
こちらの記事が長くなったので、後方部分を分けて掲載
参考:小乗部ー『立世阿毘曇』 『倶舎論』 『起世経』 『正法念処経』
大乗部ー『涅槃経』『華厳経』『天台法華三大部』『大智度論』
事彙部ー『法苑珠林』
氷の壁ではなく鉄の山の壁(横の果て)

塩海(大海)の最果てに鉄囲という山があって世界をぐるりと囲んでいる。
その山は水中に入ること三百十二由旬半、水上にも同じ高さで聳える。
広さ(山幅)も同じ長さで、周囲は三十六億一万三百五十由旬である。
この閻浮提の中央から北に向かって、三箇所にそれぞれ三重の黒山が連なっている。
その黒山の北には大雪山があり、大雪山の北には香酔山がある。
雪山と香酔山の間に「無熱悩」という大きな池が広がっている。その池から四大河(殑伽河、信度河、徙多河、縛芻河)が流れ出ている。
無熱悩池は縦横の長さがそれぞれ五十由旬ある。八功徳水が満ちており、神通力を得た人でなければそこに至ることはできない。この池のほとりに閻浮樹の林がある。
閻浮提人が旅(遠出)をする場合、大小の黒山まで至ることはできるが、神通力や他者の助力がなければそこを越えることはできない。
下界の衆生は神通力を得るか他の助力(上天の迎え)に頼らないと、上界を見たり行ったりすることはできない。
つまり、我々閻浮提人が船を使ったりや飛行機を飛ばしたりして辿り着けるのは「黒山」が限界だ。

善男子よ、閻浮提に日が入る時を衆生は見ざるが如し。黒山が障るを以ての故にして、是れ日は性として実には没入すること無し。衆生が見ずして没入すとの想いを生ずるのみ。
『大般涅槃経』 高貴徳王菩薩品之五
夕暮れに太陽が地下へ沈んで見えるのは、実際は黒山という山に遮られるためである。
つまり、日月自体は須弥山を基軸に水平に周回している。
大地の厚さと空の高さ(上下の果て)
大地が平面なら、その深さはどれくらいか?空はどこまで高く続いているのか?
その答えも経典にある。
下方(地下)
この閻浮提の下、五百由旬を過ぎたところに琰魔(閻魔)王国がある。
縦横の広さもまた同じである。※或は三万六千由旬の広さとも
閻魔王国は諸々の鬼の根本の住所である。
閻浮提(人間界)から下へ一万由旬の所に夜摩世間地獄がある。
閻浮提から下へ二万由旬いった所に、無間大地獄がある。その深さは二万由旬ある。
この二つの間に、七大地獄などの他の地獄が存在する。
地獄の四万由旬を通り越して、大地の下には金輪があり、厚さは三十万由旬強ある。
大地の厚さも含めれば。四十八万由旬である。
大地の下には水の集まりの層(水輪)があり、厚さは六十万由旬(八十万由旬とも)である。
水輪と金輪の周囲の長さは三十六億一万三百五十由旬である。
水輪の下には風が集まっている層(風輪)があり、厚さ三十六万由旬(百六十万由旬とも)あり、その周囲は計り知れない。

水輪の境から上、非想非非想天に至るまで、あらゆる三千大千世界は虚空に依って存在している。
三界(無色界・色界・欲界)の衆生の住処はすべて虚空に依っているが、その虚空は何にも圧迫されていない。
上方(天上の高さ)
閻浮提から上へ四万由旬いった所に、四天王天がある。
さらに四万由旬の上、八万由旬の所に、三十三天がある。
そして、閻浮提から上へ十二億八万由旬いった所に、他化自在天がある。
閻浮提から梵天の住処まではどれほどの距離があるか?
梵天の住処は非常に高い所にあり、閻浮提から遠く離れている。
例えば、九月十五日の満月に、ある人が梵天の住処から百丈四方の石を下界に向かって落としたとしよう。途中に何の妨げもなければ、来年の九月の満月の頃に閻浮提に届くほどである。
梵天の住処と閻浮提の距離はこのようである。
梵天の住処から少光天までは、さらにその倍の距離がある。
阿迦尼吒天(色界の最高天)から閻浮提へと巨大な密石の山を放ち、途中に何も妨げがなければ、六万五千年五百三十五年を過ぎて、ようやく閻浮提に到達する。
阿迦尼吒天よりさらに上には無色界、無辺空処・無辺識処・無所有処・非想非非想処という天があり、これらが天の全て住処である。
我々衆生はこのような場所、世界に住んでいる。衆生が往来したり、生まれたり滅びたりする範囲はここが極まり(最果て)である。
この世界の全ての衆生には、生・老・死があり、このような生死の道に落ちて住み、ここを超えることはできない。
これを娑婆世界の無畏刹土という。他の十方の一切の世界もまた同じである。

