「原罪」の邪義

聖書やコーランは因果を無視した邪見の書です。これらの書は信用に及びません。
むしろ、人類に害毒をもたらしてきたのです。
真実を言っているのは、仏典だけです。

仏は、一切の事象(森羅万象)は神の所造ではなく、ただ「因縁の和合によって一時的に成り立っているに過ぎない」と説かれています。難しいですが、これが正しい考え方、正見です。
因縁の和合とは、様々な原因と、その因を助成する条件が複雑に組み合わさって森羅万象が成り立っているということです。

因縁果報は植物に譬えれば、「因」は種で、「縁」は因を助成するもの―果実になるまでの条件、土や水などに当たります。「果」は果実に譬えられます。「報」はその果実を収穫して出る影響などに譬えられるかな。

内種を因と為し、外加を縁と為す。

『止観弘決』巻第九

理論の欠陥

キリスト教なんかは「原罪」という言葉を持ち出して勝手に人間を罪ある者と定めているが、人間を始めから罪ある者と定めるのは誤った見方であり、これを邪見といいます。
アダムとイヴの悪業が全人類に原罪として背負われることありません。一切の人間は各々が作った「業」によって罪も福も背負うのであり、他者が作った悪業の報いを、そのまた他者に転換させることなど絶対にできません。

正しく因果の決定して孱然(現前)なりと信ず。業種久しと雖も久しく敗亡せず。
終に自ら作して他人が果を受くること無し。精しく善悪を識って疑惑を生ぜず。是れを深く信じて一闡提の心を翻破すと為す。

『摩訶止観』 巻第四
現代語訳

因果の道理を確固たるものとして正しく信じること。 業の種はたとえ永い時を経ても決して朽ちることがない。
自らが行ったことは、他人がその果報を受けることは決してない。善悪をはっきりと見極め疑いを起こさない。このことを深く信じて一闡提の心を打ち破るのである。

アダムとイヴがいたとしても、その罪業は、ただアダムとイヴに帰結する。全人類に波及しない。罪を背負っているかいないかはあくまで個人の問題です

本来、人間には「罪」という定まったさが、つまり性質は無く、罪業を作る時は罪人、福業を作るときは善人と仮に決まるのであって、最初から人間を罪有る者と定めることはできないのです。

性善説と性悪説

「原罪」の理論に似たようなものとして、古代中国の「性善説」「性悪説」がありますが、これも上(原罪論)と同じように因縁を無視した邪説です。

本来、人間には善悪の定まった性など無く、皆善悪の因縁があって善人とも悪人ともなるのです。
善業あるときは善性とも、悪業あるときは悪性とも仮に言うべし。

善男子よ、諸仏・菩薩は中道を顕示す。何を以ての故に。諸法を説くと雖も有に非ず無に非ずして決定せざればなり。
所以は何ん?眼に因に、色に因に、明に因に、心に因り、念いに因りて、識は(則)生ずることを得るも、是の識は決定して、眼の中、色の中、明の中、心の中、念いの中に在らず。亦た中間に非ず。有に非ず無に非ず。
縁に従りて生ずるが故に、之を名づけて有と為い、自性無きが故に之を名づけて無と為う。
是の故に、如来は説きて「諸法は有に非ず、無に非ず」と言う。

『大般涅槃経』高貴德王菩薩品四之五
現代語訳

善男子よ、諸仏・菩薩は中道を明らかに説き示す。なぜなら、諸法は一方的に「有る」とか「無い」で決めつけることができないからである。
例えば、眼と、対象の物質(色)、明かり、心、見ようとする念……これらの縁が合わさり、識(視覚)は生じる。
視覚は決して眼の中にあるのでもなく、物質の中にも存在せず、明かりの中にも存在せず、心の中にも存在せず、念の中にも存在しない。また、それらの中間にも存在しない。「有る」とか「無い」で一方的に言い切ることはできない。
縁によって生じるので「(善悪が)有る」と名づけられ、自ら独立した実体(自性)がないので「(善悪が)無い」と名づけられる。
それゆえ、如来は「諸法は有るのでもなく、無いのでもない」と説くのである。

