中村氏が提唱している大地平面説を立証するため、仏教経典から当該箇所を引用してさらに補足する。
日行天を「外道説爲日曜等」とは、外人又北方の星は沒せざる者なりと計す。
『法華玄義釋籤』巻第十
又『立世阿毘曇』に「外道、大地恒に去ること息まず」と計するもの有り。佛破して云く、「物を擲って前に向くるに物應に後に向くべし。
又有るが計して云く「地恒に墜下す」と。佛言く「物を擲って上に向くるに應に地に至らざるべし」と。
有るが計す「星は移らずして地自ら動転すと。佛言く「射るに應に堋に至らざるべし。
現代語訳:外道の人間は北極星は不動だと決めつけている。
また立世阿毘曇にはこう説かれる、
ある外道は、「大地は常に離れていって止まらない」と決めつけいる。
仏は論破して曰く「それなら、物を前に向かって投げれば戻ってくるはずである。
またある外道は言う「大地は常に下降している」と。
仏曰く「物を上方に投げれば、まさに落ちてこなくなるはずである」
またある外道は推し量る「星々は移動せずに、大地が自ら回っているのだ」と。
仏曰く「物を発射すれば、的に至らないはずである」
訳が自己流で拙いのだが文意をとらえて欲しい。
この『立世阿毘曇』という論書にある説法は非常に単純だが真相を突いているといえよう。
我々が踏みしめている大地は球体ではなく平面です。動いているのは大地ではなく、天体です。
こちらが立世阿毘曇の原文です。
有諸外道。作如是說。是大地界。恒去不息。是言應答。此事不然。若實爾者。如人擲前。物應落後。又諸外道作如是說。是大地界。恒墜向下。是言應答。此事不然。若實爾者。如向上擲。應不至地。又諸外道作如是說。日月星辰。恒住不移。大地自轉。疑是天迴。是言應答。此事不然。若如是者。射不至堋。又諸外道作如是說。大地恒浮。隨風來去。應如是答。此事不然。若實爾者。地恒併動。若不爾者。地作何相。地住不動。如是義者。諸佛世尊已說。
『佛說立世阿毘曇論』
さらに、太陽や月の実態、夜や四季の寒暖差がある本当の理由も明らかにされている。
次日行天遶須彌山住於宮殿。外道説爲日曜及星宿。略説三十六億。昔持七戒令得増上果。風輪所持。此日行等大天與二大天。謂提頭頼吒毘沙門。遊四天下遊戲空中。受五欲樂如意自娯。日行遶須彌山。隨在何方山有影現。人説爲夜。風輪持北方星輪轉不沒。外道見辰星不沒。謂其能持一切世間國土。不知風力所爲也。
『妙法蓮華経玄義』巻第四
現代語訳:次に、日天子(日の神)は天上の宮殿に住んでおり、須弥山の周りを巡りながら移動します。外道は、これを「太陽」や「星宿(星座)」だと説いており、おおまかに三十六億の存在があるとしています。
昔、これらの存在は七つの戒め(七戒)を守っていたため、非常に優れた果報を得ました。日天子やそれに属する天は、風輪(気圧)によって支えられています。
この日天子などの大いなる神々と、さらにそれに並ぶ二柱の大天、すなわち提頭頼吒(持国天と毘沙門天)は四天下を自由に巡り、空中を遊行し五欲を享受して自らの意のままに楽しんでいます。
日天子は須弥山の周りを巡るため、どの方向にあっても山の反対側には影が差し、それによって人々は「夜になった」と言います。
また、風輪が北方の星(辰星=北極星)を支えており、それが回転し続けて沈むことがないため、外道はこの星が全ての世界や国土を支えていると思い込んでいますが、実際にはこれは風の力(気圧)によるものなのです。
