(人王)第三十代は欽明天皇。此の皇は第二十七代の継体の御嫡子也。治三十二年。此の皇の治十三年[壬申]十月十三日[辛酉]、百済国の聖明皇、金銅の釈迦仏を渡し奉る。今日本国の上下万民一同に阿弥陀仏と申す此れ也。其の表文に云く ̄臣聞万法之中仏法最善。世間之道仏法最上。天皇陛下亦応修行。故敬捧仏像・経教・法師附使貢献。宜信行者〔臣聞く、万法の中、仏法最も善し。世間の道、仏法最上なり。天皇陛下亦修行あるべし。故に敬って仏像・経教・法師を捧げて、使いに附して貢献す。宜しく信行あるべきものなり〕[已上]。然りといへども欽明・敏達・用明の三代三十余年は崇め給ふ事なし。其の時の天変地夭は今の代にこそにて候へども、今は亦其の代にはにるべくもなき変夭也。
第三十三代崇峻天皇の御宇より仏法我が朝に崇められて、第三十四代推古天皇の御宇に盛んにひろまり給いき。此の時三論宗と成実宗と申す宗始めて渡て候ひき。此の三論宗は月氏にても漢土にても日本にても大乗の宗の始めなり。故に故に宗の母とも、宗の父とも申す。
人王三十六代に皇極天皇の御宇に禅宗わたる。人王四十代天武の御宇に法相宗わたる。人王四十四代元正天皇の御宇に大日経わたる。人王四十五代に聖武天皇の御宇に華厳宗を弘通せさせ給ふ。人王四十六代孝謙天皇の御宇に律宗と法華宗わたる。しかりといへども、唯律宗計りを弘めて、天台法華宗は弘通なし。
人王第五十代に最長と申す聖人あり。法華宗を我と見出して、倶舎宗・成実宗・律宗・法相宗・三論宗・華厳宗の六宗をせめをとし給ふのみならず、漢土に大日宗と申す宗有りとしろしめせり。同じき御宇に漢土にわたりて四宗をならいわたし給ふ。所謂法華宗・真言宗・禅宗・大乗の律宗也。しかりといへども、法華宗と律宗とをば弘通ありて、禅宗をば弘め給はず。真言宗をば宗の字をけづり、たゞ七大寺等の諸僧に潅頂を許し給ふ。然れども世間の人々はいかなる故という事をしらず。当時の人々の云く 此の人は漢土にて法華宗をば委細にならいて、真言宗をばくはしく知し食し給はざりけるか、とすい(推)し申す也。
同じき御宇に空海と申す人漢土にわたりて、真言宗をならう。しかりといへどもいまだ此の御代には帰朝なし。人王第五十一代に平城天皇の御宇に帰朝あり。五十二代嵯峨の天皇の御宇に弘仁十四年[癸卯]正月十九日に、真言宗の住処東寺を給ひて護国教王院とがうす。伝教大師御入滅の一年の後也。
人王五十四代仁明天皇の御宇に円仁和尚漢土にわたりて、重ねて法華・真言の二宗をならいわたす。人王五十五代文徳天皇の御宇に仁寿と斎衝とに、金剛頂経の疏、蘇悉地経の疏、已上十四巻を造りて、大日経の義釈に竝べて真言宗の三部とがうし、比叡山の内に・持院を建立し、真言宗を弘通する事此の時なり。叡山に真言宗を許されしかば、座主両方を兼ねたり。しかれども法華宗をば月のごとく、真言宗をば日のごとくいいしかば、諸人等は真言宗はすこし勝れたりとをもいけり。しかれども座主は両方を兼ねて兼学し給ひけり。大衆も又かくのごとし。
同じき御宇に円珍和尚と申す人御入唐。漢土にして法華・真言の両宗をならう。同じき御代に天安二年に帰朝。此人は本朝にしては叡山第一の座主義真・第二の座主円澄・別当光定・第三の座主円仁等に法華・真言の両宗をならいきわめ給ふのみならず、又東寺の真言をも習ひ給へり。其の後に漢土にわたりて法華・真言の両宗をみがき給ふ。今の三井寺の法華・真言の元祖智証大師此れ也。
已上四大師也。総じて日本国には真言宗に又八家あり。東寺に五家、弘法大師を本とす。天台に三家、慈覚大師を本とす。
人王八十一代をば安徳天皇と申す。父は高倉院の長子、母は大政入道の女建礼門院なり。此の王は元暦元年[乙巳]三月二十四日八嶋にして海中に崩じ給ひき。此の王は源の頼朝将軍にせめられて海中のいろくづの食となり給ふ。人王八十二代は隠岐の法皇と申す。高倉の第三王子。文治元年[丙午]御即位。八十三代には阿波の院。隠岐の法皇の長子。建仁二年に位に継ぎ給ふ。八十四代には佐渡の院。隠岐の法皇の第二の王子。承久三年[辛巳]二月二十六日に王位につき給ふ。同じき七月に佐渡のしまへうつされ給ふ。此の二三四の三王は父子也。鎌倉の右大将の家人義時にせめられさせ給へる也。
