日本国は慈覚大師が大日経・金剛頂経・蘇悉地経を鎮護国家の三部と取って、伝教大師の鎮護国家を破せしより、叡山に悪義出来して終に王法尽きにき。此の悪義鎌倉に下って又日本国を亡ぼすべし。
<中略>
慈覚大師は法華経と大日経との勝劣を祈請せしに、以箭射日〔箭を以て日を射る〕と見しは此の事なるべし。是れは慈覚大師の心中に修羅の入って法華経の大日輪を射るにあらずや。此の法門は当世叡山其の外日本国の人用ふべき哉。
『曾谷入道殿御書』
又慈覚大師御入唐以後、本師伝教大師に背かせ給いて、叡山に真言を弘めんが為に御祈請ありしに、日を射るに日輪動転すと云う夢想を御覧じて、四百余年の間諸人是れを吉夢と思えり。日本国は殊に忌むべき夢なり。殷の紂王日輪を的にして射るに依って身亡びたり。此の御夢想は権化の事なりとも能く能く思惟あるべき歟。仍って九牛の一毛註する所件の如し。
『祈祷鈔』
慈覚・智証の二大師、大日の権教を以て法華の実経を破壊せり。
『大田殿許御書』
慈覚大師は伝教大師の第三の御弟子なり。しかれども上一人より下万民にいたるまで伝教大師には勝れてをはします人なりとをもえり。此の人真言宗と法華宗の奥義を極めさせ給ひて候が、真言は法華経に勝れたりとかゝせ給へり。而るを叡山三千人の大衆、日本一州の学者等一同帰伏の宗義なり。弘法の門人等は大師の法華経を華厳経に劣るとかかせ給へるは、我がかたながらも少し強きやうなれども、慈覚大師の釈をもつてをもうに、真言宗の法華経に勝れたることは一定なり。日本国にして真言宗を法華経に勝るると立つるをば叡山こそ強きかたきなりぬべかりつるに、慈覚をもつて三千人の口をふさぎなば真言宗はをもうごとし。されば東寺第一のかたうど(方人)慈覚大師にはすぐべからず。
<中略>
第三の慈覚大師御入唐、漢土にわたりて十年が間、顕密二道の勝劣を八箇の大徳にならひつたう。又天台宗の人々広修・維・等にならわせ給ひしかども、心の内におぼしけるは、真言宗は天台宗には勝れたりけり。我が師伝教大師はいまだ此の事をばくわしく習はせ給はざりけり。漢土に久しくもわたらせ給はざりける故に、此の法門はあらうち(荒唐)にみ(見)をはしけるやとをぼして、日本国に帰朝し、叡山東塔止観院の西に惣持院と申す大講堂を立て、御本尊は金剛界の大日如来、此の御前にして大日経の善無畏の疏を本として、金剛頂経の疏七巻・蘇悉地経の疏七巻、已上十四巻をつくる。
此の疏の肝心の釈に云く ̄教有二種。一顕示教謂三乗教。世俗勝義未円融故。二秘密教謂一乗教。世俗勝義一体融故。秘密教中亦有二種。一理秘密教諸華厳・般若・維摩・法華・涅槃等。但説世俗勝義不二 未説真言密印事故。二事理倶密教謂大日経・金剛頂経・蘇悉地経等。亦説世俗勝義不二亦説真言密印事故〔教に二種有り。一には顕示教、謂く三乗教なり。世俗と勝義と未だ円融せざる故に。二には秘密教、謂く一乗教なり。世俗と勝義と一体にして融する故に。秘密教の中に亦二種有り。一には理秘密教、諸の華厳・般若・維摩・法華・涅槃等なり。但世俗と勝義との不二を説いて未だ真言密印の事を説かざる故に。二には事理倶密の教、謂く大日経・金剛頂経・蘇悉地経等なり。亦世俗と勝義との不二を説き、亦真言密印の事を説く故に〕等云云。釈の心は法華経と真言の三部との勝劣を定めさせ給ふに、真言の三部経と法華経とは所詮の理は同じく一念三千の法門なり。しかれども密印と真言等の事法は法華経はかけてをはせず。法華経は理秘密、真言の三部経は事理倶密なれば天地雲泥なりとかかれたり。しかも此の筆は私の釈にはあらず。善無畏三蔵の大日経の疏の心なりとをぼせども、なをなを二宗の勝劣不審にやありけん、はた又他人の疑ひをさんぜんとやおぼしけん。