夜半(黒半)と白半(白半)について
云何黒半。云何白半。由日黒半。由日白半。
日恒逐月行一一日相近。四萬八千八十由旬。日日相離亦復如是。
若相近時日日月圓被覆三由旬。又一由旬三分之一。以是事故十五日月被覆則昼是日黒半滿。
日日離月亦四萬八千八十由旬月日日開三由旬。又一由旬三分之一。以是事故十五日月則開淨圓滿。世間則名白半圓滿日月。
若最相離行是時月圓。世間則說白半圓滿日月。
若共一處是名合行。世間則日黑半圓滿。若日隨月後行日光照月光。月光麁故被照生影。此月影還自翳月。是故見月後分不圓。以是事故漸漸掩覆。至十五日覆月都盡。
隨後行時是名黑半。若日在月前行日日開淨亦復如是。至十五日具足圓滿。在前行時是名白半。
夜の半分を「黒半」、昼の半分を「白半」と呼ぶ。それは太陽の位置によって生じる。
太陽は常に月に追随し、一日づつ近づく。その距離は四万八千八十由旬(時間・角度などの天文単位)である。離れていくのも同じくらいの距離である。
太陽と月が最も近くづくと、一日に月は三由旬と三分の一由旬ずつ欠けていき、十五日目には月は欠けきってしまい、このとき昼は「日黒半満(新月)」となる。
そこから毎日同じ距離だけ月から遠ざかり、月は三由旬と三分の一由旬由旬ずつ満ちていく。だから十五日目には満月となる。世間ではこれを「白半円満の日月」と呼ぶ。
最も離れているときが満月であり、最も近づいているときが新月である。
太陽と月が重なるときは「合行」(日食)と呼ばれ、世間では「日黒半円満」と言う(夜が最も長い新月の夜)。太陽が月の後を追う場合、太陽の光が月に当たるが月光が粗いため影ができ、その影が月自体を覆う。こうして月は徐々に欠け、十五日目には欠けきってしまう。
逆に太陽が月の前にある時は月食である。その日から毎日月が満ちていき、同じ理屈で十五日目に再び満月となる。つまり、月が太陽より先に位置する時が「白半」(満ちている半分)である。
四季(醯曼多・禽河・跋娑)について
云何冬時說醯曼多。此時雪應落寒已至故。是故冬時說名醯曼多。世間立此自性名醯曼多。云何春時名曰禽河。日照炙時是正熱時正是渴時。故說春時名為禽河。世間立此自性名為禽河。云何夏時名為跋娑。是天雨時是疑雨時是年初時。是故說夏名曰跋娑。世間自性立名跋娑。
冬の時節をなぜ「醯曼多」というのか?それは雪が降り、寒さが到来するからだ。
そのため冬の節気は「醯曼多」と呼ばれ、世間でもこの性質からその名を定めている。
春時をなぜ「禽河」と呼ぶのか?太陽の光が強く、水を渇望する時節だからだ。それで、この名がついた。世間でも同様に定義している。
夏時をなぜ「跋娑」と言うのか?雨が多く雨季の初めの時節だからだ。これも世間の風習に従っている。
四時の寒暖について
云何冬寒。云何春熱。云何夏時寒熱。是冬時水界最長未減盡時。草木由濕未萎乾時。地大濕滑火大向下水氣上昇。所以知然。深水最暖。淺水則寒。寒節已至日行外路照炙不久。陽氣在內食消則速。以是事故冬時則寒。云何春熱。是禽河時水界長起。已減已盡草木乾萎地已燥坼。水氣向下火氣上昇。何以知然。深水則冷。淺水則熱。冬時已過日行內路照炙則久。身內火羸故春時熱。云何夏時冷熱。是大地八月日中恒受照炙。大雲降雨之所灑散地氣蒸欝。若風吹時蒸氣消已是時則寒。風若不起是時即熱。是故跋娑有時寒熱。
冬が寒く、春が暑いのはなぜか?夏には暑さと寒さが入り混じるのはなぜか?
