真言は国を亡ぼす悪法(4)

真言天台勝劣事 文永七年

問ふ 何なる経論に依て真言宗を立つる耶。
 答ふ 大日経・金剛頂経・蘇悉地経、並びに菩提心論。此の三経一論に依て真言宗を立つる也。
 問ふ 大日経と法華経と何れか勝れたる耶。
 答ふ 法華経は或は七重、或は八重の勝也。大日経は七八重劣也。
 難じて云く 古より今に至るまで、法華より真言劣れると云ふ義、都て之無し。之に依て弘法大師は十住心を立てゝ法華は真言より三重の劣と解釈し給へり。覚鑁かくばんは法華は真言の履取りに及ばずと釈せり。打ち任せては密教勝れ顕教劣る也と世挙って此れを許す。七重の劣と云ふ義は甚だ珍しき者をや。
 答ふ 真言は七重の劣と云ふ事珍しき義也と驚かるゝは理也。所以に法師品に云く_已説。今説。当説。而於其中。此法華経。最為難信難解〔已に説き今説き当に説かん。而も其の中に於て此の法華経最も為れ難信難解なり〕云云。又云く_於諸経中。最在其上〔諸経の中に於て最も其の上にあり〕云云。此の文のこゝろは、法華は一切経の中に勝れたり此其一
 次に無量義経に云く_次説方等。十二部経。摩訶般若。華厳海空〔初め四諦を説いて 乃至 次に方等十二部経・摩訶般若・華厳海空を説いて〕云云。又云く_真実甚深。甚深甚深〔真実甚深甚深甚深なり〕云云。此の文の心は、無量義経は諸経の中に勝れて甚深の中にも猶ほ甚深也。然れども法華の序分にして機もいまだなましき(不熟)故に、正説の法華には劣る也此其二。
 次に涅槃経九に云く_是経出世如彼果実多所利益安楽一切 能令衆生見於仏性。如法華中八千声聞 得授記雕成大果実 如秋収冬蔵更無所作〔是の経の出世は、彼の果実の一切を利益し安楽する所多きが如く、能く衆生をして仏性を見せしむ。乃至 法華の中の八千の声聞に記雕を授けることを得て大果実成ずるが如し、秋収冬蔵して更に所作無きが如し〕。云云。籤の一に云く_一家義意謂二部同味然涅槃尚劣〔一家の義意。謂く二部同じ味なれども、然も涅槃、なお劣る〕云云。文の心は涅槃経も醍醐味、法華経も醍醐味。同じ醍醐味なれども涅槃経は尚ほ劣る也。法華経は勝れたりと云へり。涅槃経は既に法華の序分の無量義経よりも劣り、醍醐味なるが故に華厳経には勝れたり此其三。
 次に華厳経は最初頓説なるが故に般若には勝れ、涅槃経の醍醐味には劣れり此其四。
 次に蘇悉地経に云く_猶不成者或腹転読大般若経七返〔なお成ぜざる者は、或はまた大般若経を七遍転読すること〕云云。此の文の心は大般若経は華厳経に劣り、蘇悉地経には勝ると見えたり此其五
 次に蘇悉地経に云く_於三部中 此経為王〔三部の中に於て此の経を王と為す〕云云。此の文の心は蘇悉地経は大般若経には劣り、大日経・金剛頂経には勝ると勝ると見えたり。此其六
 此の義を以て大日経は法華経より七重の劣とは申す也。法華本門に望むれば八重の劣とも申す也。
 次に弘法大師の十住心を立てゝ法華は三重劣ると云ふ事は、安然の教時義と云ふ文に十住心の立て様を破して云く 五つの失有り。謂く 一には大日経の義釈に違する失。二には金剛頂経に違する失。三には守護経に違する失。四には菩提心論に違する失。五には衆師に違する失也。此の五つの失を陳ずる事無くしてつまり給へり。然る間、法華は真言より三重の劣と釈し給へるが、大なる僻事也。謗法に成りぬと覚ゆ
 次に覚鑁の法華は真言の履取りに及ばずと舎利講の式に書かれたるは下に任せたる言也。証拠無き故に謗法なるべし。