雨が降る因縁
現代の科学では、雨というものは海や川の水が太陽の熱によって蒸発し、その水蒸気が上空で冷やされ雲となり降るという考え方だが、嘘だろう。
部分的、表面的にとらえているだけで正しくない。降雨の本当のしくみも実際はまだ解明されていないはずだ。
降雨は龍によってもたらされる。これが真実である。
龍宮に住む福徳を備える多くの善き龍、法に従って行動する龍たちは善い心を持つがゆえに、時節に応じて雨を降らせ、天下の五穀を成熟させ、人々に豊かさと安らぎをもたらす。
善龍は雹などを降らせて災いをもたらさない。彼らは仏法僧を信じ、法に従い、仏舎利を護っているからである。逆に悪竜は雹などを降らせて災いをもたらす。
このような善竜王たちには悪竜が被る熱砂の苦しみはなく、大きな楽を受けている。 彼らは四天下に恵みの雨を降らせる。
もし人々が法に従い、父母を敬い養い、沙門や婆羅門に供養し、正しい法を修行するならば、法行の竜王たちの力が増長する。
法力が勝るが故に、細やかな雨を降らせ五穀は熟し、作物の色形・香り・味は整い、花々は美しい咲き乱れ、災害もない。日月の威光も盛んとなり、悪竜も毒風を放つことがない。
又、善男子よ、天の亢旱するに、河池は悉く乾きて万卉焦枯し百穀零落す。
娑伽羅龍王の七日雲を構えて四方に雨を注ぐに、大地霑洽し、一切の種子は皆萌芽し、一切根株は皆開発し、一切の枝葉は皆蔚茂し、一切華果は皆敷栄するが如し。娑伽龍とは華厳の文也。長含に又云く、〔阿耨達の龍王、身心より雨を降らして閻浮提に満つ〕と。今の文に四方霔雨と云うは是れなり。
『摩訶止観』巻第五 『摩訶止観弘決』巻第五
七日と言うは、是れ摩那斯龍王、雨を降らさんと欲する時、先ず七日雲を布き、一切衆生をして諸の業を究竟せしめて漸く微雨を降らす。物を損ぜんことを恐るるが故なり。
仏子よ。例えば、阿耨達龍王が巨大な雨雲を起こし、閻浮提を覆い尽くして大雨を降らせると、あらゆる穀物や草木が生き生きと育ち、川や泉も全て満たされる。
『華厳経』 宝王如来性起品第三十二之二
この大雨は竜王の身体や心から出ているわけではないが、それによって無数の生き物が豊かな恵みを受ける。
<中略>
また、仏子よ。例えば、摩那斯龍王が雨を降らそうとするとき、まず厚い雲を起こして虚空を覆い尽くし、七日の間とどまって雨を降らせず、先に衆生のそれぞれの業を完了させる。
なぜかというと、その大龍王に慈悲の心があるからだ。七日を過ぎれば次第に小雨を降らせて広く大地を潤す。
<中略>
また、仏子よ。例えば、大海の中に「大荘厳」という名の大竜王がいる。
この竜王はある時は十日間、ある時は二十日間、或は百日、或は千日、百千日に亘って雨を降らせる。
仏子よ。雨そのものは「私は十日間雨を降らせる」とか「百千日間降らせる」とは考えない。
しかし、その竜王には不可思議な自在力があるからこそ、十日間、あるいは百千日に亘って雨を降らせることができるのだ。

