それは「信」である。経文を信じる力があってこそ、仏道修行を円滑に進めることができる。「信」無くしては仏道は修め難し。信無くして経典を読む人は魂の抜けた人形のようなものだ。
仏法は海の如し、ただ信のみよく入る。信はすなわち道の源、功徳の母、一切の善法はこれに由って生ず。
『摩訶止観』 巻第五上
「信は手の如し」と。人に手有りて宝山の中に入らば、自在に宝を取るが如し。信有るも亦た是の如し。仏法の無漏の根・力・覚道・禅定の宝山の中に入りて取る所自在なり。
『大智度論』 巻第一下
信無きは手無きが如し。手無き人は宝山の中に入るも、則ち取る所有る能わず。信無きも亦た是の如し。仏法の宝山に入るも都べて得る所無し。
一に、総じて「(経典の冒頭にある)如是」の意は信を勧むるに在ることを明かさば、如来は法相の如く解し、法相の如く説き、説く所は誠諦にして、必ず信じ従うべきなり。
『維摩経文疏』巻第二
『大智論』に云く、「仏法は大海なり、信を能入と為し、智を能度と為す」と。「如是」とは即ち是れ信の相なり。
又、「如是」は是れ善信の辞なり。信ぜざる者は、「是の事は如かず」と言う。是れ信ずる者は、「是の事は如し」と言う。
是れ信有るの人は、仏法に入りて能く四沙門果を得。その信無き者は、復た出家して髪を剪り、染衣を著け、種々の経を読み、能く難じ能く答うと雖も、仏法の中に於いて空しくして得る所無し。
そればかりか、最近の学会では大乗や漢訳の経典を否定し、小乗や梵語の経典を弘めて真の仏教を破壊しようとする魂胆さえ伺える。
- 大乗は仏説に非ず
- 原始仏教こそ真実
- 経典はサンスクリット語、或いはパーリ語で読まなければ真意は掴めない
とかいう邪説を広めて、純粋に仏教を学ぼうとする者の心を挫いている。
仏教に精通しているように見えて返って仏教を台無しにしているのだ。衆生を悪道に導く悪魔の眷属である。
経典の信憑性を今更になって疑い、出所なんかを考古学的に分析し、あやふやなところが少しでもあれば、「これは創作だ」とか「偽経である」と宣言して経典を信じる心を失わせる。痛ましいや!
経典は何百年も前に国から国へと伝えられ編纂されてきたのだから、その途中で原典が失われたり、見つからなかったりするのは当然の成り行きではないか。出所不明の経がいくつも存在するのも当然の結果。なぜ原典にこだわる必要があるのか?
原典を忠実に翻訳することができたら、それもまた原典と呼べよう。二つ原典があるのなら、他国の言語の経典を必ずしも保持する必要はない。
仏典を考古学的に解明しようとする時点で浅はかだ。経典の信憑性を疑ってばかりいたら、いつまで経っても仏教を悟ることはできないぞ。今は既に目録というものが編纂されているので、信憑性の判断はこれに基づけばよいと私は考えている。
また、正しい経は未来まで失われないように、仏神の加護もあって現代まで伝わってきたのだ。
正本の法華は西晋より唐に至って都て行用せず。此の妙法経は後秦に訳し訖って四海盛んに伝え天下に仰止す。況んや流行の処は必ず冥加を藉る。冥加已に遂ぐ。安んぞ議すべけん耶?
『法華文句記』巻第十
馬鹿を言うな。科学的・考古学的に認められた経典こそ信用に値するのだ
なんていう人は未だに仏教の初門にも入らざる者。
自分たちの目に見えることしか信用せず、経典に説かれる事柄で科学的に解明できないものは作り話として無視する……。甚だしく見識が狭い。
また、日本人は普段から漢字を使用しているので、経典の言葉は漢文、書き下し文が最適である。それをカタカナにして理解させようとしたら、返って仏教を分かりにくくしているのだぞ。
仏をブッダとか、阿難をアーナンダとかしてカタカナを多用すれば、本物の仏教に近づいたでも思ったか?悪趣味だなぁ。そんなことをしてもかえって混乱を与えて学ぶことを困難にさせるだけだ。
正しい漢訳の意味を捨てて、梵語に真実の意味を求めたところで、結局今の学者の翻訳能力が、当時の三蔵訳者の智慧(翻訳能力)に到底及ぶわけがないのだから。
どうして原語にこだわらなければならない?言葉に振り回されてはいけない。肝心なのはどの言語で読むかではなく、どれだけ経典の言葉を理解して信じられるかだ。意味を解するために言葉があるのであり、言葉のために教えがあるのではない。
義に依って語に依らざれ。
『大般涅槃経』四依品第八
とあるが、今の学者はこの経文に背いて人々を真の仏道に入りにくくさせている。
仏典は漢訳・漢語のままでよい。漢訳を抑えて安易に梵語を勧める者は仏道を乱す者だ。
仏教を学ぶ上で最も大事なことの一つは、経典の言葉をそのまま信じること。これができないと、いつまで経っても得道は無理。
既に見事に漢訳されたお経があるのだから、今更サンスクリット語に噛り付く必要はない。
漢語なら難解な仏教用語も理解しやすいし、経典の言葉はその国に馴染み深い言語で読むのが最も相応しい。



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