餓鬼・畜生道とは

餓鬼草子より

餓鬼道と申すは其の住処に二あり。一には地の下五百由旬の閻魔王宮にあり。二には人天の中にもまじつて其の相種種也。或は腹は大海の如く、のんどは鉄の如くなれば、明けても暮れても食すともあくべからず。まして五百生七百生なんど飲食の名をだにもきかず。或は己れが頭をくだきて脳を食するもあり。或は一夜に五人の子を生みて夜の内に食するもあり。万菓林に結べり。取らんとすれば悉く剣の林となり、万水海に入る、飲まんとすれば猛火となる。如何にしてか此の苦をまぬがるべき。
次に畜生道と申すは其の住所に二あり。根本は大海に住す。枝末は人天に雑はれり。短き物は長き物にのまれ、小さき物は大なる物に食はれ、互いに相食んでしばらくもやすむ事なし。或は鳥獣と生れ、或は牛馬と成りて重き物をおほせられ、西へ行かんと思へば東へやられ、東へ行かんとすれば西へやらる。山野に多くある水草をのみ思ひて余は知るところなし。

『主師親御書』

 總じて餓鬼にをいて三十六種類相わかれて候。其中に【護言+金】身餓鬼と申すは目と口となき餓鬼にて候。是は何なる修因ぞと申すに、此世にて夜討強盗などをなして候によりて候。食吐餓鬼と申すは人の口よりはき出す物を食し候。是も修因是の上し。又人の食をうばふに依り候。食水餓鬼と云ふは父母孝養のために手向る水などを呑餓鬼なり。有財餓鬼と申すは馬のひづめの水をのむがき(餓鬼)なり。是は今生にて財ををしみ、食をかくす故也。無財がきと申すは生れてより以来、飲食の名をもきかざるがきなり。食法がきと申すは出家となりて仏法を弘むる人、我は法を説けば人尊敬するなんど思ひて、名聞名利の心を以て人にすぐれんと思ひて今生をわたり、衆生をたすけず、父母をすくふべき心もなき人を、食法がきとて法をくらふがきと申すなり。
 当世の僧を見るに、人にかくして我一人ばかり供養をうくる人もあり。是は狗犬の僧と涅槃経に見えたり。是は未来には牛頭と云ふ鬼となるべし。又人にしらせて供養をうくるとも、欲心に住して人に施す事なき人もあり。是は未来には馬頭と云ふ鬼となり候。又在家の人々も、我が父母、地獄・餓鬼・畜生におちて苦患をうくるをばとぶらはずして、我は衣服・飲食にあきみち、牛馬眷属充満して我心に任せてたのしむ人をば、いかに父母のうらやましく恨み給ふらん。僧の中にも父母師匠の命日をとぶらふ人はまれなり。定めて天の日月、地の地神いかりいきどをり給ひて、不孝の者とおもはせ給ふらん。形は人にして畜生のごとし。人頭鹿〈にんづろく〉とも申すべき也。

『四条金吾殿御書』

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