雲について
世の中には四種類の雲がある。白雲・黒雲・赤雲・黄雲である。
この四つの雲のうち、白いものは地の要素(地大)が多く、黒いものは水の要素が多く、赤いものは火の要素が多く、黄色いものは風の要素が多い。

雷のしくみ
雲の中から電光が生じるのは二つの原因がある。
- 東方に「亢厚」という電光があり、南方に「順流」という電光があり、西方に「堕光明」という電光があり、北方に「百生樹」という電光がある。
あるとき、東方から出る「亢厚」という大きな電光が、西方の「堕光明」という電光と触れ合い、向かい合い、擦れ合い、打ち合うことがある。
そうして、その虚空の雲の中から大きな光が生じ、それが「電光」と呼ばれる。 - あるいは、南方の「順流」という大きな電光が、北方の「百生樹」という大きな電光と触れ合い、向かい合い、擦れ合い、打ち合うことがある。そうして、電光が生じる。
それは譬えると、二本の木が風に吹かれて互いに触れ合い、突然に火が生じ、そしてまた元の場所に帰るようである。

雲が発声する因縁
三つの因縁があり、それらが互いに触れ合うことによって、雲の集まりの中から音声が生じる。
- ある時、雲の中の風の要素(風界)が、地の要素(地界)に触れ合うことによって音声が生じる。それは譬えると、木の枝が擦れ合ったり磨れ合ったりすることで火が生じるようなものである。
- ある時、雲の中の風界が水界に触れ合うことによって、やはり音声が生じる。これも第一の因縁と同じ理屈である。
- ある時、雲の中の風界が火界に触れ合うことによって、やはり音声が生じる。
これを簡単に言えば、例えば二本の木が擦れ合って火が生じるようなものである。
降雨を妨げる因縁
降雨を妨げる五つの因縁がある。天候を占ったり予測したりする者が必ず雨が降ると予測したのに実際には雨が降らないことがある。
彼らはそれを測り知ることができず、ますます不審を深める。その五つとは、
- ある時、大空に雲が湧き、雷が鳴り、ガチャガチャ、グチュグチュという音を立て、稲光が走り、あるいは風が冷気を運んでくるなど、様々な雨の兆しが現れる。
この時、占う者や天文観測者たちは必ず雨が降ると断定する。
だがその時、羅睺羅阿修羅王がその宮殿から出て来て、両手でその雨雲を掴み海の中に投げ入れてしまう。
これが第一の雨の妨げとなる因縁である。天文師や占い師たちはこれを見ることも知ることもできず心に疑惑を生じる。必ず雨が降ると占ったのに、実際には雨が降らなかったからである。 - 火大の影響
※2以降は解説を省略 - 風大の影響
- 雨神の放逸
- 人々の悪行の積り
彗星や流れ星が現れる因縁
彗星
閻浮提の人々が正しい法を修行し、父母に孝養を尽くし、沙門や婆羅門、年長者を供養し、王や大臣が正しく国を治める。
すると、地神の夜叉たちは非法の悪龍や悪阿修羅が世間を破壊しようとしているのを見て海へ向かい、婆修吉や徳叉迦などの龍王たちにそのことを告げる。
また、虚空の夜叉たちにも同じことを伝える。
虚空の夜叉たちは地神の言葉を聞き、巨大な体と神通力をもって大いに怒り、口から煙を吐きながら大空を飛び、四天王の元へ向かいこう言う。「提婆天王よ、非法の悪龍や劣った阿修羅たちが、今まさに閻浮提で法を守り、孝養を実践する人々を損なおうとしています!」
閻浮提(人間界)において、邪見に満ちた論師たちは、その夜叉の口から煙が出ているのを見て、「彗星が現れた!」と言う。
そして、「これは閻魔王の百一人の子だ」と語る。しかし実際は、百一人の大力の夜叉だったのである。
当時の人々の中には、それを見る者もいれば見ない者もいた。
世俗の占い師たちは言う。「それは閻魔王の百一人の子である」と。しかし、彼らは事実を正しく知ることはない。
さらに誤った見解を起こして「豊作の兆しだ」と言い、あるいは「飢饉がやって来る」「王様に幸いが訪れる」「王様が亡くなる」「戦争が起こる」「戦争は起こらない」「牛バラモンにとって吉凶がある」「水害や干ばつの兆しだ」「某国は不吉で衰退する」「某国には何もない」と様々に語るが、すべて虚偽であり真実ではない。

