「仏典は弟子が書いたものに過ぎない」という批判について

仏典に書かれていることを人に示して諭そうとしても、「仏教経典は後世の弟子が釈迦の言葉を創作して書いたもの過ぎない」と言って信用しない人が多い。

  • 経典に何が書かれているかなんて興味がない
  • 漢字が多くて難しいから読もうと思わない
  • これだけ時間が経過していれば釈迦の言葉は歪められているはず
  • どうせ迷信だろう。いまどきそんな古臭い書物は用いる価値があるか。現実を見ろ、科学を学べ。

このように思っている人が非常に多い。
明治以降、取り分け戦後の現代教育を真面目に受けたインテリ層(特に中年以上の男性)にこの通念が広がっている。

そのため、仏典に書かれている内容を信用する国民は皆無に等しく、科学の教科書に説かれる理論や外道の教義が重宝されている。
非常に悲しく、嘆かわしい。

だとすると、釈迦の言葉はどこにある?

もし既存の経典は弟子が書いたものでしかないなら、釈迦の言葉はどこに残っているのだろうか?
釈迦は正覚を得た後、一言も発せず入滅したのだろうか?

経典以外、どこに釈迦の言葉が残っているのだろう?
釈迦の言葉は経典にしか残っていない。
だから、釈迦の言葉を見出すには、経典を探るしかない。

偽経などの捏造はすぐ発覚する

嘘や捏造というものは、いつかどこかで発覚するものだ。
もし既存の仏典が釈迦の言葉を創作して書かれた物だとすれば、その痕跡は必ずどこかに残る。
現に、偽経と見なされた経典のほとんどは、それが出来てから時を遠く隔たずして発覚し、人々に周知されるところとなっている。
数百年、千年以上たってから発覚することは、まずない。

経が世に現れるとすぐに沢山の人が読み、出自が細かく検証される。
世に弘められるべきであるかの議論が盛んに進められ、信憑性、真偽の判定が下されるのには長い時間を要しない。
今から千数百年以上前、三蔵によってほとんどの経典は翻訳されたが、それから千年以上たって新たに偽経と証明された経がどれだけあるだろうか?
「仏典は弟子が書いたもの」と言い張る人は、どの経巻を、誰がどうやって創作して書いた、という痕跡を示して証明して欲しい。

その放言は大罪

  • 経典は弟子が創作して作ったものだから
  • 釈迦が残した本物の言葉はもうどこにも残っていない

そう平気で言い触らして、経文を信じる心を人々から失わせる……。
本人は世間の通説に従って何気なく発言しているようだが、実はこれ、とんでもなく大きな罪を得ます。

若し復た説きて「仏・・僧無し」と言わん。
是くの如き等の人も亦た、一闡提の道に趣向おもむくと名づく。

『大般涅槃経』一切大衆所問品第十七

「仏典は弟子が書いたもの」―発言。
経典にある仏説の存在を否定すれば、法の存在も合わせて葬ってしまう。
つまり、この経文にある「法無し」にあたる。

そもそも、仏が説いた「法」は経典に記される。
人は経典を通してでしか、仏の説いた法を知ることはできない。
仏説が経典に残されていないと主張すれば、そこに説かれた法、仏法もこの世に存在しないと言い張るのと同じである。
法宝―三宝を破壊することに繋がるからから、大罪を得るのである。
絶対に許されない発言である。

不信の相猊は人をして法華経(経典)を捨てしむれば也。
故に天親菩薩の仏性論の第一に此の文を釈して云く〔若し大乗に憎背するは、此れは是れ一闡提の因なり。衆生をして此の法を捨てしむるを為ての故に〕。
謗法の相貌は此の法を捨てしむるが故也。

日蓮『守護国家論』

心ある人は、そのようなことを言ってはならない。従ってはならない。


仏典は弟子が書いたものではなく、釈迦の生の言葉が収めらている

そう固く信じないと、仏道修行は正しく進められない。仏教を信じているとは言えない。
もし表題にある発言を受け入れてしまうなら、仏法を疎かにし、仏教の破壊行為に加担してしまう。
たとえ「私は仏教徒です」「仏教を信じています」と公に宣言しても、心の奥底に先の思いが少しでもあるなら、それは偽りになる。

現代人のほとんどは、お経というものを葬式のときにしか聞くことがない。
実際に経文を読もうとすれば、何時でも誰でもできるのに、軽視して行わない。
ましてや、その文を解釈し、説かれる通りに修行する者がいるだろうか?たとえ坊主であってもだ。
このようになってしまったのも、このような発言を広める悪人の責任だ。
現代では私のような人間以外、仏典の教えを基準にして物事を考える人がいない。だから、嘆いているのだ。

このように、現代人のほとんどは自分で気付いていないだろうが、涅槃経に説かれる一闡提となってしまっている。
仏法を離れてしまっているから、空しくその人生を過ごし、空しく死んでいく。畜生と同じだ。

弘決の第一に云く、

此の円頓を聞いて宗重せざる者は良に近代大乗を習う者の雑濫に由るば故也

と。大乗に於て権実二教を弁えざるを雑濫と云う也。故に、末代に於て法華経を信ずる者は爪上の土の如く、法華経を信ぜずして権教に堕落する者は十方微塵の如し。
故に妙楽歎いて云く、

