法華経は仏説である

法華経が仏説であることは、今更我々が証明するまでもない。多宝仏が真実であると証明されたのだから、そもそも仏説でなかったらどうやって真実と証明できようか。
たとえ法華経以外の経が仏説であったとしても、真実でなかったら我々になんの益があるだろうか。
例えば、マルクスの『資本論』は「マルクスが書いたものである」ということは、今更我々が証明するまでもない自明なことだが、『資本論』の説が真実でなく、社会に利益をもたらさなかったとしたら、我々に存在価値があるだろうか。残しておく価値があるだろうか。

法華経が仏滅後、五百年以上たって世に現れたからといって、それが創作だという証明にはならない。
例えば、コペルニクスが教会を恐れて『天体の回転について』を死の間際に発表し、没後に世間に広まったのは有名な話だが、だからといって、『天体の回転について』が「コペルニクスの著述でない」と非難するのは適切だろうか。
死後に出現したからコペルニクスの著作でないと疑うのは凡人の浅墓な思惑だが、それがコペルニクスの本意だったということは、後世の人々によって語り継がれたものだ。
だから、法華経も機根に非ずの衆生の誹謗を恐れて、「弟子たちが遅れて世に出した」ということで疑わしいのは当然だろうが、それが釈迦の本意だったということは、それを読んで持つ者だけが悟るのだ。

こう言うと、ある人はこう反論されるかもしれない。

はぁ?お前そんなこと言うなら、法華経が仏説であるという科学的証拠を示せ

仏法の物差しで科学を語る分にはよいが、
科学の物差しで仏法を語るなと。
科学の見解を最優先して仏法を論じている時点で、チミは科学外道なんだ。
我々は仏法を最優先して科学以下のあらゆる学説を評す。だから、我々は仏教徒と呼ばれるのだ。
我々は科学の証明を待たない。ただ、多宝の証明を用う。

では、多宝如来が実在の人物であるということを証明しなさい

これもまた我々が証明するまでもない。現代の我々が証明できないからといって、多宝如来が実在しないという証拠にもならない。
というのも、多宝如来は十方世界で法華経が説かれた処でのみ、大地を裂いて現れ法華経を証明するのだから、法華経を聞かない者、信じない者の前では存在の証明しようがない。
日蓮も言っている。

多宝仏と申す仏は此の経にあひ給はざれば御入滅。此の経をよむ代には出現し給う

上野殿母御前御返事
それは単なる迷信ではないか?

科学で説明できなかったらすぐに迷信と決めつけるのか?
世の中科学で説明できない事柄がいくつもあるのに、それを全て迷信と割り切ってよいのか。
むしろ科学のほうこそ迷信と呼ぶべき不完全な理論が今まで何度も見つかっており、その度に塗り替えられて来たではないか。
仏法の理論は後世の人によって塗り替えられることはない。不変であるが故に、科学に勝る。

そんなSFじみた話信じられるか。…法華経はSFだ

否。そのようなことは決して言ってはならない。
法華経は真実である。

多宝如来は法華経を真実と証明し、
あなた方は法華経をSFだと言う。
多宝は仏。
あなた方は凡夫。

仏と凡夫、どちらの言を用いるべきか、よくよく考えよ。

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