仏教は天の構造を全て明らかにしている。諸天の寿命・生まれる業因・楽しみの有様、さらには、天上の城がどのような宝でできているかなど、細かなところまで詳らかであって惜しむところは無い。経を読めば分かります。
キリスト教やイスラム教に説かれる天国、地獄は部分的、あやふやであって明確ではない。これは教えとして不完全。地獄の底から天の最上階まで何層あるか、寿命は幾らか、生まれる業因は何か……惜しむことなく全て詳らかにしているのは仏教だけです。
また、天国は永遠であると思い込んでいますが、そうではありません。
これは実には無常です。天国と雖も無常を免れられません。
仏は、この世界に三災(火災・水災・風災)が起こって成懐(成立と崩壊)を繰り返すことを述べています。その成懐の年月も「劫」という単位を使って、具体的に示されています。
聖書は水災のようなものがたった一回発生した程度の事を述べ、「世界が成懐を繰り返す」ということまでは述べられていません。
世界の始終を勝手に設定しています。これは永い永い時間を見通せていないのです。
聖書の神は全知全能を主張しても、真には中身の無い凡夫と同じです。
釈迦は、天国も天の神も無常であり、苦しみを完全に脱け出した場所ではないことを、とっくに悟っております。地獄の底から天の天辺まで、この三界に不滅な場所はなく、永遠に存在する者はいないのです。
自分と自分の住む国が永遠に不滅と思い込んでいる時点で、長遠な時間(百劫先、千劫先)を見通すことができていないのです。
劫とは
「劫」というのは気の遠くなる程の非常に長い時間の流れの単位です。例えば、大きな岩山の天辺を天衣と呼ばれる非常に薄い衣で百年に一度擦りさらって、百年経って又擦りさらって……それを幾度となく繰り返して岩山が完全に尽き去ったとしても、まだ一劫には及ばないと説かれます。我々凡夫は一劫ですら、頭の中で考え込んでも気が遠くなって少しも達することはできませんよね。
釈尊は百劫先千劫先はおろか、未来の無量劫先まで、いとも容易くお見通しです。
百劫、千劫、百千万億劫、乃至無量劫の時の流れを仏菩薩以外誰が通達できるでしょうか。ヤハウェ、イエス、アッラーとて通達できるものではありません。
彼の神々は、自分たちの寿命が人間はもちろん、下級の神々より長いから誤って「私は永遠である」と思い込んでいるのです。
実には無常であって、自分の寿命が尽きる日が来るのを知らないのです。
聖書の「聖」は「名前だけの聖」であって、真実には「邪書」と言うべきです。諸々の邪見(参照記事1,記事2)を説いて、人々を邪道に陥らせた故です。
本物の「聖書」は仏典です。因縁の法を説いて、三世の事を全て見通した聖人、つまり、仏が説いた言葉が書かれているから、仏典こそ別名「聖書」と言っても過言ではないです。
キリスト教の神は全知全能を主張するが、その実は過去未来の永劫を見通せない凡夫と同じです。全知全能、一切智者はこれまた仏に限られます。
キリスト教は邪道とも魔道ともいうべきです。江戸時代の大多数の日本人の見方は正解だったのです。
世界は狂気に包まれています。
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