流れ星
- あの巨大な体と大きな神通力を持つ夜叉が、天衆に先の出来事(悪龍や悪阿修羅の企み)を告げる。
その時、四天王が夜叉に告げた。「恐れるな、恐れるな。諸天は尊く勝れており、阿修羅の衆は弱く劣っている。何ができるというのか?なぜなら、閻浮提の人々は正しい法を修行し、父母に孝行を尽くし、沙門や婆羅門、年長者を供養し敬っているからだ。 その故に我々の勢力は増大し、阿修羅は弱まり何もできなくなるのだ。」
虚空の神々や大神通力を持つ大夜叉たちは天の言葉を聞いて歓喜踊躍し、悪龍や悪阿修羅に大きな怒りを生じた。
そしてすぐに降り、善い龍王である婆修吉や徳叉迦などのもとへ行き、先の因縁を報告しようとした。
空中から降りる時、全身の各部から炎が赫々と輝き、それを見た人々は皆、「憂流迦(流れ星)が降りてきた!」と言う。※中国では「天狗が下りる」といわれる。
もし夜に降りると人々はそれを見るが、昼に降りると見ない人もいる。
世間の邪見の呪術師たちはこれらの相を見た後、彗星のときのように様々な異説を説くが、彼らは業の果報を知らない。似たようなものに従って説いているに過ぎず、真実ではない。
- また、憂流迦(流星)が天から降るのには別の因縁がある。
大空での天人の移動は非常に速く、宮殿もそれに従う。
二つの宮殿が並んで走ることがあり、それが互いに擦れ合って火が起こり、炎を輝かせながら天上から降りてくる。
呪術師や占星者たちはこれを見て、同じように上のような異説を展開する。
世間の偽りの論には様々に説かれるが、その相(現象)の因縁は明らかにされない。
なぜなら、ただその姿を見たままに説くだけであり、業と果を認識しないからである。
一切の世間の沙門や婆羅門・天・魔・梵天・阿修羅といえども、このような微細な業の因縁と果報を正しく知ることができず、十善業道を思惟することができない。ただ、如来だけは別である。
地震が起こる因縁
プレートテクトニクスによる地震の発生理論は嘘。マントルの対流など無い。
大智度論の説
大地の震動する原因は四種類がある。
- 火が動くため
- 龍が動くため
天と阿修羅の戦いにおいて、阿修羅に騙られた悪しき竜王は、自らの宮殿に入り激しく怒り狂い、大水を震動させる。
その揺れはある時は百由旬、二百由旬、三百由旬にも及ぶ。
大地は水の上にあり、水が動くことで大地も大きく揺れる。
このような悪い竜王が大地を揺るがすと、世間の邪見の論師たちは次のように分析する。
「このような兆しは、国土に災いや飢饉が起こる事を示している」あるいは、「豊作と繁栄の兆しだ」とも言い、「王が亡くなり大臣が災いを受ける」「王に霊妙な瑞兆や吉祥が訪れる」「戦が起こる」「安穏である」「水害の兆しだ」「干ばつの兆しだ」…と様々に邪説する。
世間の相師たちはこのように地震の相について語るが、その揺れの本当の原因を知ることはない。 - 金翅鳥が動くため
- 天の二十八宿など
また、羅漢や諸天なども大地を震動させることができる
般泥洹經等の説
大地が震える原因には、三つの因縁がある。
- 大地は水の上にあり、水は風の上にあり、風は虚空の上にある。
地下には「持風」と呼ばれる風がある。
この持風が動くことによって大水が動き、大水が動くことによって大地が動く。
その揺れは五十由旬、あるいは百由旬、二百由旬、三百由旬、あるいは四百由旬にも及ぶ。
風の広がりに応じて水の動きもまた変わり、水の広がりに応じて大地の動きもまた変わる。 - 得道の沙門や神通力を持つ天人が、その感応力を示そうとするとき、大地が震えることがある。
- 仏の力によるもの。菩薩が仏となる前後において、三千の日月と一万二千の天地を揺り動かし、すべてのものが感応する。天人や人間、鬼神たちは、その多くがこれを体感して道に入る。
まとめると、これもまた衆生の業の力によって、大地が震動するといえる。
注意するべきこと
巷でフラットアースを宣伝している者にはキリスト教信者が多いが、私はそうではない。仏教徒である。
中村氏等の解説を参考に、合理的に考えれば大地が平面であることは間違いない。
しかし、だからといって同じように平面であることを理解しているキリスト教徒には与しない。
魔書も大地平面説を採っており、邪書を信じる彼らはフラットアースが自分たちの教義と合致するから平面説を採用しているといえる。
そして、フラットアースが広まれば、それだけ自分たちの邪教の普及にも都合がいいから平面であることを支持しているともいえる。
最終的には平面説を理解した人たちを絡めとって、キリスト教信仰に誘導するつもりでいるのだ。
彼らを警戒しなければならない。
ただ、大地が平面であるという理のみ採用して、キリスト教は拒否するべし。