大師[慈覚也]の伝に云く ̄大師造二経疏成功已畢中心独謂此疏通仏意否乎。若不通仏意者不流伝於世矣。仍安置仏像前七日七夜翹企深誠勤修祈請。至五日五更夢当于正午仰見日輪而以弓射之其箭当日輪日輪即転動。夢覚之後深悟通達於仏意可伝於後世〔大師二経の疏を造り、功を成し畢りて中心独り謂らく、此の疏仏意に通ずるや否や。若し仏意に通ぜざれば世に流伝せず。仍て仏像の前に安置し七日七夜深誠を翹企し祈請を勤修す。五日の五更に至りて夢らく、正午に当て日輪を仰ぎ見る、弓を以て之を射る、其の箭日輪に当て日輪即ち転動す。夢覚て之後深く仏意に通達せりと悟り後世に伝ふべし〕等云云。
慈覚大師は本朝にしては伝教・弘法の両家を習ひ極め、異朝にしては八大徳竝びに南天の宝月三蔵等に十年が間最大事の秘法をきわせさせ給へる上、二経の疏をつくり了り、重ねて本尊に祈請をなすに、智慧の矢すでに中道の日輪にあたりてうちをどろかせ給ひ、歓喜のあまりに仁明天王に宣旨を申しそへさせ給ひ、天台座主を真言の官主となし、真言の鎮護国家の三部とて今に四百余年が間、碩学稲麻のごとし、渇仰竹葦に同じ。されば桓武・伝教等の日本国建立の寺塔は一宇もなく真言の寺となりぬ。公家も武家も一同に真言師を召して師匠とあをぎ、官をなし寺をあづけたぶ。仏事の木画の開眼供養は八宗一同に大日仏眼の印・真言なり。
<中略>
又天台宗の慈覚・安然・慧心等は法華経・伝教大師の師子の師子の身の中の三虫なり。此れ等の大謗法の根源をただす日蓮にあだをなせば、天神もをしみ、地祇もいからせ給ひて、災夭も大に起るなり。
『撰時抄』
慈覚大師は、本、伝教大師に稟くると雖も、本を捨て末に付き、入唐之間、真言家の人々之を誑惑する間、又大日経と法華経と理同事勝と云云。賢きに似たれども但善無畏の僻見を出でざるのみ。
『大学三郎御書』
されば慈覚・智証の二人は伝教・義真の御弟子、漢土にわたりては又天台・真言の明師に値ひて有りしかども、二宗の勝劣は思ひ定めざりけるか。或は真言はすぐれ、或は法華すぐれ、或は理同事勝等云云。宣旨を申し下すには、二宗の勝劣を論ぜん人は違勅の者といましめられたり。 此等は皆自語相違といゐぬべし。
<中略>
慈覚・智証の二人は言は伝教大師の御弟子とはなのらせ給へども、心は御弟子にあらず。其故は此書に云く ̄謹著依憑集一巻贈同我後哲〔謹んで依憑集一巻を著して同我の後哲に贈る〕等云云。同我の二字は、真言宗は天台宗に劣るとならひてこそ、同我にてはあるべけれ。我と申し下さるる宣旨に云く ̄専違先師之義成偏執之心〔専ら先師之義に違て偏執之心を成す〕等云云。又云く ̄凡厥師資之道闕一不可〔凡そその師資之道一を闕くも不可なり〕等云云。此宣旨のごとくならば、慈覚・智証こそ、専ら先師にそむく人にては候へ。
<中略>
第三の慈覚大師は始めは伝教の御弟子ににたり。御年四十にて漢土にわたりてより、名は伝教の御弟子、其跡をばつがせ給へども、法門は全く御弟子にあらず。
<中略>
されば叡山の仏法は但伝教大師・義真和尚・円澄大師の三代計りにてやありけん。天台の座主すでに真言の座主にうつりぬ。名と所領とは天台山、其主は真言師なり。されば慈覚大師・智証大師は已今当の経文をやぶらせ給ふ人なり。已今当の経文をやぶらせ給ふは、あに釈迦・多宝・十方の諸仏の怨敵にあらずや。弘法大師こそ第一の謗法の人とをもうに、これはそれにはにるべくもなき僻事(ひがごと)なり。
<中略>
慈覚・智証の義は法師と尼と黒と青とがごとくなるゆへに、智人も迷ひ愚人もあやまりて候て、此四百余年が間は叡山・園城・東寺・奈良・五畿・七道・日本一州皆謗法の者となりぬ。