 次に世を挙げて密教勝れ、顕教劣ると、此れを云ふ事、是れ偏に弘法を信じて法を信ぜざる也。所以に弘法をば安然和尚、五失有りと云ひて、用ひざる時は世間の人は何様に密教勝ると思ふべき。抑そも密教勝れ顕教劣るとは何れの経に説きたるや。是れ又、証拠無き事を世を挙げて申す也。
 猶ほ難じて云く 大日経等は是れ中央大日法身、無始無終の如来、法界宮、或は色究竟天、他化自在天にして、菩薩の為に真言を説き給へり。法華は釈迦応身、霊山にして二乗の為に説き給へり。或は釈迦は大日の化身也とも云へり。成道の時は、大日の印可を蒙りて、鞳字の観を教へられ、後夜に仏になる也。大日如来だにもましまさずば、争でか釈迦仏母仏に成り給ふべき。此等の道理を以て案ずるに、法華より真言勝れたる事は、云ふに及ばず也。
 答て云く 依法不依人の故に、いかやうにも経説のやうに依るべき也。大日経は釈迦の大日となて説き給へる経也。故に金光明最勝王経の第一には中央釈迦牟尼と云へり。又、金剛頂経の第一にも中央釈迦牟尼仏と云へり。大日と釈迦とは一つ中央の仏なるが故に、大日経をば釈迦の説とも云ふべし。大日の説とも云ふべし。又、鐐盧遮那と云ふは天竺の語、大日と云ふは此土の語也。釈迦牟尼を毘盧遮那と名づくと云ふ時は大日は釈迦の異名也。加之、旧訳の経に盧舎那と云ふをば、新訳の経には毘盧遮那と云ふ。然る間、新訳の経の毘盧遮那法身と云ふは、九や金剛頂経の経の毘遮那多受用身也。故に大日法身と云ふは法華経の自受用報身にも及ばず。況んや法華経の法身如来にはまして及ぶべからず。法華経の自受用法身とは真言には分絶えて知らず也。法報不分二三莫弁と天台宗にもきらはるゝ也。随て華厳経の新訳の仏とは意得べきや。
 次に大日は只是れ釈迦の異名也。なにしに別の仏とは意得べきや。
 次の法身の説法と云ふ事、何れの経の説ぞや。弘法大師の二教論には楞伽経に依て法身の説法を立て給へり。其の楞伽経と云ふは釈迦の説にして、未顕真実の権教也。法華経の自受用身に及ばざれば、法身の説法とはいへども、いみじくもなし。此の上に法は定めて説かず、報はに義に通ずるの二身の有るをば一向知らず也。故に大日法身の説法と云ふは定めて法華の他受用身に当る也。
 次に大日無始無終と云ふ事、既に_我昔坐道場 降伏於四魔〔我昔道場に坐して、四魔を降伏す〕とも宣べ、又、降伏四魔解脱六趣満足一切智智之明〔四魔を降伏し六種を解脱し、一切智智の明を満足す〕等云云。此れ等の文は大日は始めて四魔を降伏して、始めて仏に成るとこそ見えたれ。全く無始の仏とは見えず。又、仏に成りて何程を経ると説かざる事は権教の故也。実経にこそ五百塵点等をも説きたれ。
 次に法界宮とは、色究竟天歟。又、何の処ぞや。色究竟天、或は他化自在天は法華天台宗には別教の仏の説処と云ひていみじからぬ事に申す也。又、為菩薩説〔菩薩の為に説く〕とも高名もなし。例せば華厳経は一向菩薩の為なれども、尚ほ法華の方便とこそ云はるれ。只、仏出世の本意は仏に成り難き二乗の、仏に為るを一大事とし給へり。
 されば大論には二乗の仏に成るを密教と云ひ、二乗作仏を説かざるを顕教と云へり。此の趣ならば真言の三部経は二乗作仏の旨無きが故に還りて顕教と云ひ、法華は二乗作仏を旨とする故に密教と云ふべき也。随て諸仏秘密之蔵と説けば子細無し。世間の人、密教勝ると云ふはいかやうに意得たる耶。但し若し顕教に於て修行する者は久しく三大無数劫を経ると云ふ故に、是れ、三蔵四阿含経を指して顕教と云ひて、権大乗までは云はず。況んや法華実大乗までは都て云はず也。