それは、冬は水の気の支配が最長で、湿度が高く水分が蒸発せず草木が萎れず、土地はぬかるみ、火の気が下に下がり、水の気が上がるから寒くなるのだ。
深い水は暖かく、浅い水は冷たい。寒期が来て太陽が外側を回るため日照時間が短く、陽気が体内で消耗するのも早いため、冬は寒くなるのだ。
春は「禽河」の時節で水気の影響が衰え、草木が乾き地面が割れる。水の気は下がり火の気は上っていく。深い水は冷たく浅い水は暖かい。冬が過ぎ、太陽が内側の周期に入って長時間照らすようになると、身体の内なる火(代謝)が弱っているため春は暑く感じる。
夏の八月(旧暦)には大地が昼間ずっと太陽に晒され、大きな雲が雨を降らせ、その水気が蒸発して地気がこもる。風が吹けば蒸気が散って涼しくなり、吹かなければ蒸し暑くなる。だから「跋娑」の時期には暑い時と寒い時が混じるのだ。
空はなぜ青いのか
妙高山王四寶為體。謂如次四面北東南西金銀吠琉璃頗胝迦寶。隨寶威德色顯於空。故贍部洲空似吠琉璃色。
『俱舎論』巻第十一
須弥山は四つの宝でできている。北面は金、東面は銀、南面は瑠璃、西面は水晶。
日がその面を照らすに随って、その宝の色が空に反射される。
故に、須弥山の南面に位置する我々が住んでいる閻浮提の空は、瑠璃の青きを反射して青いのである。

巷でフラットアースを宣伝している者にはキリスト教信者が多いが、私はそうではない。仏教徒である。
中村氏の解説を参考に合理的に考えても、大地が平面であることは間違いない。
しかし、だからといって同じように平面であることを信じるキリスト教徒には与しない。
魔書も大地平面説を採っており、魔書を信じる彼らはフラットアースが自分たちの教義とも合致するから平面説を採用しているのだ。
そして、フラットアースが広まれば、それだけ自分たちの邪教の普及にも都合がいいから平面であることを支持しているともいえる。
最終的には平面説を理解した人たちを絡めとって、キリスト教信仰に誘導するつもりでいるのだ。
彼らを警戒しなければならない。
ただ、大地が平面であるという理のみ採用して、キリスト教は拒否するべし。
フラットアースの奥義
フラットアースをさらに突き詰め、その奥義を仏法から明かそう。
この大地平面の事実を受け入れたなら、最終的に以下のことを信じるべきである。
実は、我々が住んでいるこの世界の大地の下の空間には、無数の菩薩が存在するのだ。
爾の時に他方の国土の諸の来れる菩薩摩訶薩の八恒河沙の数に過ぎたる、大衆の中に於て起立し合掌し礼を作して、仏に白して言さく、「世尊、若し我等仏の滅後に於て此の娑婆世界に在って、勤加精進して是の経典を護持し読誦し書写し供養せんことを聴したまわば、当に此の土に於て広く之を説きたてまつるべし」
『妙法蓮華経 従地涌出品第十五』
爾の時に仏、諸の菩薩摩訶薩衆に告げたまわく、「止みね、善男子、汝等が此の経を護持せんことを須いじ。所以は何ん、我が娑婆世界に自ら六万恒河沙等の菩薩摩訶薩あり。一一の菩薩に各六万恒河沙の眷属あり。是の諸人等能く我が滅後に於て、護持し読誦し広く此の経を説かん」
仏是れを説きたもう時、娑婆世界の三千大千の国土地皆震裂して、其の中より無量千万億の菩薩摩訶薩あって同時に涌出せり。是の諸の菩薩は身皆金色にして、三十二相・無量の光明あり。先より尽く娑婆世界の下、此の界の虚空の中に在って住せり。是の諸の菩薩、釈迦牟尼仏の所説の音声を聞いて下より発来せり。
奥義といっても、最高の経典である法華経に書かれていることを引用したまでだ。
要するに、平面である大地の底の空間には、釈迦の直弟子である無数の菩薩が在住して末法での出現を刻々と待っているということ。
これは仏教最大の秘密である。信じ難いが信じなければならない。
この奥義は自分の頭で解釈するのではなく、ただ書かれている通りに信じることでしか会得できない。
もし大地が球体なら、この経文は通用しなくなる。
大地平面説は自然の摂理であり、その事実を受け入れるなら、それを基にこの法華経の地涌出品の経文も受け入れやすくなる。
私が大地平面説を取り上げている理由はそれでもある。
平面であることを理解したなら、そのまま仏教に就いて法華経を信じるべきである。
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