<中略>
慈覚大師の夢に日輪をい(射)しと、弘法大師の大妄語に云く 弘仁九年の春大疫をいのりしかば夜中に大日輪出現せりと云云。成劫より已来住劫の第九の減、已上二十九劫が間に日輪夜中に出でしという事なし。慈覚大師は夢に日輪をいるという。内典五千七千、外典三千余巻に、日輪をいるとゆめにみるは吉夢という事有りやいなや。ゴ羅は帝釈をあだみて日天をいたてまつる。其矢かへりて我が眼にたつ。殷の紂王は日天を的にいて身を亡す。日本の神武天皇の御時、度美長(とみのおさ)と五瀬命(いつせのみこと)と合戦ありしに、命の手に矢たつ。命の云く 我はこれ日天(ひのかみ)の子孫(うみのこ)なり。日に向かひ奉りて弓をひくゆへに、日天のせめをかをほれりと云云。阿闍世王は仏に帰しまいらせて、内裏に返りてぎよしん(御寝)なりしが、をどろいて諸臣に向て云く 日輪天より地に落とゆめにみる。諸臣の云く 仏の御入滅か云云。須跋陀羅がゆめ又かくのごとし。我国は殊にいむ(忌)べきゆめなり。神をば天照という。国をば日本という。又教主釈尊をば日種と申す。摩耶夫人日をはらむとゆめにみてまうけ給へる太子なり。
慈覚大師は大日如来を叡山に立て釈迦仏をすて、真言の三部経をあがめて法華経の三部の敵となりしゆへに、此夢出現せり。例せば漢土の善導が始めは密州の明勝といゐし者に値ふて、法華経をよみたりしが、後には道綽に値ふて法華経をすて、観経に依りて疏をつくり、法華経をば千中無一、念仏をば十即十生百即百生と定めて、此義を成ぜんがために阿弥陀仏の御前にして祈誓をなす。仏意に叶ふやいなや、毎夜夢中常有一僧 而来指授(毎夜夢の中常にひとりの僧有り、来りて指授す)と云云。乃至 一如経法〔もっぱら経法の如くせよ〕乃至 観念法門経等云云。法華経には_若有聞法者無一不成仏〔若し法を聞く者有れば一として成仏せざる無し〕。善導は千中無一〔千が中に一も無し〕等云云。法華経と善導とは水火也。善導は観経をば十即十生百即百生と。無量義経に云く_観経は未顕真実〔未だ真実を顕さず〕等云云。無量義経と楊柳房とは天地也。此を阿弥陀仏の僧と成りて来て真なりと証せばあに真事ならんや。抑も阿弥陀は法華経の座に来りて、舌をば出し給はざりけるか。観音・勢至は法華経の座にはなかりけるか。此をもてをもへ、慈覚大師の御夢はわざわひなり。
『報恩抄』
恐らくは中古の天台宗の慈覚・智証の両大師も天台・伝教の善知識に違背して、心、無畏・不空等の悪友に遷れり。
『四信五品抄』
而るに智証大師は慈覚の御為にも御弟子なりしかば、遺言に任せて宣旨を申し下し給ふ。所謂真言・法華斉等也。譬へば鳥の二の翼、人の両目の如し。又叡山も八宗なるべしと云云。此の両人は身は叡山の雲の上に臥すといへども、心は東寺里中の塵にはじまはる。本師の遺跡を紹継する様にて、還りて聖人の正義を忽諸し給へり。法華経の於諸経中。最在其上。の上の字を、うちかへして大日経の下に置き、先づ大師の怨敵なるのみならず、存外に釈迦・多宝・十方分身・大日如来等の諸仏の讎敵となり給ふ。
『下山御消息』
伝教大師の御弟子に円仁という人あり。後に慈覚大師とがうす。去る承和五年の御入唐、同じき十四年に御帰朝、十年が間真言・天台の二宗をがく(学)す。日本国にて伝教大師・義真・円澄に天台・真言の二宗を習ひきわめたる上、漢土にわたりて十年が間八ヶの大徳にあひて真言を習ひ、宗叡・志遠等に値ひ給ひて天台宗を習ふ。日本に帰朝して云く 天台宗と真言宗とは同じく醍醐なり。倶に深秘なり等云云。宣旨を申してこれにそう(添)。
