世間の人は死後の問題、輪廻の話題になるとこういう疑問を投げ掛けることが多い。
「人は輪廻するのだろうか」「そもそも輪廻は有るのか」「あなたは輪廻を信じる?信じない?」
こういう論題に陥って不毛な議論を続けて正確な結論を得られないで終止してしまうことが多い。
誰も的確に答えられないので、かえって迷惑し無知を増してしまう。
まず、これ自体が愚かな問いである。考えても無駄なことである。愚人の習わしである。
例えば、「赤ちゃんは生まれるのか?生まれないのか?」と人に尋ねるのは愚問だ。
「何を言っているんだ、君。生まれる、生まれないの問題じゃないだろう。
『どうやったら赤ちゃんが生まれるか?』と聞くのが妥当だろう」これが的確な質問だ。
そのいきさつを知っている大人なら、「男女の営みがあったから…」と答えるだろう。
同じように、「人である生命は輪廻するのか、しないのか?」というのも愚問だ。
「何を言っているんだ、君。輪廻するか、しないかという問題じゃないだろう。
『どうやったら人は輪廻するのか?』と聞くべきだろう」これが的確な質問だ。
その道に詳しい人ならこう答える。「業があるから輪廻する」と。
「じゃあ、業が無ければ輪廻はないの?」と問われれば、まさしくその通り。
正しくは「輪廻が無い」ではなく「輪廻しない」というのが適切な答え方だ。
ここである人は「あなたは『輪廻がある』という前提で語っているじゃないか!」と指摘されるかもしれない。
いや、そういうことではない。一概に『輪廻が有る』という前提で進めているのではない。
そもそも輪廻は「有る」とか「無い」とかで論じる問題ではない。
例えば、ある家系のいずれかの子息が婚姻を続けて子息を残していけば、その家系がいつまでも続くように。
人が煩悩を背負ったまま業を止めなければ、その人は永遠に六道を輪廻する。
だから、その人に関して輪廻はあるといえる。輪廻しているから輪廻があると映るが、正確にいうと「輪廻している」だ。
対して、家系の子息が誰も結婚しなくて子息を残さなければその家系は途絶えてしまう。
人が修行して煩悩を断って業を止めれば、その人の輪廻は断ち切られる。もうその人がこれ以上輪廻することはない。
この時点でその人に関して輪廻はないといえる。ここでも輪廻が無いではなく「輪廻しない」という言い方が適切だ。
凡夫が煩悩を断たないで輪廻を繰り返しているさまを傍から見れば「輪廻が有る」ように見えるが、正確には「輪廻している」のである。
何代にもわたって続く家系があれば、
「あ、家系がある」という言い方は適切でない。「あ、家系が続いている」と見るのが正しい。この譬えを用いている意味がわかったかい?
輪廻の問題は「業」抜きには語れない。業なくして輪廻を論じるのは無意味で愚の骨頂だ。正確な結論は得られない。
業抜きにその問題を語るなら、永遠に解決できない不毛な議論を続ける羽目になる。
おそらく凡夫には前世や来世が見えず、現に今生きている一生のことしか見えないから、輪廻という仕組みが不思議でたまらないのだろう。輪廻は摩訶不思議、奇想天外、宗教的、神秘的――これは結局信仰の問題だ…と捉えてしまうのだ。
最終的には、「君は信じる?信じない?僕は信じる、いや信じない」とかという話題に陥って無意味な議論に酔わされてしまうのだ。喧々諤々の議論を続けて誰も悟らないから迷惑してさらに無知を増す。
「輪廻を信じる?信じない?」とよく問いかける人がいるが、これも愚問だ。
「いや、輪廻する『業』があれば輪廻するよ。これは信じる信じないで語る問題じゃないでしょ?」
と私なら答える。
これは例えば、「〇〇家の家系は永遠に続くか?続かないか?」と人に聞くのと同じだ。
「いや、子息が婚姻を止めなければ家系は続くよ。これは続く続かないを先に問うべきことじゃないでしょ?」と。
これだから、私はこういう議論や主張を見たり、質問されたりする度に呆れてしまう。
悟った人はその議論の愚かさが分かっているので、この問題にとらわれないし、寄り付かない。
その議論を見るたびに「あ、また始まった…。愚人が不毛な議論を始めるぞ」と見て距離を置くのだ。
だから、「輪廻は有るのか無いのか」「信じる?信じない?」という愚かな議論を止めよう。
森羅万象は因縁(業)の和合。ただ業のみあって物事は成り立つ。
森羅万象は諸法ともいい、その諸法は「縁より生ず」と説かれる。「縁起」とはこのことである。
一法として縁より生ぜざるもの有ることなし。
魔訶止観 巻第三
余談だが、輪廻の問題に限らず、何でもかんでも物事は「有る」とか「無い」で片づけようとする人が多い。
「神はいるかいないか」「霊魂は有るか無いか」「死後の世界は有るか無いか」も同じような無駄な議論で愚人が飛びつく命題だ。
宗教的、形而上の事柄について無知で考えない人が多いからほとんど誤った結論に至ってしまう。
的確な結論が得られないで悟らないと、真理から遠ざかりかえって迷惑を増す。
だから、「有る無し」で話を進めるのではなく、まず「因縁が有るか無いか」で語ろう。
「物事は縁生である」――これは仏の教えである。
まずは因縁の和合であること、「縁生」であることを悟るのだ。
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