フラットアースの奥義
フラットアースをさらに突き詰め、その奥義を仏法から明かそう。
この大地平面の事実を受け入れたなら、最終的に以下のことを信じるべきである。
実は、我々が住んでいるこの世界の大地の下の空間には、無数の菩薩が存在するのだ。
爾の時に他方の国土の諸の来れる菩薩摩訶薩の八恒河沙の数に過ぎたる、大衆の中に於て起立し合掌し礼を作して、仏に白して言さく、「世尊、若し我等仏の滅後に於て此の娑婆世界に在って、勤加精進して是の経典を護持し読誦し書写し供養せんことを聴したまわば、当に此の土に於て広く之を説きたてまつるべし」
『妙法蓮華経』 従地涌出品第十五
爾の時に仏、諸の菩薩摩訶薩衆に告げたまわく、「止みね、善男子、汝等が此の経を護持せんことを須いじ。所以は何ん、我が娑婆世界に自ら六万恒河沙等の菩薩摩訶薩あり。一一の菩薩に各六万恒河沙の眷属あり。是の諸人等能く我が滅後に於て、護持し読誦し広く此の経を説かん」
仏、是れを説きたもう時、娑婆世界の三千大千の国土地皆震裂して、其の中より無量千万億の菩薩摩訶薩あって同時に涌出せり。是の諸の菩薩は身皆金色にして、三十二相・無量の光明あり。先より尽く娑婆世界の下、此の界の虚空の中に在って住せり。是の諸の菩薩、釈迦牟尼仏の所説の音声を聞いて下より発来せり。
奥義といっても、最高の経典である法華経に書かれていることを引用したまでだ。
要するに、我々が住む大地の下の空間には、釈迦の直弟子である無数の菩薩が在住して末法での出現を刻々と待っているということを示すのだ。
これは仏教最大の秘密である。信じ難いが信じなければならない。
この奥義は自分の頭で解釈するのではなく、ただ書かれている通りに信じることでしか会得できない。
もし大地が球体なら、この経文は通用しなくなる。
大地が平面であることは自然の摂理であり、その事実を受け入れるなら、それを基にこの法華経の涌出品の経文も受け入れやすくなる。
私が大地平面を取り上げている理由はそれでもある。
平面であることを理解したなら、そのまま仏教に就いて法華経を信じるべきである。


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