像末は情澆く、信心寡薄にして 円頓の教法蔵に溢れ函に盈つれども暫くも思惟せず。便ち目を瞑くに至る。徒に生じ徒に死す。一に何ぞ痛き哉 已上。

此の釈は偏に妙楽大師、権者為るの間、遠く日本国の当代を鑒みて記し置く所の未来記也。

日蓮『守護国家論』

弘決の現代語訳

此の円頓を聞いて宗重せざる者は良に近代大乗を習う者の雑濫に由るば故也

この円頓の教え(仏教経典)を聞いても尊び重んじようとしないのは、誠に近代に大乗を学ぶ者がその教えを乱すためである。

(況や)像末は情澆く、信心寡薄にして 円頓の教法蔵に溢れ函に盈つれども暫くも思惟せず。便ち目を瞑くに至る。徒に生じ徒に死す。一に何ぞ痛き哉。

(ましてや)像法や末法の時代には、人々の心は軽薄になり、信心も乏しい。
円頓の教法は経蔵に溢れるほど多く収められ(仏典は損傷なく温存されている)、手を伸ばせば簡単に読める状況であるにもかかわらず、僅かな時間もそれを学んで意味を考えようとしない。そのため、智慧の眼を失う。
空しく生き、空しく死んでいく…。なんと痛ましいことであるか!

「如是我聞」の意義

ほとんどの経典の冒頭には、「如是我聞…」という記述から始まる。
この文言があることが、弟子が創作して書いたものではないという証拠になる。

問い:なぜ経典の冒頭に『如是(このように私は聞いた)』などの言葉を置き、四念処のみを修行させるのか?
答え:経典の冒頭に『如是』などを置くのは、人々の疑念を断ち、信じることを勧めるためである。
また、仏説であることを証明し、弟子や九十六種の外道が説いたものではないことを示すためである。
さらに、外道の経典の冒頭に置かれる「」「」の二字を教えの始まりの印とすることを破るためでもある。「阿」「漚」とは、いわゆる彼らの吉祥を表す邪僻じゃへきな事柄であり、詳細は『百論』に述べられている。

『維摩経略疏』巻第一

復た次ぎに、我が三阿僧祇劫に集めし所の法宝の蔵は、是の蔵の初めは、応に是の説を作すべし、
「是の如く我れ聞けり。一時、仏は、某方、某国土、某処の樹林中に在り」と。
何を以っての故に。過去の諸仏の経の初めは、皆是の語を称し、未来の諸仏の経の初めも、亦た是の語を称し、現在の諸仏の末後の般涅槃の時も、亦た教えて是の語を称せしむればなり。今、我が般涅槃の後経の初めも亦た、応に『是の如く我れ聞けり。一時……』と称すべし。
是の故に当に知るべし。是れは仏の教うる所にして仏自ら「是の如く我れ聞けり」と言えるに非ず。
仏は一切智の人なれば自然にして師無きが故に、応に「我れ聞けり』と言うべからず。
若し仏自ら「是の如く我れ聞けり」と説きて、知らざる所有らば此の難有るべし。
阿難の仏に問えるに仏は是の語を教えたまえり。是れ弟子の言う所の「是の如く我れ聞けり」なれば、咎有ること無し。

大智度論』巻第二
大智度論巻02上

釈尊自ら、「経の冒頭には『如是我聞』と記して編纂しなさい」と弟子に命じられているのだから、この文言があることがそのまま、仏の教えを忠実に再現しているといえる。

経典を最初に記し、訳し、書写する僧侶には不妄語戒が厳重に定められている。
その不妄語戒を守っている僧侶によってもたらされたものであるから、経文は信用できるのだ。
もし「如是我聞」と記述しながら、偽経を作成したり、釈迦の言葉を勝手に創作して挿入したりすれば、それは重大な破戒となる。
上にも書いたように、偽経や、経文に私の言葉を挿入した箇所があることは、その後すぐに発覚している。
以下、その例を挙げる。