其の後円珍と申す人あり。後には智証大師とがうす。入唐已前には義真和尚の御弟子なり。日本国にして義真・円澄・円仁等の人々に天台・真言の二宗を習ひ極めたり。其の上去る仁嘉三年に御入唐、貞観元年に御帰朝、七年が間天台・真言の二宗を法全・良・等の人々に習ひきわむ。天台・真言の二宗の勝劣鏡をかけたり。後代に一定あらそひありなん、を存ぜん人々をば祖師伝教大師にそむく人なり、山に住むべからずと宣旨を申しそへて弘通せさせ給ひき。されば漢土・日本に智者多しというとも此の義をやぶる人はあるべからず。此の義まことならば習ふ人々は必ずほとけにならせ給ひぬらん。あがめさせ給ふ国王等は必ず世安穏にありぬらんとをぼゆ。
『随自意御書』
又天台の真言師は慈覚大師を本とせり。叡山の三千人もこれを信ずる上、随て代代の賢王の御世に勅宣を下す。其の勅宣のせん(詮)は法華経と大日経とは同醍醐、譬へば鳥の両翼、人の左右の眼等云云。今の世の一切の真言師は此の義をすぎず。此れ等は螢火を日月に越ゆとをもひ、蚯蚓を花山より高しという義なり。
『破良観等御書』
慈覚、智証短才にして二人の身は当山に居ながら、心は東寺の弘法に同意するかの故に、我大師には背て始て叡山に真言宗を立てぬ。日本亡国の起り是也。
『頼基陳状(三位房龍象房問答記)』
又慈覚大師は下野の国の人、広智菩薩の弟子なり。大同三年御歳十五にして伝教大師の弟子となりて叡山に登りて十五年の間六宗を習ひ、法華、真言の二宗を習ひ伝へ、承和五年に御入唐、漢土の会昌天子の御宇なり。法全、元政、義真、宝月、宗叡、志遠等の天台、真言の碩学に値ひ奉りて顕、密の二道を習ひ極め給ふ。其の上、殊に真言の秘教は十年の間功を尽し給ふ。大日如来よりは九代なり。嘉祥元年仁明天皇の御師となり給ふなり。仁寿、斉衡に金剛頂経、悉蘇地経の二経の疏を造り、叡山に総持院を建立して第三の座主となり給ふ。天台の真言これよりはじまる。
又智証大師は讃岐の国の人、天長四年御年十四、叡山に登りて義真和尚の御弟子となり給ふ。日本国にては義真、慈覚、円澄、別当等の諸徳に八宗を習ひ伝へ、去る仁寿元年に文徳天皇の勅を給ひて漢土に入り、宣宗皇帝の大中年中に、法全、良?和尚等の諸大師に七年の間、顕、密の二教、習ひ極め給ひて、去る天安二年に御帰朝、文徳、清和等の皇帝の御師なり。何れも現の為め、当の為め月の如く日の如く、代代の明主、時時の臣民、信仰余り有り帰依怠りなし。故に愚痴の一切偏に信ずるばかりなり。
『本尊問答鈔』
其後又伝教大師の御弟子慈覚と申人、漢土にわたりて天台、真言の二宗の奥義をきはめて帰朝す。此人金剛頂経、蘇悉地経二部の疏をつしりて、前唐院と申寺を叡山に申立畢ぬ。此には大日経第一、法華経第二、其中に弘法のごとくなる過言かずうべからず、せむぜむにせうせう申畢ぬ。智証大師又此大師のあとをついで、をんじやう(園城)寺に弘通せり。たうじ寺とて国のわざはい(禍)とみゆる寺是也。叡山の三千人は慈覚、智証をはせずは、真言すぐれたりと申をばもちいぬ人もありなん。円仁大師に一切の諸人くち(口)をふさがれ、心をたぼらかされてことば(言)をいだす人なし。王、臣の御きえ(帰依)も又伝教、弘法にも超過してみへ候へば、えい (叡)山、七寺、日本一州一同に法華経は大日経にをとりと云云。
『曾谷殿御返事』
第四の慈覚、智証、存外に本師伝教、義真に背きて、理同事勝の狂言を本として、我が山の戒法をあなづリて戯論とわらひし故に、存外に延暦寺の戒、清浄無染の中道の妙戒なりしが、徒らに土泥となりぬる事云ふても余りあり、歎きても何かはせん。
『三大秘法稟承事』
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