分かりやすい逸話

昔、華氏国に一頭の白象がいた。この象は力強く勇猛で、敵をよく打ち破いていた。罪人がいると、その者をこの象に踏み殺させて処刑していた。
ところが後になって、象舎が火事で焼けてしまい、象は別の場所へ移された。その移転先は、一つの精舎(僧侶たちの修行道場・寺院)の近くであった。

そこにいた一人の比丘(僧)が『法句経』の偈を誦していた。
「善を行えば天に生まれ、悪を行えば深い苦しみの淵に入る」と。
白象はこれを耳にすると、心が柔らかくなり、慈悲の心を起こした。
その後、いつものように罪人を象に引き渡したが、象はその人を見るだけで害を加えず、ただ鼻で触れたり舐めたりするだけだった。

王はこの出来事を見て大いに驚き、不安になり、知恵ある臣下たちを集めて相談した。
すると、一人の臣下が王に申し上げた。
「この象が繋がれていた場所は精舎の近くでした。きっとそこで尊い教えを聞いたのでこのようになったのでしょう。今度は屠殺場の近くに繋いでみてください。殺生を見聞きすれば、悪い心が盛んになるはずです」
王はその言葉に従って、象を屠殺場の近くへ移した。
すると、象は日々の殺害の光景を見るうちに、再び凶暴な心を激しく起こし、以前にも増して残酷に人を傷つけるようになった……。
この話からまさに ↓ 以下のように知るべきである。

衆生の類、其の性は不定なり。畜生尚乃ち法を聞いて慈を生じ、悪を見て害を為す。
況んや復人をや。染習して善知識に近づかざらんや。

『止観弘決』巻第一

人間は本来、善であるか?それとも悪であるか?

という議論にとらわれること自体愚かなのです。
このような考えに執着しないで離れることが仏の教えです。
万物には定まったさが、つまり性質が無く、ただ因縁によって成り立ち、永遠に存在することもなく転変と生滅を繰り返すのです。

縁起で考えよ

おおよそ仏教以外の外道は因縁を無視して物事を考えます。

  • 万物は神の創造(邪因)によって成り立つ
  • 自然(偶然・無因)に成り立っている
  • 父母(陰陽)によって成り立つ
  • 微塵(量子)によって成り立つ

……などと主張して、因縁あることを知りません。衆生の正見を破って邪見を植えつけます。
仏教以外の外道の教えはいくら善い面があろうと、結局邪見から逃れられません。

一に所観の境を明す。即ち是れ正無明の因縁より一切法を生ずと識る也。
若し世間の苦楽の法は毘紐天より生ずと謂い、或いは世性より生じ、微塵より生ずと言うは、皆邪因縁の生なり。
若し自然法爾として誰も作者無しというは、此れ無因縁の生なり。
無因縁の生は、是れ因を破して果を破せず。邪因縁は亦是れ正因果を破す。
是れ等は悉く正因縁の境に非ざれば、応に観ずべからざる所なり。

『妙法蓮華経玄義』巻第八
現代語訳

第一に、観ずべき対象(観境)とは何かを明らかにしよう。
それは、正しく、無明の因縁によってあらゆる法(現象)が生じるという道理を知ることである。
もし世間の苦しみや楽しみなどが、「毘紐天(ヴィシュヌ神)」によって生じるとか、あるいは「世の性(世間の本性)」や「微塵(物質の微細な粒子)」から生じるのだと言うならば、それらは邪な誤った因縁によって生ずるという見解である。
また、「万物は元から自然にそうなっており、創造主などいない」と言うなら、それは無因縁によって生ずるという見方になる。
「因縁無くして生ずる」という見方は、因(原因)を否定して果(結果)を否定しないという誤りである。
「邪因縁」もまた、原因の特定を誤っているので、正しい因果の道理を破るものである。
このような見解は、いずれも正しい因縁の対象(観ずべき境界)ではないので、観ずべき対象としてはならない。

邪見のまとめ

  • 無因縁
    因を否定するが果は否定しない
    • 自然発生説
      ビッグバン・老荘の無為自然
    • 偶然
    • 運命論
      運で全て決まる

  • 邪因縁
    原因の特定を誤る。誤った原因を正しいと思い込む。果は否定しない
    • 神の創造・設計者
      仮想シミレーション
    • 陰陽
      ゾロアスター二元論
      陰陽太極図
    • 微塵(量子)
      量子力学

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