聖書やコーランは因果を無視した邪見の書です。これらの書は信用に及びません。
むしろ、人類に害毒をもたらしてきたのです。
真実を言っているのは、仏典だけです。
仏は、一切の事象(森羅万象)は神の所造ではなく、ただ「因縁の和合によって一時的に成り立っているに過ぎない」と説かれています。難しいですが、これが正しい考え方、正見です。
因縁の和合とは、様々な原因と、その因を助成する条件が複雑に組み合わさって森羅万象が成り立っているということです。
因縁果報は植物に譬えれば、因は種で、縁は因を助成するもの―果実になるまでの条件、土や水などに当たります。果報は果実に譬えられます。報はその果実を収穫して出る影響などに譬えられるかな。
キリスト教なんかは「原罪」という言葉を持ち出して勝手に人間を罪ある者と定めているが、人間を始めから罪ある者と定めるのは誤った見方であり、これを邪見といいます。
アダムとイヴの悪業が全人類に原罪として背負われることありません。一切の人間は各々が作った「業」によって罪も福も背負うのであり、他者が作った悪業の報いを、そのまた他者に転換させることなど絶対にできません。
アダムとイヴがいたとしても、その罪業は、ただアダムとイヴに帰結する。全人類に波及しない。罪を背負っているかいないかはあくまで個人の問題です。
本来、人間には「罪」という定まった性、つまり性質は無く、罪業を作る時は罪人、福業を作るときは善人と仮に決まるのであって、最初から人間を罪有る者と定めることはできないのです。
「原罪」の理論に似たようなものとして、古代中国の性善説・性悪説がありますが、これも上(原罪論)と同じように因縁を無視した邪説です。

本来、人間には善悪の定まった性など無く、皆善悪の因縁があって善人とも悪人ともなるのです。
善業あるときは善性とも、悪業あるときは悪性とも仮に言うべし。
しかし、この性質は常住ではなく、一方に定まることが無いのだから、性善・性悪は永久に不毛な議論で終わってしまいます。
「人間は本来、善であるか、それとも悪であるか」という議論にとらわれること自体愚かなのです。
このような考えに執着しないで離れることが仏の教えです。
万物には定まった性、つまり性質が無く、ただ因縁によって成り立ち、永遠に存在することもなく転変と生滅を繰り返すのです。
おおよそ仏教以外の外道は因縁を無視して物事を考えます。
「万物は神の創造(邪因)によって成り立つ」
「自然(偶然・無因)に成り立っている」
「父母(陰陽)によって成り立つ」
「微塵(量子)によって成り立つ」
などと主張して、因縁あることを知りません。衆生の正見を破って邪見を植えつけます。
仏教以外の外道の教えはいくら善い面が多かろうと、結局邪見から逃れられません。
一に所観の境を明す。即ち是れ正無明の因縁より一切法を生ずと識る也。
『妙法蓮華経玄義』巻第八
若し世間の苦楽の法は毘紐天より生ずと謂い、或いは世性より生じ、微塵より生ずと言うは、皆邪因縁の生なり。
若自然法爾として誰も作者無しというは、此れ無因縁の生なり。
無因縁の生は、是れ因を破して果を破せず。邪因縁は亦是れ正因果を破す。
是れ等は悉く正因縁の境に非ざれば、応に観ずべからざる所なり。
現代語訳:第一に、観ずべき対象(観境)とは何かを明らかにしよう。
それは、正しく、無明の因縁によって、あらゆる法(現象)が生じるという道理を知ることである。
もし世間の苦しみや楽しみなどが、「毘紐天(ヴィシュヌ神)」によって生じるとか、あるいは「世の性(世間の本性)」や「微塵(物質の微細な粒子)」から生じるのだと言うならば、それらは邪な誤った因縁によって生ずるという見解である。
また、「万物は元から自然にそうなっており、創造主などいない」と言うなら、それは無因縁によって生ずるという見方になる。
「因縁無くして生ずる」という見方は、因(原因)を否定して果(結果)を否定しないという誤りである。
「邪因縁」もまた、原因の特定を誤っているので、正しい因果の道理を壊すものである。
このような見解はいずれも正しい因縁の対象(観ずべき境界)ではないので、観ずべき対象としてはならない。



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