 次に釈迦は大日の化身、鞳字を教へられてこそ仏には成りたれと云ふ事。此れは偏に六波羅蜜経の説也。彼の経一部十巻は此れ釈迦の説也。大日の説には非ず。是れ未顕真実の権教也。随て成道の相も三蔵教の教主の相也。六年苦行の後の儀式なるをや。彼の経説の五味を天台は盗み取りて己が宗に立つると云ふ無実を云ひ付けらるゝ弘法大師の大なる僻事也。所以に天台は涅槃経に依て立て給へり。全く六波羅蜜経には依らず。況んや天台死去の後、百九十年あて貞元四年に渡れる経也。何として天台は見給ふべき。不実の過、弘法大師にあり。およそ彼の経説は未顕真実也。之を以て法華経を下さん事甚だ荒量也。
 猶ほ難じて云く 如何に云ふとも印・真言・三摩耶尊形を説く事は大日経程法華経には之無し。事理倶密の談は真言ひとりすぐれたり。其の上、真言の三部経は釈迦一代五時の摂属に非ず。されば弘法大師の宝鑰には釈摩訶衍論を証拠として法華は無明の辺域、戯論の法と釈し給へり。爰を以て法華劣り真言勝ると申す也。
 答ふ 凡そ印相・尊形は是れ権経の説にして実教の談に非ず。設ひ之を説くとも権実大小の差別浅深有るべし。所以に阿含経等にも印相有るが故に、必ず法華に印相・尊形を説くことを得ずして之を説かざるに非ず。説くまじければ是れを説かぬにこそ有れ。法華は只三世十方の仏の本意を説きて、其の形がとある、かうあるとは云ふべからず。例せば世界建立の相を説かねばとて、法華は倶舎より劣るとは云ふべからざるが如し。
 次に事理倶密の事。法華は理秘密、真言は事理倶密なれば勝るゝとは何れの経に説かるや。抑そも法華の理秘密とは、何様の事ぞや。法華の理とは迹門開権顕実の理過。其の理は真言には分絶えて知らざる理也。法華の事とは又、久遠実成の事也。此の事又真言になし。真言に云ふ所の事理は未開会の権教の事理也。何ぞ法華に勝るべき乎。
 次に一代五時の摂属に非ずと云ふ事。是れ往古より諍ひ也。唐決には四教有るが故に方等部に摂すと云へり。教時義には、一切智智一味の開会を説くが故に、法華の摂と云へり。二義の中に方等の摂と云ふは吉義也。所以に一切智智一味の文を以て、法華の摂と云ふ事、甚だいはれなし。彼は法開会の文にして、全く人開会なし。争でか法華の摂と云はるべき。法開会の文は、方等・般若にも盛んに談ずれども、法華に等しき事なし。彼の大日経の始終を見るに、四教の旨具さにあり。尤も方等の摂と云ふべし。所以に開権顕実の旨、有らざれば法華と云ふまじ。一向小乗三蔵の義無ければ阿含部とも云ふべからず。般若畢竟空を説かねば般若部とも云ふべからず。大小四教の旨を説くが故に方等部と云はずんば何れの部とか云はん。又一代五時を離れて外に仏法有りと云ふべからず。若し有らば二仏並出の失あらん。又、其の法を釈迦統領の国土にきたして弘むべからず。
 次に弘法大師、釈摩訶衍論を証拠と為して法華を無明の辺域、戯論の法と云ふ事、是れ以ての外の事也。釈摩訶衍論とは、龍樹菩薩の造也。是れは釈迦如来の御弟子也。争でか弟子の論を以て師の一代第一と仰せられし法華経を押し下ろして戯論の法等と云ふべき耶。而も論に其の明文無し。随て彼の論の法門は別教の法門也。権教の法門也。是れ円教に及ばず。又実教に非ず。何してか法華を下すべき。其の上、彼の論に幾ばくの経をか引くらん。されども法華経を引く事は都て之無し。権論の故也。地体、弘法大師の華厳より法華を下されたるは遥かに仏意にはくひ違ひたる心地也。用ふべからず、用ふべからず

日蓮 花押

コメント

タイトルとURLをコピーしました