『神国王御書』
先ず山門はじまりし事は此の国に仏法渡って二百余年、桓武天皇の御宇に伝教大師立て始め給いしなり。当時の京都は昔聖徳太子王気ありと相し給いしかども、天台宗の渡らん時を待ち給いし間都をたて給わず。又上宮太子の記に云く ̄我滅後二百余年仏法日本可弘〔我が滅後二百余年に仏法日本に弘まるべし〕云云。伝教大師延暦年中に叡山を立て給う。桓武天皇は平の京都をたて給いき。太子の記文たがわざる故なり。
『祈祷鈔』
夫れ人王三十代欽明の御宇、始めて仏法渡りし以来、桓武の御宇に至るまで、二十代二百余年之間、六宗有りと雖も仏法未だ定まらず。爰に延暦年中に一りの聖人有りて此の国に出現せり。所謂伝教大師是れ也。此の人先より弘通する六宗を糺明し、七寺を弟子と為して、終に叡山を建てて本寺と為し、諸寺を取りて末寺と為す。日本の仏法唯一門なり。
『四信五品抄』
人王四十五代聖武天皇の御宇に、唐の揚州龍興寺の鑒真和尚と申せし人、漢土より我が朝に法華経天台宗を渡し給ひて有りしが、円機未熟とやおぼしけん、此の法門をば己心に収めて口にも出だし給はず。大唐の終南山の豊徳寺の道宣律師の小乗戒を日本国の三所に建立せり。此れ偏に法華宗の流布すべき方便なり。大乗出現の後には肩を竝べて行せよとにはあらず。例せば儒家の本師たる孔子・老子等の三聖は仏の御使として漢土に遣はされて、内典の初門に礼楽の文を諸人に教へたり。
<中略>
人王第五十代桓武天皇の御宇に伝教大師と申せし聖人出現せり。始めには華厳・三論・法相・倶舎・成実・律の六宗を習ひ究め給ふのみならず、達磨宗の淵底を探り究竟するのみならず、本朝未弘の天台法華宗・真言宗の二門を尋ね顕して浅深勝劣を心中に存じ給へり。去る延暦二十一年正月十九日に桓武皇帝高雄寺に行幸ならせ給ひ、南都七大寺の長者善議・勤操等の十四人最澄法師等召し合わせ給ひて、六宗と法華宗との勝劣浅深得道の有無を糾明せられしに、先は六宗の碩学各々宗々ごとに我が宗は一代超過、一代超過の由立て申されしかども、澄公の一言に万事破れ畢んぬ。其の後皇帝重ねて口宣す。和気の弘世を御使として諌責せられしかば、七大寺六宗の碩学一同に謝表を奉り畢んぬ。
『下山御消息』
又石淵の勤操僧正の御弟子に空海と云う人あり。後には弘法大師とがうす。去ぬる延暦二十三年五月十二日に御入唐、漢土にわたりては金剛智・善無畏の両三蔵の第三の御弟子慧果和尚といゐし人に両界を伝受、大同二年十月二十二日に御帰朝、平城天王の御宇なり。桓武天王は御ほうぎよ、平城天王に見参し、御用ひありて御帰依他にことなりしかども、平城ほどもなく嵯峨に世をとられさせ給ひしかば、弘法ひき入れてありし程に、伝教大師は嵯峨の天王弘仁十三年六月四日御入滅。同じき弘仁十四年より弘法大師、王の御師となり、真言宗を立て東寺を給ひ、真言和尚とがうし、此より八宗始る。
『報恩抄』
日本我が朝には華厳等の六宗、天台・真言已前にわたりけり。華厳・三論・法相、諍論水火なりけり。伝教大師此の国にいでて、六宗の邪見をやぶるのみならず、真言宗が天台の法華経の理を盗み取て自宗の極とする事あらわれおわんぬ。伝教大師宗々の人師の異執をすてて専ら経文を前として責めさせ給いしかば、六宗の高徳八人・十二人・十四人・三百余人竝びに弘法大師等せめおとされて、日本国一人もなく天台宗に帰伏し、南都・東寺・日本一州の山寺、皆叡山の末寺となりぬ。又漢土の諸宗の元祖の天台に帰伏して謗法の失をまぬかれたる事もあらわれぬ。
『開目抄』
像法之末八百年に相当りて、伝教大師、和国に託生して華厳宗等の六宗之邪義を糺明するのみに非ず、加之、南岳・天台も未だ弘めたまはざる円頓の戒壇を叡山に建立す。日本一州之学者、一人も残らず大師の門弟と為る。但天台と真言との勝劣に於ては誑惑と知りて而も分明ならず。所詮、末法に贈りたまふか。
『曾谷入道殿許御書』
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