『正法華経』には

禅定に入ること、三十(四十)万劫を経る

とある。
法護は何を根拠にこのように訳したのであろうか?その数は原典と大きく食い違っている。

『法華文句記』巻第八

『正法華経』、及び隋代に闍那崛多三蔵が訳した『添品法華経』では、この〈囑累品〉がいずれも経の最後に置かれている。
これに対する答えはこうである。『正法華』と『妙法蓮華経』では、もともと訳者が異なり、それぞれの見解も分かれる。それゆえ、両者の内容や品の配列が完全に一致することはない。
『添品』とついて言えば、南山(道宣)の『内典録』によれば、「闍那崛多ジャナクッタが〈囑累品〉を勝手に後ろへ移した」とある。
崛多が恣意的に改変したのであれば、竺法護の訳を根拠にすることはできない。
一方、『正法華』は先に翻訳され存在しているで、『添品』だけを勝手な改変と呼ぶこともできない。
南山が『添品』を批判した以上、その理由で両方の訳本とも正しくないことになる。
なぜそう言えるのか。鳩摩羅什は亀茲の生まれではあるが、五天竺を広く遊学している。梵本の『法華経』だけを見ていないということがあろうか。
また、長安に長く住んでいたのだから法護の訳を見ていなかったはずもない。
それにもかかわらず、改めて『法華経』を翻訳する際に法護の訳(品の配列)を採用しなかったのは、法護の訳が模範に成り得なかったということが明らかに分かる。
<中略>
『正法華経』を全体に亘って調べてみると、あちこちに矛盾があり、虚偽や誤訳、前後が一致しないところも少なくない。
したがって、『正法華経』を基準としてはならない。
<中略>
(正法華経には)正宗分の中にも誤りが数え切れないほどある。どうしてこれらを踏まえず〈囑累品〉だけを取り上げるのか。
したがって、『正法華経』は全体として依拠すべき典拠にはならない。

『法華文句記』巻第十

法華経の別本である『添品法華経』と竺法護の『正法華経』は偽経ではないが、訳者が私の言葉を挿入したり品を恣に移したことが、妙楽大師等により指摘され発覚している。

三宝一体の観点から

確かに実際に経典の文字を記したのは後世の人々である。
釈迦自ら筆を執って経典を認めることはない。
だから、「僧が釈迦の言葉を創作して書いたものだろう」とか「訳者の私見が差し込まれている」という疑念は出やすいが、それがそのまま「弟子の創作である」ということには結びつかない。

もし釈迦が自ら経典を記したなら、僧侶が必要なくなる。
この時点で三宝のうち、僧宝を欠いてしまう。
大論にあるように、その教えを自ら記さず、あえて不妄語戒を守る信頼ある僧侶に経典の編纂を委ねたところに、三宝を建立させようとする釈尊の意図もくみ取れる。

阿難が『如是我聞』と謳った言葉があるからこそ、仏法は僧によってしっかり流伝されたことが分かる。
つまり、釈迦という「仏」によって説かれた「法」は、「僧」によって経典としてまとめられ流伝される…。
これで僧宝が備わり、三宝が成立する。
僧宝というのは釈迦の教えと戒めを忠実に守る人である。
これらの人がいなければ、仏は出世する理由がなくなり、説法の大義を失う。
僧無くして仏と法(経典)はあり得ない。三宝は一体である。

もし経典に「釈迦の言葉は無い」とか「釈迦の意は歪められている」と固く決め付ければ、それは、阿難などの多聞で不妄語戒を護る僧侶を誹謗してしまうことにもなる。
僧侶の信用をも落とし、僧宝―三宝を破壊することに繋がるからから、大罪を得るのである。三宝は一体である。

信じられないから、そう言っているのでは?

一部の現代人は仏典の文を目にしたとき、その教えが難解だったり突拍子も無かったりして信じられないから、「これは後世の弟子が編入したものなのだ…」と思い込んでしまうだろう。

だが、信じられないからといって、弟子の創作だと早々に決めつけてはならない。それはあなたの思い込みに過ぎない。
仏典には信じられないことが多く書かれているから、「これは本当に釈迦が言ったことなのだろうか?」と思い込む気持ちは分かるが、それを実際に口に出しては罪になる。
ましてや、仏教学の教授など権威有る身であっては猶更だ。

もしそれを口にしてしまうと、聞いた者をして同じように仏典への不信感を懐かせてその通念を広げてしまう。だから、罪になるのだ。
このような行為は甚だ浅墓で愚かであることを知るべきだ。

やはり、書かれていることをそのまま信じることが大事

仏典に書かれている事柄の多くは、信じることで理解を得られる。
先に信じてから得られる知識という物もあるのだ。
仏教は、それがほとんどだ。

一、「如是」という語の意味を明らかにすれば、信じることを勧めるものである。如来は法のままに解し、法のままに説かれる。その説かれたことは真実で虚偽がないので、必ず信じて従うべきものである。
『大智度論』には「仏法の大海は、信をもって入ることができ、智をもって渡ることができる」とある。
「如是」とは、即ち信じている姿である。また、「如是」は善く信じることを表す言葉である。信じない者は「この事は如(しか)らず」と言い、信じる者は「この事は如(しか)り」と言う。
この信心ある人は、仏法に入って四沙門果を得ることができる。
信心のない人は、たとえ出家して髪を剃り、袈裟をまとい、様々な経典を読み、よく難題に答えることができても、仏法の中では空しく何も得ることはない。

『維摩羅経文疏』巻第二

仏典に書かれている信じ難いことを信じる
これが、とても大切な修行である
そして、その道は誰にでも開かれている

現代では図書館やネットがあり、足を向けたり手を伸ばしたりするだけで、何時でも仏典が手に入る状況にある。
それなのに、現代人は軽視して読もうとせず、尊重しない。
ああ、嘆かわしい。

般若心経は要らない
近年、この経が流布しているため、「お経といえば般若心経」と答える人が多いです。そのため、皆さんの多くは般若心経が最高の経典だと思っているでしょう。ですが、そうではありません。最高の経典は法華経なのです。般若心経と法華経、どっちが勝るかと問わ…

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